NHKで、今年は、戦争の特集が続きました。初めから最後まで見ることができたのは、2本。8月14日の「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」と15日の「全記録 インパール作戦」です。
「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」では、終戦直後、樺太にソ連軍が侵攻し、多くの住民がなくなった事件を取り上げたもの。日ソ不可侵条約を破って満州に侵攻したと同様、ポツダム宣言受諾後も、連合軍の意向を無視して、スターリンが北方領土の侵略を狙って攻撃してきたのだろう、とこれまで漠然とおもっていましたが、しかけたのは実は日本のほうだと、今回はじめてしりました。
なんと、大本営は各軍に戦争終結を伝えたのに、北海道の軍司令部?の長が、自らの勝手な判断で、樺太方面軍にソ連軍が侵攻して来たら戦うよう、命令したのです。援軍も望めなければ戦うだけの武器弾薬もない。でも、「決死の覚悟で戦え」という命令が終戦直後にだされたという話でした。
大本営の命令に違反して、勝手に「本土をまもるためには、樺太で食い止めるしかない」と考え、命令を下した北海道の司令官。彼の一存で、多くの兵士と民間人の命が奪われたのです。
翌日の「全記録インパール作戦」。こちらも、軍上層部のある一人の司令官の強硬な主張によって、多大の犠牲者を出しました。この作戦が、非常に無謀な計画だったこと、日本兵の屍が延々続く道を、白骨街道と呼んでいたことは知っていましたが、詳しい経緯は今回初めて知りました。
当初は勝利していたイギリスとの闘い。でも、圧倒的な物資と周到な計画のもとに反撃を始めたイギリスに、日本はすぐに苦戦を強いられることになります。なんとか、イギリスの本拠地であるインドのインパールを占拠しようと計画したのがこの作戦。泥沼化した太平洋戦争を一気に勝機に変える作戦だと、発案者の司令官は主張しました。
作戦は、ミャンマー(当時はビルマ)の基地から、最長470キロの行軍の末、インパールを落とそうというものです。行く手には2000m級の山々が立ちはだかり、川幅600mの大きな川も流れている道なき道。しかも亜熱帯のジャングル。90000人の兵士を3週間で、3方面から向かわせる作戦です。
兵士を投入しても、食料、弾薬の補給ができないことが最大の問題。そのことを理由に反対した兵站の責任者は「大和魂にかける!」と一括され、左遷させられます。そして、決行。
案の定、3週間の予定だったのに、3か月たっても目的地にたどり着けません。それどころか、イギリス軍の空爆はもちろん、崖からの転落、飢え、溺死などによって兵士は次々に命を落とします。
NHKがイギリス公文書館の調査書を元に描いた地図。そこには、日本兵の死者の数が赤丸で記されています。でも、おどろくことに、適地にたどりつき、猛攻撃をうけて完敗を喫してもなお、本部からの撤退命令は下りません。敵陣に向かって、決死の覚悟で手りゅう弾を身につけて突っ込むことを強いられた日本兵たち。
ようやく撤去命令が下ったのは、かなりの兵士が無駄死にしてから。さきの地図には、赤丸の上に、敗退命令後に死んだ兵士の数が青まるで記されました。この青まるで、さらに凄惨な事態が浮かび上がります。敗退後の死者の数のほうが多いのです。原因は、病死と餓死。
雨季の前に作戦を終結させる予定だったのが、長引いたため、雨期に突入してしまったのです。そのため、マラリアや赤痢にかかる兵士が続出。食べ物がないので、弱った体に病原菌は追い打ちをかけます。計3万人以上の人たちが、この作戦で命を散らします。
この作戦を命じた司令官はいったんインパールの近くまで司令部を移して自らも移動しますが、撤退と決まったらいち早く単身元の安全な基地にもどります。彼付きの将校は、ずっと克明な日記をつけていて、そこには、実際に彼が聞いた、司令官たち上層部が、いかに兵士の命を軽いものとして扱っているかを暴露する言葉も記しています。彼はインパールに取り残され、撤退途中に赤痢にかかり、瀕死の状態に陥ります。
番組の中で、生き残ったもと兵士が、死んだ自軍の兵士たちの肉を切り取って食べたり、その肉を売りさばくひとたちがいたりしたことを語っていました。
数年前までは、戦場で、飢えた兵士たちが人肉を食べたという話はタブーになっていたものでした。話が出るときは、特別のことを語るといった雰囲気がありました。
でも、昨日の番組では、一つの証言として淡々と流していました。飢えをしのぐためにやむなく人肉を食ったことより、彼らに作戦の敢行命令を出し、撤退命令を出すのを遅らせ、死地に追いやった軍上層部のほうが何倍も悪い、ということをはっきり物語る編集をしていました。
最も重い責任のある現地の司令官は、戦後も生き、死ぬまで自分は間違っていなかったとの主張を曲げなかったそうです。このひとりの司令官の乱暴な計画を許可した大本営。彼より上に位置する軍人たちのなかには、無意味で無謀とわかっていたひともいるのですが、反論したら、上司から「彼(現地の司令官)の顔を立ててやれ」といわれ、口をつぐんだといいます。「彼に任せるのが情だ」といった意味の話も出ていたようにおもいます。
現地の司令官は、インパールにいるイギリス軍の戦力についても把握してなかったようです。「大和魂」だとか「顔を立てろ」だとか「情」だとか、定義の明瞭でないあいまいな言葉によって重大な決定がなされた事実。すさまじいことです。
