「伏せろ」
タイラー艦長はさっと手を振って叫び、窓の下へ倒れこんだ。
衝撃を受けたエンタープライズは銛《もり》を刺しこまれた鯨のように軋《きし》りながら前へ沈みこむ。
爆音が轟《とどろ》く。
続けざまに打ち鳴らす釣鐘の真下にいるようで、鼓膜ばかりか内臓までも破れてしまいそうだ。
窓ガラスが一斉に砕け散る。粉々の破片がシャワーとなって降り注ぐ。熱い爆風が渦巻き、ブリッジを荒れ狂った。艦長はしたたか壁へ打ちつけられ、こめかみを切って血を流した。
まぶしい光がまぶたを貫く。閉じた瞳のなかでなにかの啓示のように光が模様を描き、きらきら輝く。ふと空を見上げると、凧のような金属性の四角い板が上空百二十メートルほどの高さで回転していた。光は、初夏の朝陽が舞い踊る冷たい板に反射して彼の目に届いたのだった。心がじんと痺れる。その光は、自分の信じているものに嘘をついてはいけないと語りかけているようだ。艦長は呆然と見つめながら立ち上がり、フライト・デッキを見下ろした。
飛行甲板の前部はずたずたに張り裂けていた。噴火口のような大きな穴が開き、まるで火山爆発でもあったかのようにすさまじい勢いで黒煙が噴き出している。前部航空機用エレベーターが跡形もなく消えていた。あの凧のように揚がったのは、どうやら吹き飛ばされたエレベーターらしい。
「被害報告。ダメージ・コントロール」
タイラー艦長は落ち着き払って指令を下した。
ダメージ・コントロールとは被害を受けた際の応急処置のことだ。航空母艦は防御力が弱く、艦載機、爆弾、魚雷、航空燃料用ガソリンなどの誘爆を招きやすいことから「卵を入れた籠」とも呼ばれる。つまり、ひとたび命中弾を受ければ卵が次々と割れるようにして甚大《じんだい》な被害を出してしまうのだ。ミッドウェー海戦で沈没した日本海軍の空母がいい例だろう。この欠点を克服するため、イギリスや日本は飛行甲板に厚い装甲を施した空母を建造したが、アメリカ海軍は被害が出るのはしかたないことと割り切り、そのかわりに損害を最小限に食いとめるための方法を徹底的に研究した。この独自のダメージ・コントロール技術のおかげで命拾いした空母は数知れない。
各部署から矢継ぎ早に被害報告が入る。
不幸中の幸いというべきか、カミカゼは格納庫内で爆発し、艦の心臓部へは到達しなかった模様だ。格納庫の床部分は主甲板《メイン・デッキ》となっており、比較的厚い装甲を施してある。それが艦を守ってくれた。重要防御区画《バイタル・パート》に被害は出ておらず、機関室、弾薬庫、ガソリン・タンクもともに無事で、今現在のところ航行に支障はない。時速三十ノット(約五十六キロ)の速力は十分に出せる。しかし、格納庫内に収容していた艦載機はことごとく被害を蒙ってしまった。破壊されたものもあれば、爆風で海へ弾き飛ばされたものもある。なかでも厄介なのは、何機かが誘爆したことだ。航空燃料のガソリンは火がつきやすく、ひとたび火に触れれば、飛行機は擦ったマッチのようにあっけなく燃え上がり爆発してしまう。ダメージ・コントロール班がすでに消火活動を始めているが、火災の勢いは強く、鎮火には時間を要する。これ以上の誘爆はなんとしてでも防がねばならない。
「副長、君が格納庫へ行ってダメージ・コントロールの指揮を直接執ってくれ。損傷のひどい艦載機は海へ投げ捨てろ。使えそうなものは後部へ移して、フライト・デッキへあげるんだ。念のため、ガソリン・タンクと弾薬庫の周囲にダメージ・コントロール要員を待機させるように」
タイラー艦長は言った
「了解」
副長は手短に答えてブリッジを出る。
ここが正念場だ。
誘爆さえ防ぐことができれば、エンタープライズは生きのびる。もちろん、万が一の場合は、艦とともに沈む覚悟はできていた。そうでなければ、艦長の座を引き受けたりはしなかっただろう。だが、艦と運命をともにするのは責任を取ったということだけであって、任務をまっとうしたことにはならない。艦長としての責務は、艦を守り、乗組員を守り、なんとしてでも生きのびて敵を撃つことだ。
各部署の状況報告に対してすべて指示を下し、打てるだけの手は打った。友軍へ被害状況を告げて医療班の応援を要請し、爆発の衝撃で海へ投げ出された乗組員がいないかどうか付近を捜索して欲しい旨《むね》を依頼した。一時間ほどすれば帰ってくるだろうエンタープライズ艦載の偵察機も味方の航空母艦が収容してくれる手筈になっている。あとは、これまで幾度も死線を乗り越えた優秀な乗組員を信じ、神に祈るよりほかない。
艦長は、あらためてブリッジを見渡した。
鉄屑とガラス片が床に散らかり、足の踏み場がない。天井の板が破れ、千切れた電気コードが垂れ下がっている。ブリッジ要員は、みな多かれ少なかれ傷を負っていた。衛生兵が重傷者を担架で運び出し、軽傷の者にはその場で手当てを施している。血のにじんだ包帯を巻いた操舵手は痛そうな素振りを見せることもなく、持ち場を離れずに舵を握っていた。
ブリッジの片隅にミッチャー中将が坐っていた。折りたたみ椅子に浅く腰掛け、やや前かがみの姿勢で腕を組み、じっと耐えるようにして目を閉じている。乱れた髪は埃にまみれ、軍服の肩のあたりが裂けていた。彼の後ろの壁では、エンタープライズの名を刻んだ銅版が傾き、波にあわせて揺れていた。
「提督、手当てはお受けになられましたか」
タイラー艦長はミッチャー中将へ近寄った。
「かすり傷じゃよ。わしは後でいい。ところで、ビッグE(エンタープライズの愛称)はどうだ? 今度も生き残れそうか?」
ミッチャー中将はかすかに目を開いた。もともと小柄な体つきで、森に住む小人の賢者を思わせる風貌《ふうぼう》の持ち主だが、激戦続きで疲労と心労が重なったことから、大手術を受けた後の老人のようにやせ細っていた。顔と首筋は皺だらけになり、潮焼けした肌は鉛のように沈んでいる。とはいえ、梟《ふくろう》のようになにかを射抜く目の輝きだけは、なにものも奪うことができずにいた。
「まだ五分五分といったところでしょう。火災がおさまるまでなんとも言えません」
「沈まんよ、このビッグEはな。不思議な幸運に恵まれた艦《ふね》だ」
「助かったとしても、本艦はもはや作戦行動を取ることができません。本土へ引き返して本格的な修理を行なう必要があります。ですので――」
「わしを厄介払いするつもりか」
ミッチャー中将はふっと少年の顔をのぞかせ、いたずらっぽく笑ってみせる。ふだんは寡黙でめったなことでは自分の感情を表さない提督だが、追いつめられるとユーモアが出た。
「ええ、丁重にですが」
艦長は穏やかに微笑んだ。窮地に立たされた自分の気を軽くするためにミッチャー中将はこのようなことを言っているのだと知っていた。実際、心の窓をすかして新鮮な空気を入れたようで、いくらか気分が楽になった。
「バンカー・ヒルに続いてビッグEまでカミカゼに大破させられるとはな。わしの乗った船はいつもカミカゼに狙われる。わしは不運を持ちこむ男のようだ。いや、愚痴を言ってすまない。それでは、空母ランドルフへ移るとしよう。あの船の艦長にわしのシーバスを預けておるのでな」
ミッチャー中将は片目をつぶった。酒豪で鳴らしたミッチャー中将だったが、太平洋戦争が始まってからというもの、きっぱりと酒を断っていた。
「内緒じゃよ。あれやこれやと考えてどうしても寝つけんことがある。神経が逆立ったようで心がざわついて眠れん夜がある。自分の出した指令が間違っておったり、命令につまらん感情がまじっておったりして反省しきりなこともある。そんな時は、一杯だけきゅっとひっかけるのだよ。心が落ち着いてすっと眠りに落ちる」
「激務でいらっしゃいますから」
タイラー艦長はいたわるように言った。
「戦争が終わったら、お前ともゆっくり酒を酌み交わしたいものじゃな。サンディエゴにスペイン風のいいバーを知っておるんだ。つんとすましているが、さばさばした気持ちのいいマダムがやっておる店だよ。たまに気が向くとギターを爪弾いて歌を聞かせてくれるのじゃが、哀愁のこもったいい歌声なんだ。蒼穹《そうきゅう》の果てにある魂のふるさとへ連れ帰ってくれるようでな」
