ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

ジャパンレッド・弁柄

2024-12-23 15:38:32 | 日記

お城・・・ではありません。江戸時代後期に銅山経営と弁柄関連製造で蓄財した広兼家の旧邸宅です。『八つ墓村』(1977年)のロケ地の一つだそうです。(外観)
でも,実は小雨は降るし寒いし,旧広兼邸の中は見学していません。

12月21日,
「ジャパンレッド」発祥の地ー弁柄(べんがら)と銅(あかがね)の町・備中吹屋ーに行ってきました。以前Eテレの「ハルさんの休日」で見たとき,ビックリしたのがこの赤です。


旧吹屋小学校校舎で「吉岡銅山」「弁柄」「石州瓦」の展示・説明を見て勉強。その後,散策しました。(お昼ご飯は「ハルさんの休日で紹介されていた「cafe燈」です。)

この史料(享和2(1802)年津山藩に提出された歴史的経緯と現状の報告)によると,
吉岡鉱山は「大同2(807)年草創」,「天正年中迄者毛利家御領国」,「太閤様御代ニ者粕谷助右衛門様御支配」そして,「其後当/御代ニ相成小堀□助様御見分・・・」となっています。
他の展示を見ていくと,18世紀に銅山から良質な硫化鉄鉱が産出され,本格的な弁柄製造が始まったそうです。
弁柄は,硫化鉄鉱から製造され,漆器や赤絵付(九谷焼・伊万里焼・輪島塗などの赤),建築・建具等(防腐・防錆)に使われました。吹屋の弁柄は全国の約95%のシェアを占めていたこともあるそうです。だから,この吹屋地区は,弁柄の赤の壁や瓦(石州(石見・現在の島根県)から瓦職人を連れてきて作らせた。)なのです。
広兼家(現在の正確な住所では吹屋ではない),片山家などの地元の豪商が弁柄の製造・販売で大もうけしたというわけです。
片山家とその分家(現在は吹屋ふるさと村郷土館)は見学しましたが,広兼家ほどではないものの,とても大きな家で迷路のよう・・・。
どれほど儲けたのでしょう!?!
ノスタルジックなまち並みにうっとりのんびりではないひねくれもののATSUでした。
コメント (2)
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宮島へ その1;江戸時代以降

2024-12-05 16:59:59 | 日記
12月4日,憧れの宮島へ 
宮島桟橋から表参道商店街を歩き,厳島神社へ向かったのですが,厳島神社についてはまた後日。
今日は,江戸時代以降の宮島について・・・
「世界遺産 日本三景 宮島」というパンフレットによると,
「昔から「神の島」と崇められてきた宮島は,美しい瀬戸内海に浮かぶ歴史と浪漫の島」とあります。
まさに,そうなのですが,宮島歴史民俗資料館の展示を見ると,
江戸時代,歌舞伎に富くじに遊郭!伊勢やこんぴらさんといっしょですね。


桟橋までの帰り道,今度は表参道商店街を通らずに,町家通りを通りました。
そこにあった看板「名所 金鳥居の辻」(写真左下)には,「往昔辻君の住み居たる處」と書いています。

今日,田中優子『遊郭と日本人』を借りてきました。

PS.本当は,いっぱい書いていたのですが,まちがえて消してしまいました。
というわけで,今回は短め。ショック (´;ω;`)ウゥゥ
PS.今日,図書館で小松茂美『図説 平家納経』を予約しました。
厳島神社宝物館で平家納経のことを質問していたら,この本を紹介してくれました。

(12月7日の追記)
「江戸時代以降」といいながら,「以降」がない・・・
ということで,追記
上に書いた宮島歴史民俗資料館の展示には,宮島のしゃもじについても書かれているものがありました。
宮島しゃもじのおこりは,他にもいろいろ書かれているので,パスします。
なぜ広まったのかというと,日清戦争の時,大本営が広島にうつされ,宇品(うじな)は,戦場に兵士や物資を送り出す拠点でした。
「全国から召集された兵士が広島の宇品港から出征する際、厳島神社に無事な帰還を祈願し、「敵をめしとる」という言葉に掛けて杓子を奉納し、故郷への土産物として持ち帰ったことから、全国的に知られるようになった」と,「広島文化大百科」にも書かれています。
・・・・しゃもじをお土産に買う気がうせました。

