風になりたい

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戦記小説『祝福を遠くはなれて――エンタープライズ、カミカゼの奇襲を受く』第1話『カミカゼ、来る』

2011年05月06日 23時14分06秒 | 戦記小説『祝福を遠くはなれて』(完結)
 
――すべての特攻隊員と特攻作戦の犠牲者へ捧げる。



「カミカゼ一機、本艦を目がけて急降下!」
 伝声管から見張り員の怒号が艦橋へ響いた。
 一瞬、誰もが稲妻に打たれたように立ち尽くす。まるで暗闇から迫りくる死神を発見したような慄《おのの》きと憎しみに震え、本能をむき出しにして神経を苛立たせる。男たちの獣くさい臭いがブリッジに張りつめた。波を蹴立てる艦の揺れが高まった。
 エンタープライズ艦長のタイラー大佐は双眼鏡を手にしたままそっと瞑目《めいもく》し、言葉にできない心の震えのせいで痺れた左手を握り締めた。とがり気味の鋭い顔は、主力艦の艦長にふさわしい重みと磨き上げた知性が調和し、伝統を誇る大学の教授のような、あるいは、古い修道院の学僧のような趣きがある。独特の重厚なカリスマを備えたタイラー艦長は、その場にいるだけでぴりっとした快い緊張感を周囲へもたらし、潮風が海軍士官を鍛えるようにして将兵を溌溂《はつらつ》とさせ、彼らの向上心と能力を引き出した。しかし、連日の激戦から疲労の色を濃くにじませたその顔は、親友の早すぎる死を悼《いた》む人ようにどこか寂し気で、彼の背中は雨に打たれながら土に覆われる棺を見守る葬儀の参列者のようにも見えた。
 カミカゼの攻撃を受けるたび、タイラー艦長は、お前に生きる資格などないと自分の全存在を否定されたような心持ちに襲われた。命がけの相手に狙われるのは、たしかに怖い。相手は初めから死ぬつもりなのだから、適当に追い払って諦めさせることなどできない相談だ。カミカゼは腹に爆弾を抱え、燃料タンクにどっさりガソリンをつめこんだまま突っこんでくる。まともに体当たりを喰らえば大爆発は必定《ひつじょう》だ。だが、カミカゼは死の恐怖以上の戦慄《せんりつ》を人に与える。ひとたびカミカゼに狙われたなら、私が私であることの意味を根こそぎ奪われ、太い釘を打ちこまれたように、心の奥深くがむごたらしく傷つけられてしまう。
 心の隅でなにかが崩れ落ち、それをかろうじて支える自分がいた。しかし、艦長である限り、動揺した姿を部下に見せるわけにはいかない。すぐさま険しい表情へ戻り、
「対空防御」
 と、副長に伝えて窓辺へ寄った。副長が命令を復唱する。全艦にブザーが響く。白いセーラー服の水兵たちが慌しく飛行甲板《フライト・デッキ》を走り抜ける。
 一九四五年五月十四日、午前六時五十一分。
 日本南西部、鹿児島県大隅諸島、種子島東方の沖合い。
 ヨークタウン級航空母艦CV6エンタープライズは、タイコンデロガ級航空母艦CV15ランドルフ、ノースカロライナ級戦艦BB56ワシントンをはじめとした第五十八任務部隊(高速機動部隊)の旗艦として作戦行動中だった。部隊司令官として、マーク・ミッチャー中将が坐乗《ざじょう》している。彼は、ドーリットル空襲、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦など幾多の作戦に参加し、空母部隊の戦術を熟知した百戦錬磨の指揮官だ。タイラー艦長は、以前、副官としてミッチャー中将に仕えたことがあり、すぐれた統率力と人間味を兼ね備えた中将に全幅の信頼を寄せ、心服していた。
 ミッチャー提督の指揮下、第五十八任務部隊は九州南部・沖縄方面に展開し、水上特攻をかけてきた世界最大の戦艦大和を撃沈するなど数々の戦果を上げて士気旺盛だが、カミカゼだけには悩まされた。
 先月、四月十一日には、エンタープライズとアイオワ級戦艦BB63ミズーリが特攻機によって損傷した。ミズーリは小破にすぎなかったが、エンタープライズは飛行甲板を破壊されたため、西太平洋カロリン諸島にあるウルシー泊地へ引き返して浮きドックで修理するはめになった。三日前には、エセックス級航空母艦CV17バンカー・ヒルがわずか三十秒の間にカミカゼ二機の体当たりを受けて大破。沈没は免れたものの、艦載機の誘爆がひどかったこともあって大火災を起こし、約四百名の戦死者を出している。
 この日も、早朝から日本の特攻機が襲来した。
 カミカゼとなった日本海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)六機を対空砲火で撃ち落し、直衛戦闘機によって二十機弱を撃墜したのだが、ただ一機だけ取り逃がしてしまった。生き残ったゼロ戦は執拗《しつよう》に追いかけてくる。時折、雲の間から顔をのぞかせてこちらの位置を確認しようとするので、その都度、集中砲火を浴びせかけるのだが、すぐに雲へ隠れてしまう。なかなかすばしっこい。叩き潰そうとしても、両手の間をふらりとすり抜けてしまう蚊のようだ。しかし、相手は蚊などではない。カミカゼだ。油断ならない。
 その一機がついにエンタープライズへ襲いかかってきた。
 エンタープライズのすべての機銃が火を噴き、周囲の空母や護衛艦艇も対空砲火をあげる。機銃にこめた曳光弾が無数の光の筋を曳きながらまぶしいほど澄みわたった空を貫き、投網を投げかけるようにしてあたり一面を埋め尽くす。高角砲の弾薬が上空で炸裂して黒い煙がそこかしこで乱れ咲き、蒼い大空を穢してしまう。狂っているのはカミカゼなのか? それとも我々なのか?
 タイラー艦長はゼロ戦の動きを目で追った。小さな点にしか見えなかった敵は、瞬く間に、目視ではっきりわかるほどの大きさになって迫りくる。相手はたった一機なのだが、弾幕を張ったこちらの弾は一発も当たらない。必殺を期してだろう、特攻機は目標をよく見定めるために急降下から緩降下《かんこうか》へ移ろうとする。だがその時、ゼロ戦の機体がややふらついた。エンタープライズを狙っていた鼻先がわずかに外れ、勢いあまったカミカゼはエンタープライズの真上を行き過ぎる。艦長がほっと胸をなでおろして特攻機の行く手に広がる黝《あおぐろ》い海へ目を走らせた瞬間、
「こちらへ向かってきます!」
 と、見張り員が絶叫した。
 濃緑色の機体に日の丸マークを描いたゼロ戦五十二型は、エンタープライズの進路を阻むようにして左急旋回しながら大きな弧を描く。カミカゼは大空を舞う鷹だった。堂々としていて、それでいて優美だ。白いマフラーを首に巻いたパイロットの姿がくっきり見える。タイラー艦長はその美しさにふっと見とれた。カミカゼは機体をひねりこんだまま背面飛行の状態になり、真正面から突っこんできた。
「面舵《おもかじ》一杯」
 副長のかけ声が響く。操舵手が身をよじらせて思いっきり舵を回す。舵はカラカラと音を立てて糸車のように回転する。
 間に合わない。



(第2話へ続く)


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