「その時は、ぜひご相伴させてください。マダムの歌も楽しみですし、提督のお話もいろいろお伺いしたいものです」
「わしの話なんぞつまらんぞ。言葉はいらん。歌を聴いて、ただ飲み明かそう」
「何杯でもお付き合いいたします。――ところで、差し出がましいようですが、今度ばかりは戦艦へ移乗されてはいかがでしょうか」
「お前までそんなことを言うのか」
ミッチャー中将は聞き飽きたと言いた気に首を振った。
「空母の防御力には限界があります。今回はご無事でいらっしゃいましたが、次もそうとは限りません。戦艦なら安全です。分厚い装甲《アーマー》が提督を守ってくれるでしょう」
「お前は、わしがアメリカ海軍三十三番目のパイロットだったことを忘れておるようだな」
第一次世界大戦の頃、当時のミッチャー青年は装甲巡洋艦ノースカロライナに配属され、その艦に搭載していた複葉水上機カーチスFのパイロットになった。この時行なわれたカタパルト射出による飛行機発進実験が、今日の艦載機運用の基礎となった。その後、彼は航空畑を歩み、空母ホーネット艦長、ソロモン諸島航空指揮官などの輝かしいキャリアを積むことになる。いわば、アメリカ海軍航空隊の生き証人とも呼べる人物だ。
「忘れてなどおりません。提督が艦載機の黎明《れいめい》時代からご活躍だったことは周知の事実です。ですが、私が戦艦へ移るようにお勧め申し上げるのは、なにも提督御自身だけの安全をおもんばかってのことではありません。提督に万が一のことがあれば、任務部隊《タスク・ホース》の作戦そのものがとまってしまい、任務を遂行できなくなってしまいます。指揮系統の混乱から損害も増えるでしょう。提督の身がたしかであれば、部隊全体が安全でいられるのです」
「お前の言うことは一理ある。それは認めよう。じゃが、わしは絶対に戦艦なんぞには乗らん。わしはパイロットあがりの提督だ。航空隊から離れるわけにはいかん。空母に乗り組み、パイロットたちと同じ船で寝泊りし、同じ空気を吸い、同じ釜の飯を食い、互いにしょっちゅう声を掛け合うことで、パイロットたちがなにを思い、なにを考えておるのかを理解することができる。そうしてはじめて、奴らの気持ちを掴むことができるのじゃよ。兵を掌握できなければ、作戦もへったくれもない。なにごとも成し遂げることはできん。航空隊はわしの人生そのものじゃ。もしパイロットたちと一緒に死ぬことになるのなら、それこそ本望だ」
「提督のお考えはよく理解しております。ですが――」
「わしは空母に乗る。議論の余地はない」
中将の声は断固としていた。
「承知しました」
タイラー艦長はこれ以上進言しても彼の考えを変えさせることはできないだろうと思い、引き下がるほかなかった。ミッチャー中将の気持ちがわからないわけではない。タイラー大佐も同じパイロット出身だった。パイロットと生死をともにする。そんな堅い決心と深い愛着がなければ、時には非情な決断を下しながらも機動部隊を統率することなどできないだろう。そして、なにがあってもパイロットを見捨てないというミッチャー中将の確固たる姿勢が、彼らの絶大な信頼を勝ち得ていた。
艦長はランドルフへ連絡をとり、その旨を中将へ報告した。ランドルフが内火艇《ランチ》を出し、こちらまで迎えにきてくれるという。
「わしは今でも一パイロットに戻れたらと思うことがある」
提督はぽつりとつぶやいた。
「今は提督なんぞというくそったれな仕事をしておるが、やはり、大空を飛ぶのがいちばんええ。操縦桿《そうじゅうかん》を握れば、ほかのことはすべて忘れて自分が自分でいられる。嫌なことがあったり、悩み事を抱えていても、高い空から地上を見れば、そんなものは吹っ飛んでしまう。くよくよ悩んでいたことがくだらないことに思えてくる。実際、人はつまらんことばかり悩んでいるのだよ。空を飛ぶ時、わしはイカロスになる。それは今の歳になっても変わらん。少年の心へ戻るのじゃよ」
「私も、時々同じ思いを抱きます」