いまでも、こうしたわけのわからない言葉はとびかい、分かったように思い、その言葉によってものごとが動く、ということは始終あります。あらためて、自戒を込めて、意味不明の言葉にたいして知ったかぶりすることはやめよう、とおもったことでした。
「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」では、終戦直後、樺太にソ連軍が侵攻し、多くの住民がなくなった事件を取り上げたもの。日ソ不可侵条約を破って満州に侵攻したと同様、ポツダム宣言受諾後も、連合軍の意向を無視して、スターリンが北方領土の侵略を狙って攻撃してきたのだろう、とこれまで漠然とおもっていましたが、しかけたのは実は日本のほうだと、今回はじめてしりました。
なんと、大本営は各軍に戦争終結を伝えたのに、北海道の軍司令部?の長が、自らの勝手な判断で、樺太方面軍にソ連軍が侵攻して来たら戦うよう、命令したのです。援軍も望めなければ戦うだけの武器弾薬もない。でも、「決死の覚悟で戦え」という命令が終戦直後にだされたという話でした。
大本営の命令に違反して、勝手に「本土をまもるためには、樺太で食い止めるしかない」と考え、命令を下した北海道の司令官。彼の一存で、多くの兵士と民間人の命が奪われたのです。
翌日の「全記録インパール作戦」。こちらも、軍上層部のある一人の司令官の強硬な主張によって、多大の犠牲者を出しました。この作戦が、非常に無謀な計画だったこと、日本兵の屍が延々続く道を、白骨街道と呼んでいたことは知っていましたが、詳しい経緯は今回初めて知りました。
当初は勝利していたイギリスとの闘い。でも、圧倒的な物資と周到な計画のもとに反撃を始めたイギリスに、日本はすぐに苦戦を強いられることになります。なんとか、イギリスの本拠地であるインドのインパールを占拠しようと計画したのがこの作戦。泥沼化した太平洋戦争を一気に勝機に変える作戦だと、発案者の司令官は主張しました。
作戦は、ミャンマー(当時はビルマ)の基地から、最長470キロの行軍の末、インパールを落とそうというものです。行く手には2000m級の山々が立ちはだかり、川幅600mの大きな川も流れている道なき道。しかも亜熱帯のジャングル。90000人の兵士を3週間で、3方面から向かわせる作戦です。
兵士を投入しても、食料、弾薬の補給ができないことが最大の問題。そのことを理由に反対した兵站の責任者は「大和魂にかける!」と一括され、左遷させられます。そして、決行。
案の定、3週間の予定だったのに、3か月たっても目的地にたどり着けません。それどころか、イギリス軍の空爆はもちろん、崖からの転落、飢え、溺死などによって兵士は次々に命を落とします。
NHKがイギリス公文書館の調査書を元に描いた地図。そこには、日本兵の死者の数が赤丸で記されています。でも、おどろくことに、適地にたどりつき、猛攻撃をうけて完敗を喫してもなお、本部からの撤退命令は下りません。敵陣に向かって、決死の覚悟で手りゅう弾を身につけて突っ込むことを強いられた日本兵たち。
ようやく撤去命令が下ったのは、かなりの兵士が無駄死にしてから。さきの地図には、赤丸の上に、敗退命令後に死んだ兵士の数が青まるで記されました。この青まるで、さらに凄惨な事態が浮かび上がります。敗退後の死者の数のほうが多いのです。原因は、病死と餓死。
雨季の前に作戦を終結させる予定だったのが、長引いたため、雨期に突入してしまったのです。そのため、マラリアや赤痢にかかる兵士が続出。食べ物がないので、弱った体に病原菌は追い打ちをかけます。計3万人以上の人たちが、この作戦で命を散らします。
この作戦を命じた司令官はいったんインパールの近くまで司令部を移して自らも移動しますが、撤退と決まったらいち早く単身元の安全な基地にもどります。彼付きの将校は、ずっと克明な日記をつけていて、そこには、実際に彼が聞いた、司令官たち上層部が、いかに兵士の命を軽いものとして扱っているかを暴露する言葉も記しています。彼はインパールに取り残され、撤退途中に赤痢にかかり、瀕死の状態に陥ります。
番組の中で、生き残ったもと兵士が、死んだ自軍の兵士たちの肉を切り取って食べたり、その肉を売りさばくひとたちがいたりしたことを語っていました。
数年前までは、戦場で、飢えた兵士たちが人肉を食べたという話はタブーになっていたものでした。話が出るときは、特別のことを語るといった雰囲気がありました。
でも、昨日の番組では、一つの証言として淡々と流していました。飢えをしのぐためにやむなく人肉を食ったことより、彼らに作戦の敢行命令を出し、撤退命令を出すのを遅らせ、死地に追いやった軍上層部のほうが何倍も悪い、ということをはっきり物語る編集をしていました。
最も重い責任のある現地の司令官は、戦後も生き、死ぬまで自分は間違っていなかったとの主張を曲げなかったそうです。このひとりの司令官の乱暴な計画を許可した大本営。彼より上に位置する軍人たちのなかには、無意味で無謀とわかっていたひともいるのですが、反論したら、上司から「彼(現地の司令官)の顔を立ててやれ」といわれ、口をつぐんだといいます。「彼に任せるのが情だ」といった意味の話も出ていたようにおもいます。
現地の司令官は、インパールにいるイギリス軍の戦力についても把握してなかったようです。「大和魂」だとか「顔を立てろ」だとか「情」だとか、定義の明瞭でないあいまいな言葉によって重大な決定がなされた事実。すさまじいことです。
いまでも、こうしたわけのわからない言葉はとびかい、分かったように思い、その言葉によってものごとが動く、ということは始終あります。あらためて、自戒を込めて、意味不明の言葉にたいして知ったかぶりすることはやめよう、とおもったことでした。