火災はしずまりつつあった。破れた飛行甲板から噴き出る煙がわずかに減った。格納庫にある艦載機の撤去作業は完了し、フライトデッキの後部には、F6FヘルキャットやTBFアベンジャーなどの傷ついた艦載機が並んでいる。航空機への誘爆の危険はなくなった。
しかし、最後まで気を緩めるわけにはいかない。戦いを経験したことのない人間にはなかなか理解できないことだが、戦場心理は人を恐慌の渦へ突き落とす。とりわけ、カミカゼ攻撃を受けると心が焼け焦げるように麻痺して、周章狼狽《しゅうしょうろうばい》する者が多い。カミカゼはその破壊力以上に心理的ダメージが大きすぎるのだ。異常なストレスを受ければ、平常心を保ったまま冷静に行動することはむずかしい。通常なら考えられないようなささいな手違いや見落としから、艦を沈没へと導く致命的な誘爆を招かないとも限らない。艦長は各部署に対して異常がないかもう一度点検するよう、とくに、ガソリンが漏れていないか、気化したガソリンの異臭がしないかどうか念入りに調べるようあらためて命じた。
タイラー艦長は、厳かな縦皺を眉間に刻んだまま飛行甲板を睨み続けた。やがて、煙は途切れとぎれになり、炭酸の気が抜けるように白い水蒸気が一筋流れたかと思うと、ぱったりやんだ。伝令が消火作業を終えたことを告げにきた。
「ブリッジへ戻るよう、副長に伝えてくれ」
タイラー艦長は伝令に言った。
今のところ、死者十二名、負傷者二十七名、行方不明八名との報告が入っていた。まだすべてを確認したわけではないので、今後、死傷者数は若干増えるだろうが、それでも爆発の規模に比べればごく少なくてすんだ。カミカゼが命中した場合のことを考え、飛行甲板と格納庫からパイロットや整備員を避難させておいたのが功を奏したようだ。最悪の事態を想定して極力リスクを減らすのがダメージ・コントロールの鍵だった。
各部署から異常なしとの報告が入る。
これでダメージ・コントロール作業はほぼ完了した。タイラー艦長は小さく息をつき、ポケットから丁寧に折りたたんだハンカチを出して首筋に流れる汗を拭った。どうにか、エンタープライズを守りきった。艦を救うために奮闘した乗組員を誇りに思い、感謝の念が胸ににじむ。
ただ、黒く焼けただれた格納庫を見つめていると、底冷えするようなやりきれなさが体全身に粘ついて離れてくれない。逃れられない息苦しさに喉を締め上げられる。カミカゼを生み出したのは、日本人だけでもなければ、アメリカ人だけでもない。ほからなぬ人間の存在そのものだ。その闇は深い。
文明は社会を豊かにし、人間を幸福にするために営々たる努力によって築き上げられたのではなかったのか? 文明とは、自然に翻弄される人間の弱さを救済するためのものではなかったのか? それがこのような自殺攻撃と大量殺戮《たいりょうさつりく》を生み出すのは、なぜだ? このような現象を引き起こす人間の文明にはなにか根本的な誤謬《ごびゅう》と倒錯《とうさく》があるのではないだろうか? いや、そもそも、これが原罪から免れない人間という存在の愚かさであり、人間の限界なのだろうか? 罪深さの証明なのだろうか?
