ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

ここには龍野藩脇坂家などの屋敷があったんですね。(旧新橋停車場)

2024-10-29 08:42:11 | 日記 地域
10月26日,27日,私は用事で東京に行っていました。
でも,ちょっとだけ,東京観光!旧新橋停車場へ・・・。

遺構が良好な状態で発掘されたため,そこを埋め戻し,1872(明治5)年に開業した日本初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を忠実に復元してその真上に建設したそうです。


こちらは,線路側から,プラットホームを写しました。

私が一番興味を持ったのは,プラットホーム両側面の真下に使われている基礎石。 (この写真は,展示室にあった「開業当時の駅舎基礎石の遺構」です。)
なんと,この基礎石は龍野藩脇坂家や仙台藩伊達家の礎石などが使われたとのこと。
展示室にあった尾張藩版「芝口南西久保愛宕下之図」(安政2年改正)を見ると,ちょうど駅舎が建てられたであろう場所には,「脇坂淡路守」の名が・・!

確か,「ブラタモリ」でも新橋停車場やっていましたよね。
ん・・・録画したのが残っているかな?探そうっと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

次はたたら製鉄の遺跡を見に行きたいです。

2024-10-18 11:14:56 | 日記 地域
去年の夏,朝来市にある神子畑(みこばた)選鉱場跡,養父市の明延鉱山に行きました。
次は,宍粟市のたたら製鉄だ!と思いながらも,なかなか行けませんでした。
でも,ますます行きたくなりました。というのは・・・
  兵庫県立歴史博物館 特別展「ひょうご鉄ものがたり」に昨日行ってきました。(写真撮影正面のここだけ可,あとは不可)
展示室に入る前,30分ほどのビデオを見て,たたら製鉄とはどういうものかを学びます。
その方が展示がわかりやすい,とのことです。
でも,あんまりよくわかりませんでした。
江戸時代のたたら製鉄のイメージがそれなりにできたのは,「先大津阿川村山砂鉄洗取之図」(江戸時代末期)です。
全長27mもある絵巻で,山口県の白須たたらでの製鉄の様子を中心に描かれています。
私が一番おそろしく(?)なったのは,大量の木が必要であるということ。
場所を移動しながら,必要な木を伐っていきます。
木を伐ったあと,木を植え,使える木に成長するまでに30年。
30年たったら,また伐採。
実は,私はまだ宮崎駿氏の「もののけ姫」を見たことがありません。
見るべきですね,きっと。

先日「れきはく連続講座 古文書に親しむ(「鉄」関連文書を読む)」の申し込みをしました。
今回の展示古文書についてはまた後日。
抽選に外れるかもしれませんが。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感動!地元の江戸時代の絵図!でも,写真撮影不可です。(「揖保川の土産」より)

2024-10-06 15:46:17 | 日記 地域
 我が家のすぐ近くを揖保川が流れています。

10月5日,たつの市立龍野歴史文化資料館の特別展「揖保川の土産~日本一を育んだ暴れ川の歴史~」に行ってきました。何と初日です。
たつのの産業うすくち醤油,素麺,鮎などを中心とした展示でしたが,
私が感動したのは,揖保川流域の絵図。
しかし,今回の展示はほぼ全部写真撮影禁止・・・残念 ( ;∀;)
仕方ありません。自分で手書きで写しました。(下手な絵ですが,私が重要と思うところはまずまず書けたと思います。)

「新在家村絵図」天保8(1837)年です。(現在の姫路市網干区新在家)
斜め線。「///」のところは,川または海,「垣内村」から「興之濱村」にかけての「///」が揖保川です。
新在家村はほぼ龍野藩。だから,たつの市の資料館に絵図があったりするのですね。
私が特に感動したのは,「塩濱」
少し前,地元で安政東海・南海地震における網干の塩田の被害について『網干町史』をもとに書いたところなのです。(ちょっぴりですが)
その時は,「塩濱」の絵図は見つからず,今になって発見!感動しました !(^^)!
地震の時,つまり,嘉永7(1854)年の「願書の写」には,塩濱預り庄屋圓尾六郎兵衛という名が出てきましたが,今回の絵図の「六郎兵衛」とは関係があるのでしょうか?20年近く差があるのですから,息子だったり・・と想像するのは楽しいですね。(全く関係ないかもしれませんが)
ところで,この絵図は「天保8年」。
去年,太子町立歴史資料館で行われていた企画展「絵図がかたどるものー太子町の絵図からー」で展示されていた絵図の中にも,「天保8年」はいくつかありました。
実は,天保8年は絵図が多く残っていて,それは幕府が国絵図を作り直すように命令したからであるということを学芸員の田村先生の講演会で聞きました。
でも,天保8年の太子町の絵図は,どれもその村の範囲内だけの絵図であったのに,今回の「新在家村絵図」は周囲も描かれています。なぜなのでしょう???目的が違うのでしょうか。
・・・揖保川を眺めたくなってきました。ちょっと散歩してきましょう!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする