なつみかんの木々を見上げて

野草大好きなつみかんです。
植物園や身近な場所の植物を紹介します。

原爆ドームと平和記念公園~広島散歩2024秋(1)

2024-11-01 05:21:02 | お出かけ

先月、広島に行く機会がありました。
広島では11月を平和文化月間と定め、「平和への思いの共有につながる取組」を集中的に実施されているそうです。
そこで、11月になった今日、ほんのちょっぴりですが、広島で見た光景を投稿することにしました。
このブログの趣旨(植物)と違うので迷ったのですが、これも何かのご縁。
良かったら、お付き合いくださいませ。

仕事が16時頃前に終わったので、広島駅から路面電車の広電で平和記念公園に行くことに。
(路面電車に乗りたかった・・・)
本通で下車、商店街を通り抜けると、その先に川があり元安橋という橋がかかっていました。



橋の灯り



橋から上流方向を眺めると、右手奥に原爆ドームが見えます。
時刻は17時ちょうど。日暮れの時間です。
左岸には原爆ドームを見学する人が大勢そぞろ歩いていました。
私もその仲間に入り、原爆ドームへ。



夕日にライトアップされていました。

原爆ドームについてご存知の方が多いと思いますが、少しだけ説明すると・・・

ここは元々広島県産業奨励館として広島県の物産の展示や即売などを行っていたところでした。
昭和20年8月6日午前8時15分、米軍B29爆撃機より広島市に史上初の原子爆弾が投下されました。
爆弾は広島中心部600m上空で爆発し、一瞬で広島市街地が壊滅、多数の人命が奪われました。
広島県産業奨励館は爆心地からたったの160m、中にいた人たちは即死、建物は大破・全焼しました。
それでも爆風が上空に抜けたためか、特徴的なドームの鉄骨や周りの構造が奇跡的に残りました。



原爆の恐ろしさを風化させないために、原爆ドームを保存することが決定され、1996年には世界遺産に登録。
世界中の人々に核兵器の恐ろしさと、平和を訴える場所となったというわけです。
ちょうど日本被団協がノーベル平和賞を受賞したこともあり、多くの外国人が見学に訪れていました。
正直、日本人は見当たらないくらいでした。



原爆ドーム前から対岸の平和記念公園を臨む。夕暮れの光景が綺麗でした。
見えている橋は相生橋。原爆投下の際、目標点とされた場所だそうです。
ここを渡って、平和記念公園へ。



相生橋から下流方向を臨む光景です。左手に原爆ドームが見えています。



ハナゾノツクバネウツギ越しに原爆ドーム



平和の時計塔



大きなイチョウの木。左奥に見える建物は



平和の鐘



原爆の子供の像と、周りを取り囲む千羽鶴



塔を建設するきっかけになったのは、2歳で被爆し、12歳で白血病でこの世を去った佐々木偵子さん。
発症後わずか8カ月で亡くなったのですが、入院中、元気になりたいと鶴を折り続けたそうです。
その話が国内外に伝わり、折り鶴が平和の象徴となりました。
そして、原爆で亡くなった子供を慰霊するための塔の建設運動が起こり、この塔が生まれました。
塔の碑文には「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」
と刻まれ、国内外から送られる折り鶴の数は年間1000万羽にも及ぶそうです。

       

火が赤々と燃えていました。



こちらは平和の灯。原爆の犠牲者の追悼碑です。



原爆死没者慰霊碑です。
平和の式典には必ず出てくる場所なので、ニュースなどで見たことがある人が多いと思います。
ここでも大勢の人々がカメラを向けていましたが、手を合わせる人は皆無。
見ると、全員外国人でした。その中でひとり、手を合わせました。



時間が遅かったのですが、広島原爆死没者追悼平和祈念館だけ入ることができました。
原爆の恐ろしさと、非業の死を遂げた人々の無念や悲しさがひしひしと迫ってくるようでした。

今もウクライナや中東では戦火が続いています。
平和記念公園を訪れて、改めて戦争は絶対にやってはいけないと心の底から思いました。
温暖化などで地球そのものが危うくなっているときに、なんで協力すべき人間同士が争うのか・・・

平和記念館を出たころには辺りはすっかり暗くなっていました。
再び元安橋を渡って、広電で広島駅に戻りました。



今日の記事は重くなりました。

最後に少しだけ元気が出る話題を。
初めて、現地で広島風お好み焼きを食べました!!
一番人気なんだそうですが、ちょっとイメージと違ったかも。
ネギたっぷり、卵たっぷりで、ボリューム満点。美味でしたよ~

【撮影:2024/10下旬 広島市】

コメント (6)
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