はてしない疑問が艦長の心に渦巻く。
自分もまたこのような現象を生み出した人類の一員であることに軽い眩暈《めまい》を覚え、艦長はハンカチをぎゅっと握り締めた。
ブリッジへ戻った副長に、被害箇所の応急修理、喪失した艦載機のリストアップ、残った航空機の点検と整備、遺体の収容、戦死者の遺族への報告などの作業を行なうよう指示し、独り医療室《シック・ベイ》へ赴いた。切ったこめかみの手当てがまだだった。
医療室は怪我人であふれかえっていた。どのベッドにも負傷兵が横たわり、床にも負傷者が寝かされている。焼けた人間の肉の匂いと消毒薬の匂いが入り混じり、むせかえるようだ。起き上がって敬礼しようとする兵もいたが、タイラー艦長は「そのまま」と言って手で制した。
「先生、やめてくれよ。腕をぶった切るなんてあんまりじゃねえか」
若い兵士の叫び声が響いた。間仕切りの薄いカーテンを透かして白衣を着た医師の後姿が見える。向こうのベッドに声を上げた負傷兵が横たわっているのだろう。開け放った窓から入る潮風に、白いカーテンが激しく波立っている。
「こうするしかないんだ。切断しなければ、壊疽《えそ》が広がって死んでしまう」
ドクターの声は厳しい。
「家へ帰ったらキャシディになんて言えばいいんだ。ハイ、ハニー、俺は腕を一本失ったよってか。あんまりだぜ」
「死んでしまっては元も子もないだろう。君のキャシディにも会えなくなるんだ。今ならまだ間に合う」
「俺は家具職人なんだよ。腕のない家具職人なんて洒落にならないぜ。教えてくれよ。いったい、キャシディをどうやって養えばいいんだい?」
「傷痍《しょうい》軍人恩給が出る。診断書と証明書を書いてあげるから、大切に保管しておくんだ。生活は心配しなくていい」
「そんな診断書がなんになるんだよ。俺の腕がなくなっちまったなんて証明して欲しくなんかねえよ。あんた、医者だろ。俺の腕くらい治してくれよ。な、頼むからさ」
「すまないが、家具を直すようにはいかないんだ」
「くそっ、カミカゼの野郎。ばか鳥が俺をこんな目に遭わせやがって。みじめったらありゃしねえ」
兵のすすり泣きが聞こえる。タイラー艦長はやりきれない面持ちになり、じっと床を見つめた。対空防御のつめが甘かったばかりに、また一人、若者の人生を狂わせてしまった。その責めは彼自身にあると識《し》っていた。
腕利きの衛生兵に切れたこめかみを二針縫ってもらい、艦長は医療室を出た。通路の角を曲がると、防水ハッチの脇にパイロット服を着た青年が膝を抱えてうずくまっている。
「君、具合が悪いのか」
タイラー艦長は青年の肩を揺さぶった。
「艦長」
若いパイロットはかすれた声で言い、うつろな顔をあげる。見たところ、配属されたばかりの新兵のようだ。キャッチャーのプロテクターが似合いそうなしっかりとした体つきのたくましい若者だが、目許にまだ幼さとあどけなさが残っている。小刻みに揺れるまなざしが怯え、脂汗を浮かべた顔は悪霊に魅入られた人間のように蒼ざめていた。
「とにかく医療室へ行こう」
艦長は若いパイロットの脇を取った。青年はいったん立ち上がったものの、すぐに壁によりかかり、崩れ落ちた。
「どこも怪我をしていませんから、大丈夫です。ただ――」
そこまで言って若いパイロットは喉をつまらせ、苦しそうに息をあえがせる。
「ここにいては邪魔になる。さあ、立つんだ」
タイラー艦長は彼の手を握って引き上げた。
若いパイロットは、いわゆるカミカゼ・シンドロームにかかっていた。自殺攻撃を目の当たりにして、恐怖のあまりパニックに陥る症状のことだ。戦場経験の浅い新兵に多い。カミカゼが兵の魂を深い闇の深淵へ道連れにしてしまうのだった。
彼を連れてパイロット控室へ入った。航空隊の誰かに預けようと思ったのだが、パイロットたちは全員出払っており、教室ほどの広さの部屋には誰もいない。爆発の衝撃で倒れたパイプ椅子が乱雑に折り重なり、スチール製のロッカーが倒れていた。黒板には「各自、愛機をチェック」と白いチョークで殴り書きしてある。艦長はパイプ椅子を二つ並べ、彼を坐らせた。
「名前は?」
自分も椅子に腰掛けながらタイラー艦長は訊いた。
「ウィル・スティーブンスです」
「戦場は初めてか」
「一週間前にきたばかりです。――今日、初めて人を殺しました」
