8703の部屋

「ハナマルサンの部屋」です。音楽、スポーツ 世相 等々 気ままに綴ります

わが合唱歴⑤

2011-10-15 21:08:05 | 合唱
当別高校に勤務しながら、引き続き個人的な合唱活動も続けていた。アポロ男声合唱団、札幌ズイングアカデミーの活動には可能な範囲で参加していた。しかし、アポロは上元先生が管理職として小樽を離れることになり、やがて消滅した。アカデミーも工藤先生が体調を崩されて解散に至ったが、教員になってから新たな活動(研修)の機会が出来た。それは、北海道高等学校音楽研究会(通称高音研)で、文字通り高等学校の音楽科教員で組織される研究団体であった。石狩支部の会員として札幌を含む石狩管内の先生方と交流、研修ができたことは大変貴重な体験であった。私が会員になったころには、小泉正松先生(札幌南高校)、加藤諠三先生(札幌西高校)が現職としていらっしゃり、われわれ若い教員に自らが研修を重ねることの大切さを説いてくださったものである。両先生の意思を受け継いで始まったのが「高音研演奏会」であった。

「高音研演奏会」は合唱、合奏を中心にして定期演奏会を続けていたが、私が転勤になってからも岩見沢から参加させていただいたので、相当な回数を重ねたはずである。その活動を通してももたくさんの方々との出会いがあった。恩師の武藤敏郎先生との再会があり、今も現役で大活躍中の大木秀一先生(当時藻岩高校)や井田重芳先生(東海大四高校)とは、お二人が新卒、新任の教師として出会い音楽活動を共にすることができた。

結局、当別高校には7年間勤務したが、合唱部は大きく育つことは無かった。当時、同じ町内の当別中学校には吹奏楽部があり、盛んに活動していた。そして、当然のごとく吹奏楽経験者が毎年、当別高校に入学するようになった。「当別高校にも吹奏楽部を」の気運が高くなって、1966(昭和41)年に吹奏楽部が創設された。私にとっては全く新たな世界であったが、当時国立音大の学生であった河地良智君(現洗足学園大学教授)が帰省の折に指導を仰いだり、、同大の仲間と共に全校生を対象にした音楽教室を行うなど、お世話になった。河地君は全日制第一期の卒業生(昭和39年卒)であり、当別高校の校歌を3年生の時に作曲している。

7年間はあっという間に過ぎ去ったが、その間、個人的には結婚、息子、娘の誕生などがあった。そして、1971(昭和46)年春に転勤の時がやって来た。当時、道教委では新卒6~7年で転勤の方針を立てており、それに該当する一人として校長より早くから指名を受けていた。また、転勤希望地を書くことが出来たので、第一志望として空知管内で合唱部がある学校とした。そして、ある時点で校長より「具体的なことはまだ言えないが、ほぼ貴方の希望通り進んでいます」の報告を受けた。当時、空知管内で合唱部があったのは、岩見沢東・西、滝川、深川西などであった。そして、岩見沢東高校への転勤が決まった。


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わが合唱歴⑤~教員になる(当別高校編)~

2011-10-14 11:25:47 | 合唱
1964(昭和39)年3月に北海道学藝大学を無事に卒業して、4月より北海道当別高等学校に赴任した。同校が町立から道立に移管する年であり、10月には東京オリンピックが開催された年である。指導教官(駒ヶ嶺大三先生)に呼び出されて話を聞くと、同校が求める採用条件が音楽教師で英語も指導できる人であった。教官いわく「君、中学校から大学まで英語の授業を受けてきているのだから、高校生の英語くらいは教えることができるだろう」であった。私は「一年生程度ならば何とかなるでしょうか?」と自信無さげに答えるのが精一杯であった。しかし、結局は同校にお世話になることに決め、更に詳しく聞いたところ「音楽の授業が6コマ、英語が6コマ担当」という驚くべき内容であった。~歴をたどる上で、直接合唱とは関係の無いような周辺状況に及ぶことをお許しいただきたい~

