晴耕雨読とか

本読んだり、いきものを見たり。でも、ほんとうは、ずっと仕事してます。

山を読んだ。

2008年11月08日 | 
金土で富山県に行った。新幹線で越後湯沢に行って、そこから特急はくたかで富山へ。一言、遠い。

行きに登山家の山野井夫妻のヒマラヤ登山を描いた沢木耕太郎の『凍』(新潮文庫)を読む。いっきに読む。



すごい。何となく知っていたけれど、山野井さんって、、ほんとうにすごい。妻の妙子さんはもっとすごい。

エベレストとチョー・オユーのふたつの8000メートル峰に間にひっそりと、そして屹然と立つギャチュンカン(7952m)。登山というか登攀、岩と雪・氷の壁を登る話だ。そして、生きて降りてくる話だ。

正直、この夫婦は狂っているのかもしれない。なぜ山に登るのか? そんなありきたりな疑問が、強烈なパンチでどこかに行ってしまう。そして、この本で語られる登山以外でのおふたりの人柄とのギャップが、一段とその登攀の狂気が浮き上がらせる。

解説で池澤夏樹は、「感動するのは、彼らが真の意味で自由であるからだ」としている。

自由。狂気と表裏にある穏やかな人柄と日常。それは、狂う自由なのか。

ようやくたどり着いた立山で、すでに雪が降り積もった山々を見て、その狂気を思った。




一泊して早々に帰京。富山駅にある本屋で新田次郎の『劔岳 点の記』(新潮文庫)を買う。来年の夏、浅野忠信と宮崎あおいで映画化されるそうで、立山中にポスターが貼ってあって、気になって購入。



これも……いっき読み。

明治時代、未到といわれた剣岳に測量のために登った陸地測量部の記録を小説化したものだ。実録小説とでもいうか、ほぼ史実通り、、、なのだろうか?

山野井夫妻とは正反対の義務としての登山。義務と言うよりは使命といったほうがいいだろう。

日本山岳会(?)との初登頂争いも描かれるが、その紳士たる姿は、登山家新田次郎の思いなのだろうか? このへんはフィクションなのかな?

いずれにしても厳しい登山で、わたしからすると点の記の柴崎も山野井も、ざっくり似たようなものか。大きな違いは、思いという名の狂気か、使命という名の思いか、、、。

ああ、いっぱい本を読んだ出張でした。