三江線に乗ったなら、川平駅で下車して、佐々木家の墓参りをしようと考えました。
当ブログ 2010年11月12日記事 本日は出雲大社へ&38年ぶりに三江線に乗車川平駅へ
そして、いよいよ川平駅に到着。
三江線利用の最終地となりました。
駅前は、何やら、工事中となっていました。
当ブログの昔の記事に貼っていた写真。
川平駅は、砂時計という映画のロケ地に使われたとか。他人のブログ記事より。
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「▲主人公の杏が母と共に田舎に戻った時、東京の父の元に行く時、
婚約が破棄されて傷心の帰省などで何度も利用する駅は、
映画の中では「辻岡駅」という名前になっていたが
実際は、島根県江津市の<JR三江線の「川平駅」>だ。
単線の無人駅で、日に上下各5本しか列車が走っていない淋しいほどの駅だった。」
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江津の川平駅が辻岡駅に変身しました。
また天然コケッコーという映画のポスター用の撮影場所だそうです。他人のブログ記事より。
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ポスターやチラシで使われているカットは、三江線の川平駅で撮影されたそうです。川平駅は無人駅ですが、青い瓦屋根が映える大きな木造駅舎。待合室はいくつもの採光窓が並び、窓口だった所には周辺の風景を写した写真が飾ってあります。木製のベンチや運賃表など、懐かしい雰囲気がそのまま残された駅です。
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駅前で待ち合わせていた叔父さんの車に乗り、佐々木家(母の実家)跡地に。
ちなみに、駅から歩くと15分ほどかかります。
土砂崩れで、土砂の一部が家に入ったので、叔父さんは、江津市の二宮神主というところに引っ越しました。
以前、当ブログで、私が叔父さんに送った年賀状が、誤って他人の家に届き、2か月ほど遅れて届いたという記事を書いたことがあります。
原因は、地名。叔父さんの家の住所は、二宮町神主ハ それから番地が続きます。宛名を横書きで書けば、間違いなく届きますが、
年賀状での宛先は、縦書きに書きます。
すると、イロハのハ と漢数字の八 との見分けがつかなくなります。二宮町神主8- の番地の家に届けられていたという事でした。
佐々木家跡地。見える家は、隣家。
何年か前に、裏山にある多くの古い墓を合祀して、家跡に、新しいお墓を立てました。
裏山に、先祖代々のお墓がありました。
子供の時、お墓を見ていて、江戸時代の年号のものでも、佐々木という苗字がついていたので、先祖は武士だとわかりました。
神戸の霊能者からは、私の額に傷あとがあるのは、先祖が、武士で、相手の顔を切ったからその因縁と言われています。
ちなみに、額の傷跡は、3歳の時に、山本家の親戚の家で、犬のしっぽをもって振り回して、犬に引っかかれた跡です。
別の叔父が、古文書などで、佐々木家の先祖を調べたら、うちの先祖は、宇多天皇の弟の子孫だという事でした。
佐々木家の家紋
母からは、川平では、最も格式の高い家だと教えられていました。
子供のころ、川平に帰ったとき、江津市長が、川平駅前にいました。当時の江津市長は、川平町の瀬尻という集落の出という事でした。
住民は、市長さんに近づき頭を下げていましたが、母だけはしませんでした。
そして、母は教えてくれました。
おじいちゃん(母の父)と市長は、同級生。川平から上級の学校に行ったのは、その二人。
何をやっても、おじいちゃんの方が優れていて、褒美ばかりもらっていた。何をやっても劣っていた市長は、すごく、劣等感を感じていたと。
そういえば、母の葬式の時、母の姉(故・佐々木砂夫さんと親戚付き合いをしている。)が言っていました。
母が、小学生の時、成績優秀で、褒美ばかりもらっていたと。
昔は、成績優秀者には、褒美を出す習慣があったようです。
褒美と言えば、私が、高校生の時、JESとかいう通信添削を受けていました。受けていた人は、1万数千人いました。
英数国3教科ですが、国語と数学2教科だけ申し込んでいました。
各教科とも全国で成績が100位にはいると解答解説書に名前が載り、10位に入ると、賞状と記念品が届きました。
英語で1回、数学と国語では、数知れず記念品をもらいました。英語は、模試扱いの時だけ受けれたので受けました。
国語と数学の2教科の偏差値の平均で、毎回、大学合格率や志願者中順位が出されます。
神戸大学経済学部を志願大学学部として登録していました。合格率は、毎回80%以上。志願者数は、600名ほどの中で、毎回1位でした。
私の一番得意としている教科は、社会、その次が理科でした。
要するに、高校時代は、英語をのぞけば、神戸大学経済学部トップ合格もしくは、東京大学現役合格の学力を有していたわけです。
母は、旧制の島根県立川本高等女学校を首席で出ていたので、私が、勉強せずに、成績が良かったのは、血筋だと思われました。
それなのに、どうして、英語だけできないのか。ズバリ言うと、親がお金がもったいないからと塾に通わせてくれなかったからです。
母の女学校時代は、戦時中。敵国語ということで、英語の授業は禁止。ただ、川本高等女学校では、東京から疎開で川本に来ていた人が仕事がないので、
教師をしていて、教育水準はめちゃくちゃ高かったと聞いています。
それで、内緒で英語の授業もあったと母から聞いています。が、所詮は、内緒の授業。英語の学力はなしに等しいものでした。
小学校や中学校の時、宿題をしていてわからないことがあれば、母親に聞けば教えてくれていたのですが、英語だけは母もわからないので教えてもらえませんでした。
それが、私が、英語だけができないゆえんです。中学時代は、5段階相対評価 45人学級で、5はクラスで上位3名 4はクラスで1上位10名 3はクラスで19名
私の通知表では、国語・社会・理科・数学は5.英語のみ3でした。ちなみに、実技教科は、音楽が5 美術と技術が4 体育は4の時もありましたがおおむね3。
ピアノ・バイオリンなど音楽関係の習い事には行ったことはなく、家にピアノもない。学校教育で学んだだけで、音楽5(45人学級で上位3名)をとっている人は他には存在しなかったので、当時、自慢していました。
叔父さんが持ってきたお花を手向け、お線香を手向けました。
浄土真宗大谷派ですので、ろうそくは灯しませんでした。
また、線香に火をつけて、線香は立てるのではなく、寝かしていました。
真言宗の山本家のやり方とは異なります。
山本家のやり方をしてもよいと言われたので、
なむあみだぶー を何回か繰り返した後、
般若心経、光明真言をとなえました。
何年か前の豪雨で、裏山が崩れ、お墓は完全に土砂にうずもれたという事でした。
そして、新しい墓なのに、欠けが出ていました。気になりました。
佐々木家跡に植えられていた伊予かんをいただきました。おいしかったです。
叔父さんに車で、江津駅まで送ってもらいました。