私が取得した教員免許は、小学校1級、中学校音楽1級、高等学校音楽2級であり、英語の免許は持っていなかった。もちろんその事実を知った上での採用であったので、こちらからも二つの条件をお願いした。「授業は一年生のみにして欲しい。かつ、朝一時間目の英語の授業は免除して欲しい」であった。一つ目は当然(?)として、二つ目の理由は、「前日に英語の予習が不十分であった場合に備える」であった。誠にわがままな注文であるが、無免許運転を強制(?)する側としても認めざるをえず、条件は全て飲んでいただいた。

音楽の授業は全日制と定時制で行っていたが、英語と音楽の掛け持ちはその後5年間続いた。当時の定時制の生徒に後に作家デビューした佐々木丸美さんがいた。作家といえば、私が当別高校へ赴任した年(夏)に、本庄睦夫没後?年祭とかで記念式典が当別高校を会場にして行われ、伊藤整氏ほか錚錚たる方々にお会い出来たことも懐かしい。

さて、合唱活動だが、私は教員として赴任した学校で合唱活動を行うことが第一と考えていた。しかし、無から有を成すことは容易ではなかった。私が赴任するまでは、音楽の授業を札幌から通う非常勤の先生が担当していたので、到底、クラブ指導までは行き届いていなかった。したがって、音楽系の部活は無かったのである。私は、当然合唱部の創設を考えて働きかけを始めたが、当時近隣の中学校には合唱部は無く、「合唱を続けたい、やりたい」という生徒がほとんどいなかった。しかし、授業等で声掛けを続けるうちに2,3名の生徒が意欲を示し、何とか2年目の春には合唱同好会を設立した。

当別高校は石狩管内なので、いずれは、高文連石狩大会への出場を夢見ていたのだが、なかなか人数が揃わなくて実現できなかった。当時の私には、高校生がわずか数名でステージに立つことなど思いもよらないことであった。したがって、近年、10名前後でコンクール等に出場する学校もあるので、なんとなく複雑な思いで聞くことがあります。

 部活動としては対外遠征するようなところまでは行かなかったが、ある年、家政科の授業が学級単位で実施されたので、春先から準備して秋の「高文連石狩地区音楽会」に参加させたことがあった。ほとんどの生徒が体育館以外のステージには乗ったことが無いというのに、突然、札幌市民会館のステージに立ち大いに興奮し、舞い上がっていた彼女たちの姿が懐かしく思い出される。もちろん、演奏レベルは高くは無かったが、先輩教師たちから「良く連れて来たな」と声をかけららたことも嬉しい記憶として残っている。
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わが合唱歴④~4年間を振り返って(学生時代編完結)~

2011-10-13 14:02:15 | 合唱
岩見沢での経験から、ある程度合唱の楽しさや難しさを知ることが出来た。そして、札幌へ出てからは更に多様な合唱経験を積むことが出来た。音研合唱団では、同期で合唱経験豊富な相沢保正氏の指揮で歌い、更に彼が所属していたアポロ男声合唱団への勧誘を受け、北海道合唱界の大御所とも言える上元芳男先生にお会いできたことは画期的なことであった。上元先生にはアポロ後も大変お世話になり、音楽的にも人間の生き方においても勝手に弟子入りをさせていただいたと思っている。もちろん、不肖の弟子である。

グリークラブで拙い指揮をしながらも、音研では相沢保正氏、ズイングアカデミーでは工藤健次先生、放送合唱団では平賀瑛彬先生、アポロでは上元芳男先生などの指揮で歌い、勉強できたことは大変幸せであった。ほぼ半世紀前のことなので記憶が曖昧であるが、この4年間には色々な演奏会にも参加している。コンクール、合唱祭、定期演奏会等々、指揮者として歌い手としてたくさんのステージを経験することが出来た。中でも、1963(昭和38)年12月に創立3年目の札幌交響楽団が初めてベートーヴェンの第九交響曲を演奏した時のことは鮮明に覚えている。初代常任指揮者の荒谷正雄先生の指揮で歌った。リハーサルの時から某ソリストが、ある部分でオーケストラと合わなくなり、本番では合唱団までが大いに緊張したことを覚えている。私にとって初めての第九のステージであった。その後も何度か第九を歌う機会はあったが、歌うたびに「これは合唱曲ではなく、交響曲だ!」の思いを強くしたものである。

今では遠い4年間であるが、振り返ってみればやはり多くの人に支えられた4年間であったと思っている。音楽研究室やグリークラブで出会ったたくさんの方々、音楽的にも人間的にもよちよち歩きの自分を導いてくださった恩師、先輩のみなさん、「本当にありがとうございました」の心境である。
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わが合唱歴③~岩見沢から札幌へ(学生時代)~

2011-10-12 07:34:55 | 合唱
2年間の岩見沢校での学園生活を終えて、1962(昭和37)年4月からは札幌校での大学生活後半が始まった。引き続き音楽研究室に所属し、グリークラブ(男声合唱団)にも入団した。30名程度のグリークラブであったが、なぜか理系の学生が多かった。また、音楽研究室でも有志による混声合唱団が編成されていて、夏休み中に予定されている演奏旅行に向けて練習を重ねていた。また、新たに声楽のレッスンを受けることになった工藤健次先生(故人)の教え子たちで結成されていた「札幌ズイングアカデミー」という音楽グループにも所属することになった。なお、札幌では「竜生寮」というこじんまりとした男子寮に入ったが、辰年生まれの私には大変縁起の良いところであった。そして、当時寮長であった宮武良徳君(故人)とは中学校も高校も同じ出身で、卒業後も大変お世話になった。

さて、グリークラブでは入団直後に、副指揮者への就任を依頼された。理由は「音楽専攻生であるから」であったが、私は指揮の経験は全く無かった。したがって、当初は渋っていたのだが、定期演奏会に向けて副指揮者が決まらないと練習にも支障を来たすという実情を見るにつけ、頑なに拒むことが出来ずに就任を受諾した。副指揮者は定期演奏会において一ステージの指揮を担当することになっていたので、、早速練習が始まった。たった一年半ほど、単なる歌い手としての経験しかない私には大変な重圧であった。正直に言って,この頃には、合唱の楽しさではなく、苦しさを味わっていたような気がしている。したがって、当時の団員、とりわけ役員の人たちには心配やら迷惑を掛けたことを申し訳なく思っている。

そうこうしているうちに、次期の正指揮者に決まってしまった。よほどのことが無ければ、副指揮者が正指揮者になるのは通例であったのだが、依然として指揮が楽しいとは思っていなかった。溌剌と熱意に燃える指揮者でなかったことを今でもおわびしたい思いである。
しかし、この経験が、大学卒業後に教員となった折には役に立った。授業でも部活でも、一応は指揮の初心者ではなく臨むことが出来たからである。グリークラブでは歌う機会が少なくなった大学最終年であったが、音楽研究室では夏の演奏旅行があり、日高、十勝方面を巡った。合唱があり、独唱がありで、いくつかの中学校や高等学校で楽しく歌うことが出来た。何と、その旅行の引率をして下さったのが、当時ご結婚を間じかに控えていらっしゃった川越守先生(現北海道交響楽団指揮者)であったことも懐かしい思い出である。そして、その旅行中に藤江義子さんとの出会いがあり今に至っている。