(12月7日 もう一つ追記)
田中優子『遊郭と日本人』今読んでいますが,16ページには,こんなことが書かれていました。
幕府公認遊郭(1678年)
江戸吉原のほかにも,大坂の新町,京都の島原,(中略)播磨の室津(室津の遊郭についてはだいたいの場所も知ってはいましたが, Σ( ̄□ ̄|||) ),備後の鞆,安芸の宮島,(後略)

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旧金毘羅大芝居「金丸座」;残念ながら中には入れませんでした。

2024-05-11 14:52:12 | 日記
伊勢も,こんぴらさんも「聖」だけでなく,「俗」があるから参詣(?)するわけで,この点については後日また。
と書いてから,また20日もたってしまいました。
ブラタモリで言っていた「俗」の部分,旧金毘羅大芝居「金丸座」です。

ブラタモリによると,ここでは,江戸時代に富くじが行われていました。
注目すべきはその頻度,出雲では年2回だったけど,こんぴらさんでは月にほぼ2回だったそうです。
中にも入りたかったのですが,まもなく四国こんぴら歌舞伎大芝居,とのことで,入れませんでした。
それにしても,松本幸四郎さんなど,錚々たるメンバーが来るのですね。
NHKのカメラが私が写真を撮っている横に控えていて,
「今,神事やっているから・・」と小声で。
写真だけ撮ってこの場を離れました。

PS. 順番があとさきしますが,下の写真は金刀比羅宮から下っている途中にあった宝物館です。

(中は写真撮影不可)
江戸時代の「象頭山社頭並大祭行列図屏風」ははりついて見ました。
あれっと思ったのが,「蒙古襲来絵詞模本」
宝物館の方は,「この宝物館は日露戦争戦勝を記念して建てられたんですよ。」とのこと。
昨年,3回にわたって私は「地元の神社から戦争と平和を考える・・・」を書きました。
そして,「ひとりごと(「地元の神社から・・」「ちょっと気になる絵馬」等)」を昨年5月に書きました。
今回も,「神社」について考えさせられました。

膨大な犠牲者が出たにもかかわらず,作戦が「成功」と評価されたことで,人的犠牲に対する感覚のマヒが陸軍の中で起きたことは確かである。なるべく人的な被害を少なくして任務を達成するのではなく,犠牲を恐れず任務を遂行することが称揚されるようになった。これは,人的犠牲の多さは指揮官の「勲章」であるといった転倒した意識を陸軍に植え付けることになるのである。(山田朗『戦争の日本史20 世界史の中の日露戦争』282ページ)
戦争にはいつの時代にも〈美談〉はつきものであるが,(中略)失敗を失敗と認めず,むしろそれが日本的な戦いである,日本的な軍人の行動である,と変換してしまったという点で,日露戦争とその後のあり方そのものを象徴するものであったといえよう。(山田朗『戦争の日本史20 世界史の中の日露戦争』309ページ)

話がこんぴらさんからどんどん逸れていくので,この辺りで終わります。

とはいえ,ずっといきたかったこんぴらさん,
行けてよかったです !(^^)!
やっぱり,行かないとわからない!
今度は,旧金毘羅大芝居「金丸座」の中に絶対入りたいです!

6月には,兵庫県立兵庫津ミュージアムの
企画展「温泉♨と 西国三十三か所巡礼 ーひょうごを巡る旅ー」
に行こうと思っています。
チラシの「温泉を巡る旅」「聖地を巡る旅」っていう言葉がいいですね。
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金毘羅信仰

2024-04-22 14:14:15 | 日記
「続きは後日」と書いてから20日近くたってしまいました。
実は,ほぼ書けていたのに,間違えて全部消してしまったのです。 ( ;∀;)
気を取り直して,