タイラー艦長は深く頷いた。
古来より、人は大空を飛ぶことを夢見てきた。人類のあこがれといってもいいだろう。さまざまな画家たちが翼の生えた人間を描き、天才ダビンチはヘリコプターや羽ばたき飛行機をデザインした。数々の人間が空に挑んだにもかかわらず、長い間、その夢をかなえることができずにいたが、二十世紀へ入ったばかりの一九〇三年、ライト兄弟がついに初飛行に成功した。タイラー艦長にとって、ライト兄弟は少年時代からの英雄だった。彼は自分がパイロット候補生に選ばれた時、冷静沈着な彼にも似合わず、興奮のあまり叫び声をあげて喜んだものだった。パイロットの任務は肉体を酷使する。死と紙一重の危険な状況に陥ることもしばしばだ。だが、つらいと感じたことがあっても、嫌だと思ったことは一度もなかった。
「なにより、わしはパイロットが好きなんじゃ。飛行機乗りほど気持ちのいい連中はありゃせん。たしかに、気が荒くて、口が悪くて、女にだらしない奴らばっかりだ。しかし、あいつらほど心根が優しくて純粋な奴らはおらん。仲間が危ない目に遭えば、命がけで助けに行く。あいつらの心に混じりっ気がないのは、お前も知っているとおり、大空と風の粒子が心の垢や汚れを吹き飛ばしてくれるからだ。これは世界共通じゃよ」
「同じパイロット同士なら、国家や民族や人種の違いを超えてわかりあえるような気がします」
「そうじゃな。わしは開戦当初の日本軍のパイロットと腹を割って話をしてみたかった。あいつらはただものじゃない。まさに神業じゃったよ。あんな誰にも真似できない磨きのかかった技を持つ連中は、気持ちのいい奴らに決まっておる。戦争なんぞ始まらなければ、きっと仲良くなれたことだろう」
「カミカゼのパイロットもきっといい若者たちなのでしょうね」
「うむ」ミッチャー中将はうつむいた。「まだひよっこじゃが、肚《はら》のすわったいい奴らなんだろうな」
カミカゼのパイロットは、学徒動員によって初歩の飛行訓練だけを受けた者が多かった。離陸して体当たりするだけなら、みっちり訓練を積むことも、状況に応じた飛行技術を身につける必要もない。空を飛ぶというパイロットだけに与えられた特権を味わうことも、喜びを噛みしめることもない。まさに、死ぬためだけにパイロットになったのだった。
「敵とはいえ、カミカゼの搭乗員になった若者がかわいそうでなりません」
「まったくだ。日本の司令部は相当混乱しておる。絶対に降伏したくないという思いで凝り固まっているのだろうが、あんな作戦とはいえない作戦を立てるようでは、もうおしまいじゃよ」
「提督、カミカゼはいつまで続くとお考えでしょうか?」
タイラー艦長は訊いた。カミカゼ攻撃が始まった当初こそ、意表をつかれたアメリカ軍は次々と損害を出したものだが、徹底的な対処方法を編み出した今となっては、カミカゼの命中率は非常に低かった。公式な統計はないが、おそらく二、三パーセントにも満たないだろう。特攻に使える飛行機も底をついてきたようで、日本陸海軍はもはや時代遅れとなった旧式機や、はては鈍足の練習機までも繰り出している。これでは撃ち落してくださいといわんばかりだ。だが、日本軍がカミカゼをやめる気配はない。
「やまない風はない。やめさせなければな」
ミッチャー中将は悲しそうに微笑む。その顔は泣いているようにも見えた。
ランドルフの内火艇がもうすぐ到着するとの報告が入り、ミッチャー中将は立ち上がった。
「艦長、くれぐれもビッグEを頼んだぞ。無事に本土へ帰してやってくれ」
「ベストを尽くします」
タイラー艦長は敬礼する。
「死ぬな。これは命令だ。サンディエゴのバーで奢る約束じゃからな」
ミッチャー中将は目尻に笑い皺を寄せ、わが子を見守る父のようにタイラー艦長を見つめた。
「提督もどうかご無事で」
タイラー艦長は、老いた父を気遣う息子のようにミッチャー中将のまなざしを見つめ返した。二人とも、生き残る保証はどこにもない。だが、こうして約束を交わしている限り、生き続けられるように感じた。
(最終話へ続く)