顔をゆがめたウィルは救いを求めるようにして視線を宙へ走らせ、音を立てて息を吸いこむ。
「空中戦でか」
「夢中になってカミカゼを追いかけているうちに、僕の撃った弾が当たってしまったんです。十三ミリ弾が命中するまでは当たってくれと念じていましたが、いざ命中してしまうと、自分がやってしまったことの恐ろしさに気づいて愕然《がくぜん》としました。――カミカゼには人が乗っています。煙を吐いて墜落する相手を見ながら、頼むから機首を立て直して逃げていってくれと祈りました。せめて、パイロットだけでも脱出してパラシュートを開いてくれと。――ですが、ゼロ戦はきり揉みになったまま海へ激突して、白い泡になってしまいました」
「誰もが経験することだよ。私も初めて敵を撃墜した時は、後味が悪かった。だが、慣れるよりほかない。君もそのうち慣れる」
「こんなことに慣れてもいいのでしょうか。でも、慣れなくてはいけないのですね」
「軍人だからな」
「弾丸を撃ち尽くして、補給に戻ってきたら、あのカミカゼが突っこんできました。この一週間というもの怖い思いばかりでした。戦場は恐ろしいところですね。僕は、ほんとうに死ぬのが怖くてたまりせん。でも、カミカゼは自爆しにやってきたんです。そんなに平気で命を捨てられるものなのでしょうか」
「死ねと言われて、喜んで死ぬ人間なんてどこにもいない。きっと、カミカゼの若者も、出撃するまで心の整理がつかずに苦しんだのだと思う」
「それでも、自殺攻撃するなんて……。僕には理解できません。艦長は自殺する人間をどう思われますか?」
「いけないことだ。我々は神によって命を与えられた。どんなに苦しくても自分の生命をまっとうするのが人間に課せられた義務だからね。神が自殺を禁じられている」
「そうですよね。私も幼い頃からそう聞いて育ちました。でも、カミカゼは自殺します」
「正確にいえば、自殺させられるのだよ。あの攻撃は軍の上層部が命令している」
「カミカゼのパイロットはボランティアだという噂を聞きましたが」
「一応、そういう体裁にはなっているが、実際はほとんど強制らしい。複数の捕虜から得た情報だから、まず間違いないだろう」
他人の自殺は自分という存在の根源に不安を投げかける。それがカミカゼとなれば、なおさらだろう。ウィルは、自分が抱えこんでしまった不安を解消する術を見つけられずに、もがいている。必死になって答えを探っているのは、タイラー艦長も同じだ。ただ、年の功でそれが表へ現れるのを抑えているだけだった。
「僕は、オクラホマの貧しい農家の息子です。参考書一冊買うのにも苦労する絵に描いたような貧乏な家なんです。航空隊へ入れば大学の奨学金が貰えると聞いて志願しました。勉強していい仕事につきたいけど、大学の学費なんて出してもらえませんから。カミカゼのパイロットは、あんなことをしてなにか得られるものがあるのでしょうか」
「ない。感謝状くらいのものだろうな」
「では、なぜ、あんなことを」
「国を守りたい、ふるさとを守りたい、愛する人を守りたいと思っているのだよ。そんな思いは君にだってあるだろう」
「それはそうですが」
「強いて言えば、カミカゼは己を捨てて他者を助けるということになる。誰だって自分がいちばんかわいい。なんだかんだといって自分のことしか考えていないのが人間かもしれない。そんな利己心を超越して、自分を犠牲にして他人を救うという行為は、おそらく、人間の道徳としてはいちばん崇高なものだろうね。美徳の発露《はつろ》と呼べなくもない」
「でも、日本軍の提督が死ねと命令しているんですよね」
「そのとおりだ。若者の純粋な気持ちと命を利用しているのだよ」
「ますますわかりません。日本人は皆殺しにすべきだと息巻く先輩もいます。悪魔の手下はやはり悪魔ではないでしょうか。カミカゼが悪魔に思えてきます」
「同じ人間だ。悪魔などではないのだよ。今日、我々の艦に体当たりした彼も、戦争さえなければ、君と学舎《まなびや》で机を並べていたかもしれない。クリスマス・カードを交換する仲になっていたかもしれない。つらい時に助け合う親友になっていたかもしれない。胸襟《きょうきん》を開いて話せば、わかりあえるはずの同じ人間だ」
タイラー艦長はウィルの肩を叩いた。若いパイロットは目にうっすら涙をためてうなずく。今の彼に理解できるかどうかはわからないが、いつかきっとわかってくれる日がくるだろうと信じた。