札幌ズイングアカデミーでも歌っていた。NHK札幌放送局でテレビ出演することがあり、童謡のソロを担当させていただいたこともあった。また、ズイングでは周りの人がほとんど先輩であったので、学生では到底行けないような所で美味しいお酒をご馳走になったりして、音楽以外の社会勉強もさせていただいた。また、札幌放送合唱団でも数か月間歌わせていただく機会があり、貴重な経験をさせていただいた。更に、小樽市のアポロ男声合唱団でも歌うことになった。そして、全日本合唱コンクール全国大会に出場し、出来立ての東京文化会館のステージにも立つこもできた。指揮者は大先輩の上元芳男先生(故人)であった。そして、後々ご本人から聞いたのだが、栗山文昭先生も島根県代表としてこのステージに立っていたそうである。このような状況なので、グリークラブ指揮者としてよりは、自らが歌うことに喜びを感じていた時代であったことは明白である。
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わが合唱歴②~遅いスタート(学生時代)~

2011-10-11 07:31:00 | インポート
私が合唱という言葉を意識したのは高校生になってからである。高校一年のある時、音楽の授業後に奈良勝博先生(故人)に呼び止められて「合唱部に入らないか?」と声を掛けられた。当時の私はクラブと言えば野球部しか頭に無く、その場で勧誘を断ってしまった。後々考えてみると、あの時奈良先生の勧誘に応じていたならば、もっと早く合唱との出会いがあったのだ、と少々悔いたものである。したがって、小学校、中学校、高等学校と音楽の授業はあったが、ほとんど合唱の経験は無く過ごした。小学校、中学校では音楽系のクラブは無かった。ただひたすらに、慶応大学に入って神宮球場でプレイすることに憧れていた野球少年の夢も、やがて破れて、途方に暮れる高校生活を過ごしていた。そのような様子を見るに見かねた父親から助言が入った「人間は自分の好きなこと、得意なことを生かした道に進むことが良い。お前は幼いときから音楽(歌)が好きなようだし、得意でもあるようだから音楽をやってみないか?」であった。

たしかに、小学生時代から学芸会では独唱を何度かやったり、中学時代は風呂に入れば、大声で歌うことが常であったが、それ以外には特に何もやっていなかった自分にとっては青天の霹靂であった。しかし、父親の言うことにも一理あることを感じて、無謀にも音楽を始めたのが高校二年の後半であった。父親が校長であった滝川第三小学校の寺嶋先生にバイエル、コールユーブンゲンを習い始めた。練習は放課後や休日に小学校の教室でピアノを使わせていただいた。これが8703の音楽的なスタートであったが、今時の青少年にはありえないような遅過ぎるスタートであった。そのような状況では事が順調に進むはずは無く、一年間の浪人生活を経て当時の北海道学芸大學岩見沢分校(現教育大岩見沢校)に入学し音楽を専攻することになった。そして、合唱との出会いがあった。

当時の岩見沢分校には荒又綾子先生(故人)と武藤敏郎先生(現江別混声合唱団&シルベルコール「銀の鈴」指揮者)という二人の熱心な合唱指導者がいて、音楽専攻の学生を中心に30名程度の団員を有する岩見沢分校混声合唱団があった。そして、市民合唱祭や合唱連盟主催のコンクールなどにも参加していた。私は砂川市からの汽車通学でもあり、それほど合唱に興味も無かったので、入学当初は合唱団には入っていなかった。しかし、とても和やかで家族的な雰囲気であった音楽研究室の中では、合唱をやらないことが不自然に感じ始めたこと。そして、滝川市から通学しながら熱心に活動していた菅原紀昭氏(元滝川高校教諭)の影響などもあり、一年目の途中から入団することになった。約一年半の岩見沢分校での合唱活動であったが、良き師、良き仲間に恵まれて楽しくも充実した経験が出来た。中でも忘れられない思い出は、真夏の合宿で男性は大学近くの希望寮に寝泊りをしていた。ある日、大変な猛暑となり、夜になっても猛暑はおさまらず、たまらずに、誰が言うともなく大正池(遊泳禁止の溜池)へ泳ぎに行ったことがある。そのような体験を通して、野球以外のチームプレイの楽しさを知ることが出来た。ここに私の合唱人としての原点があると思っている。


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