イチロー選手のインタビュー集を読んでいたら、彼は「僕のことを天才なんていう言葉で片付けてほしくない。僕はどれだけ努力していることか」といったことを言っていた。天才だからあれだけヒットを打てるんだと簡単に言われてしまうのがよほど悔しいようだ。
発明家エジソンの名言に「天才とは一%のひらめきと、九十九%の努力だ(Genius is one percent inspiration and ninety-nine percent perspiration.)」というのがあるけど、彼はその九十九%の努力を見てくれと強調したいのだろう。
たしかに、イチロー選手はかなりの努力家だ。血のにじむような努力を「天才」のひと言で片付けられたのではたまったものではないだろう。とはいえ、彼のファンならイチロー選手が野球のためにいろんなことを犠牲にして節制し、気の遠くなるような努力を重ねていることを知っているのだろうけど、一般の人々は彼の努力についてそれほど関心を払わない。
人は得てして他人の努力から目をそむけたり、見てみぬふりをしたりするものだ。他人が努力に努力を重ねて成功したのを見ても、「うまくやったんだろ」とか「たまたま運がよかっただけだよ」とけちをつけたりする。はては、「なんであいつが?」と首をひねったりもする。楽して生きたいと思っている人にとって、他人の努力ほど目障りなことはないのかもしれない。
他人に勝った気分になりたければ、けちをつけるのがいちばん手っ取り早い。自分が汗をかいて苦労する必要もないし、手間暇もお金もかからない。他人にけちをつけた瞬間、「俺は勝った」と快感を味わうことができる。中国の作家・魯迅《ろじん》はこれを「阿Q精神」と名づけた。中国人の代表的な精神というのだけど、中国人ばかりではない。日本人も、ほかの国の人々もこの「阿Q精神」を持ち合わせている。とりわけ、今の日本はこの「阿Q精神」化が進んでいるような気がしてならない。
若い頃、天才肌の人と話をしたことがある。
頭がいいのか気が狂っているのかわからないくらい、頭の回転の速い人だった。とても同い年とは思えない。彼は、難解な文学理論をいとも簡単そうに滔々と論じ立てる。こんな人にはとうていかなわない、と僕は素直に白旗をあげた。逆立ちしても勝てっこないというのはこのことを言うのだろうと思った。
普通の人が、1、2、3、4、5と順番にステップ踏んで上がっていくところを、天才肌の人間は、1、3、5と一段飛ばしで駆け上がってしまう。あるいは、もっと素早く1、5、8という風に。そんな姿をみれば、別世界の人だと感じてしまう。だけどよく考えてみれば、そんな人はイチロー選手のように陰でかなりの努力を積んでいる。僕が話をした彼にしても、すさまじいまでの読書家だった。片っ端から本を読破して文学理論に関する才能を磨いたのだ。
彼の場合、環境にも恵まれていた。彼のご両親がインテリの読書家だったので、幼い頃から本に囲まれて育ったのだそうだ。もちろん、いくら本に囲まれていたとしても、読まなければ意味がない。彼は、与えられた環境を十分に活用したのだ。イチロー選手にしても同じだ。幼い頃に与えられた機会をしっかり掴んで才能に磨きをかけた。
もちろん、幼い頃の環境ばかりが才能を助けるのではない。
ドストエフスキーは思想犯として逮捕されシベリアへ流刑となったけど、その過酷な流刑地で人間模様を観察し続け、思索を重ね、神に祈り続け、自分の思想を深めた。あの時、彼がやけになって努力をやめていれば、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』といった傑作は生まれなかっただろう。ドストエフスキーは流刑という人生の危機を逆手に取り、己の才能を磨いたのだ。
ただ、努力をすれば誰でも一流になれるかといえば、そうでもないだろう。生まれつきの才能というものは、やはりあると思う。なにごとにつけても、センスを感じさせる人とそうでない人がいる。向き不向きもあるし、器用な人と不器用な人がいる。残念だけど、持って生まれた才能や資質にはやはり差がある。
たとえば、僕がいくら努力してみたところで、三島由紀夫のような才能がほとばしるきらびやかな文章を書けるはずもないし、村上春樹のようなお洒落で気の利いた文章も書けない。彼らのレベルに到達することなど、夢のまた夢のそのまた夢だ。
「天才作家と呼ばれたい」
などと僕が言えば、それこそ、
「アホちゃうか」
のひと言で終わりだ。彼らと肩をならべようだなんて、おこがましいにもほどがある。
なにより、そんなことを考えるより先に、僕は自分のちっぽけな才能さえろくろく磨いてもいないのだから、プロの書き手になどとてもなれはしない。しかし、類稀な才能を持ってこの世に生れ落ちた人であっても、ただぼんやりしていたのでは才能は開花しない。これまで書いてきたように、花を咲かせた人はみな相当な努力を積んでいるのだ。
僕は凡庸だからたいしたものは書けない。それはしかたないことなのだけど、それでも僕は、僕という器と僕に与えられた場所で踏ん張るしかない。せっかくこうして生きているのだ。遅まきながら、せめて天才と呼ばれる努力家たちの爪の垢でも煎じて一歩でも近づく努力をしてみたい。まだまだ学ばなければいけないことが山ほどある。その努力する過程にこそ意味があるのだと、僕はそう信じている。
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第28話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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