パイロットが三人、連れ立って控室へ入ってきた。ウィルの姿を認めると、彼らは歓声をあげてウィルへ駆け寄る。新米パイロットは行方不明者リストに載っており、戦友たちはずっと探していたようだ。頭をくしゃくしゃにされたウィルは、泣き笑いの顔でなんども嬉しそうにうなずく。生死をわける戦場では、このような友情こそが心の命綱だった。タイラー艦長はあとを任せて部屋を出た。
狭い通路を歩き、すれ違う水兵たちと敬礼を交わしながらタイラー艦長は考え続けた。ウィルに言わなかったことがある。それは、艦長である自分は、時と場合によっては部下に死を命じることがあるということだ。エンタープライズを守るためには、誰かの命を切り捨てなければならないこともある。少数の犠牲で艦の危機を救い、大勢の乗組員の命を助けられるとしたら、もうすぐ爆発するとわかっている箇所へその者たちを派遣して作業にあたらせることもためらわないだろう。いや、ためらってはいけないのだ。たとえ、良心の痛みを感じたとしても。
もちろん、危機管理と組織的な自殺攻撃は性質の異なるものだが、そこに働く原理は同じといってよい。全体を守るためには、いつも誰かが犠牲になる。そして、誰かに犠牲を強いる指揮官がいる。人の命を踏みつけにする者は地獄へ落ちて当然だろう。だが、自分が地獄へ落ちる身と覚悟してエンタープライズを守ること。それが艦長に与えられた任務だった。その矛盾に限度いっぱいにまで耐えること。それこそが艦長としての責任だった。それは、戦争という憎しみに操られる人間の悲しい定めなのかもしれない。
ブリッジでは応急修理が始まっていた。工作班が天井へあがり、切れた配線をつなぎなおしている。
「艦長、カミカゼのパイロットなのですが、遺体の一部を収容しました。遺品もあります。トミ・ザイ、これが彼の名前のようです」
副長が待ちかねたように報告した。
「我が艦の戦死者を水葬する時に、いっしょに手厚く葬ってやってくれ」
「お言葉ですが、カミカゼに突っこまれたのは、これで二度目です。我が艦の乗組員と一緒に葬るのは気が進みません。兵をまとめるためにも、やめたほうがよろしいのではないでしょうか」
「彼は軍人として立派に任務を果たした。味方がすべて撃墜されるという過酷な状況下でひとりチャンスをうかがい、たった一人で一瞬のうちに我が艦を大破させたのだよ。彼はベストを尽くして、ベストの戦果をあげた。まさに軍人の鑑といっていい。そんな彼を丁重に葬るのは礼儀ではないかね」
「ですが――」
エンジンの爆音が上空に響く。
タイラー艦長は眉を吊り上げ、空を見上げた。
エンタープライズ艦載の偵察機が帰ってきた。SDBドーントレスだ。偵察機はバンク(翼を左右に揺らして合図を送ること)すると、エンタープライズの周囲を一周して友軍の空母を目指す。つい先ほど、激しい戦闘が行なわれていた空はなにごともなかったかのようにあざやかで、麗しい紺碧に染まっている。
「カミカゼのパイロットも、神が創造した人間であることにかわりないのだよ」
タイラー艦長は、よく透きとおるたしかな声で言った。
一瞬ごとに創造されるこの世界で、人類はいつか自らの愚かさを克服し、ともにわかりあえる日がくるだろう。愛をわかちあう日がやってくることだろう。戦いのさなかに身をおいているとはいえ、祝福の日へ向かって進むために、今ここでできることから、手の届くことからはじめよう。タイラー艦長はライト・ブラウンの瞳に静謐《せいひつ》だが力強いまなざしをたたえ、自分の胸にそっと誓った。
(あとがき)
戦後、ながらくエンタープライズ乗組員の間である畏敬の念をもってトミ・ザイと呼ばれていたカミカゼのパイロットは、筑波第六航空隊隊長の富安中尉であることが判明した。当時の海軍関係者が、富安中尉の搭乗した特攻機の機体の破片を遺族へ返還した。黙祷。
(了)
本作品は以前、「小説家になろう」サイトへ投稿したものです。
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当ブログの『祝福を遠くはなれて――エンタープライズ、カミカゼの奇襲を受く』の第1話のアドレスはこちら↓
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