写真は金刀比羅宮・大門を入って,五人百姓のすぐ先です。
桜の写真を撮りたかったのではありません。奉納されている燈籠の写真を撮りたかったのです。
「特別展「江戸時代庶民の旅~金毘羅参りと室津~」2015年」に
印南敏秀氏が「金毘羅参りと室津」を書いています。
そこには,このあたりに,嶋屋半四郎(嶋屋は現在は室津海駅館になっている)奉納の燈籠がある,と書かれているのですが,どこにあるのかよくわかりませんでした。
でも,たくさんの燈籠は,江戸時代の人々がこんぴらさんを信仰し,参詣したことを物語っていると思います。

さて,金毘羅信仰
せとうち観光専門職短期大学の「観光Web講義」の一つ,
谷崎友紀氏の「こんぴら詣での今昔」によると,
江戸時代,旅人たちは,伊勢参宮を終えたのちに金毘羅参詣をおこなうようになり,旅の範囲が広がり,金毘羅参詣が流行したことで,旅人たちは瀬戸内海を越えて讃岐国を訪れ,そのまま厳島神社や錦帯橋まで足を延ばす者も現れたそうです。
現在,金刀比羅宮は主祭神を大物主命とし,崇徳上皇を合祀しています。農業・殖産・医薬・海上守護など広汎な神徳を持つ神様だといわれています。
でも,私には,海上守護が一番しっくりきます。
以前,「ブラタモリ」で,帆のついた樽のようなものを瀬戸内を通る船が海に落とし,漁師がそれを担いで金刀比羅宮に運んでいた,と言っていました。実際に,宝物館でこの樽のようなものが展示されていました。
北前船などの船員が,あちこちで金刀比羅宮の話をし,金毘羅信仰は広がったと言っていたと思います。
もちろん,伊勢も,こんぴらさんも「聖」だけでなく,「俗」があるから参詣(?)するわけで,この点については後日また。

785段の階段を登るのは,さほど疲れませんでしたが,
登りは階段ばかり見ていたように思います。
お参りして,階段を降りる時に見た景色・・・満開近かった桜や,人々が階段を登っている様子,大門を出てからはお土産屋さんで買い物を楽しんでいる人々の姿,・・・いいですね。
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こんぴらさんへ

2024-04-04 11:11:01 | 日記
♪こんぴらふねふね・・・♪
ふねふね?
相生発10時27分の新幹線こだまに乗り,わずか16分で岡山に
岡山で乗り換え,11時5分発特急南風に乗り,
琴平着はなんと12時5分!!
相生からわずか1時間半余りで琴平に着いてしまうのです。
もちろん船に乗るわけでなく,瀬戸大橋をぴゅ~んと通ると,四国です。

さて,江戸時代
天明6(1786)年の西国巡礼が目的の『西遊紀行』によると,
著者は,伊勢参りの後和泉・河内・大和・京都・丹波・摂津の西国札所を巡り,播磨路の名所旧跡を訪ね,
その後,室津から船に乗り,明け方丸亀に着き,金毘羅参りの後善通寺に引き返して泊まり,
翌日,善通寺に参って丸亀から児島に渡って泊まったそうです。
安政4(1857)年の「道中安全帳」によると,
商人の田村善蔵は,伊勢参りの後,大和を巡り,住吉大社に参り,その後,大坂で芝居を見て夕方に金毘羅船に乗り,
丸亀には3日後の早朝に着き,金毘羅に参って,お札を受けた後,善通寺に参り,丸亀で泊まり,丸亀から児島に渡ったそうです。
(特別展「江戸時代庶民の旅~金毘羅参りと室津~」2015年)
そうです。
この特別展を室津海駅館で見てから,ずっとこんぴらさんに行きたかったのです。
そこにあった1枚の古文書
「船持中渡世につき嘆願」(文化13(1816)年,佐藤家文書)
けっこう読みやすい文書で,当時,翻刻文や解説も見ながら,かじりついて読んだことを覚えています。
室津の渡海船業者が網干などの業者に客をとられて困窮している,と嘆願している文書です。

それから約9年
2024年4月2日
やっとこんぴらさんに行きました!
続きは後日・・・


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