ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

古文書読解注意点 by ATSU

2015-05-30 10:52:45 | 古文書
難しかった。応用編の課題1

ATSUの注意点

①「,」の位置・・・「・・・儀,」など
②助詞は小さく右上へ 「茂」は漢字のまま書かずに,「も」とひらがなで
③「着」と「差」はよく見て
④略字は正字に直して 「与」がへんで,「欠」がつくりの文字の正字は,「與」がへんで,「欠」がつくりの文字。 「か」または「や」と読む。(ワープロに出てこない。調べ方が悪い?)
「たびびと あいわずらいそうろうか または さけによい これあらば」かな?
⑤読めなかったよく出てくる字・・・「咎」(読めたけど,漢字間違えた。)「取」(「所」と間違えた。)「昼夜」(読めなかった。)などなど
⑥常用漢字に直して・・・「應」ではなく,「応」と書く。「條」ではなく,「条」と書く。
⑦「添」が読めなかったけど,続きは「連判」なので,推測できるはず。「れんぱん あいそえ ごしょうもん さしあげもうすところ,よって くだんのごとし」  だね 

などなど

先生が,書いてくださったコメントが古文書のような字で一部読めない・・・(なさけない)
「最後まで丁寧に挑戦されました。」・・・ありがとうございます。がんばります。

次の課題は,苦手な変体仮名オンパレード!!!

今回は自分の古文書課題の復習であって,人に見せるものではないですね。でも,こうして書くと整理できてしっかり復習になりました。

失礼しました。


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播磨と本願寺

2015-05-24 16:36:53 | 日記
先日,本屋で「播磨と本願寺」という本をみつけました。

去年,地元の歴博でしていた特別展に関する本です。もちろん,私も特別展は見ましたが,兵庫歴史文化フォーラムやシンポジウムには参加していませんし,本を買ってきました。

「はじめに」から

「播磨の歴史は豊かである。先人による多くの研究の蓄積が見られるが,まだ十分に検証の進んでいない事柄も多い。(中略)現在,兵庫県には約三千三百の仏教系寺院があり,そのうちの一千か寺が浄土真宗の寺院,さらにその半分の五百か寺が播磨に集中している。」


ちなみに,我が,網干地区40の寺院のうち,浄土真宗25寺院(うち,本願寺派19,大谷派5,佛光寺派1)(「網干まちなかあるき」より)

さすが,英賀本徳寺勢力にあったところですね。
(本願寺勢力の西の拠点が英賀でした。英賀本徳寺はのちに秀吉に移転させられます。それが今の亀山本徳寺です。このあたりを話すと長くなるのでここまで)


ちなみになぜか,網干には

善慶寺 … 墓地に密かに残る織部切支丹灯篭(キリシタン)(姫路市ホームページ)

でも,
「境内の墓地に中にあった「キリシタン灯篭」。見た目では灯篭ではなく何かの石碑のようです。お地蔵さんのような像も彫られて、裏にでも十字架でも彫られているのか?と隈なく探しましたが「キリシタン」らしいものは発見できず。キリシタンは弾圧されていた時代なので、見た目には分からないようにしていたのは分かりますが…案内してくれたオバチャンも「わたしもこれを教えてもらうまでは、ホンマによう分からなかったんですわ~」と言う。」と花祭りのブログに

JMOOC「大航海時代の日本」の影響?ちょっと気になるが,こんな言い伝えはどこにでもある?
ちなみに,善慶寺は浄土宗西山禅林寺派


話が逸れた
これからこの「播磨と本願寺」を読みます。

もう一つ
歴博ボランティア大先輩推薦図書あす,セブンイレブンに届くとメール
「図解 文化財の見方 歴史散歩の手引き」
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島津忠兼軍忠状案その2

2015-05-23 09:27:45 | 古文書
昨日から,島津忠兼軍忠状案(正しくは「案」がつくそうです。失礼しました。)が気になって,もとの古文書をパソコンで探すものの見つからず,それでも探していると,いつもの歴博の図録「赤松円心と則祐」に載っていることが判明!

え?それって家にある・・・やん?(方言ですみません)「赤松円心と則祐」展見たやん!!
はい,2012年に確かに見ました。
図録に載っています。
ということは,コピーではなく,ほんものの「島津忠兼軍忠状案」を見ているはずです。

いい加減なものですねえ。
JMOOCで本郷先生の武士とは・・といった話を聞くまでは,さほど関心がなかったわけです。

図録の解説によると,
「赤松円心の一世一代の晴れ舞台となった白旗城合戦の実像を伝える史料。ただし,残念ながら筆致が粗く,やや後の時期の写しである。」とある。

昨日見た龍野のは,コピーのコピー?

私でもほぼ読める,読みやすい古文書でした。

なによりも,内容がおもしろかったですね。
「私は,こんなに犠牲を払ってまで合戦で頑張りましたよ。だから,ご褒美ちょうだいね。証人もいます。円心の証判もありますからね。」っていう古文書でした。
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船は揖保川をくだる 帰りは?

2015-05-22 13:24:47 | 日記
続けて,龍野

たつの市立武家屋敷資料館でみつけたおもしろいものを紹介

その前に,この武家屋敷の母屋は瓦から天保年間に建てられたものであろうと言われている。

武家屋敷自体もおもしろかったし,そこで見た町家のビデオもおもしろかったが,一番印象に残ったのは,欄間の彫刻

資料館の人が教えてくれた。

よーく見ると,人間3人が船を引っ張っている。

ー揖保川は,河川交通が盛んで,龍野でつくられたしょうゆやそうめんは,揖保川を船で下り,網干に行く。そこから船を乗り換え,(乗り換えは別の時,別の場所で聞いたような・・・)瀬戸内海をすすむ,そして,大坂?江戸?ー

話が戻って,その船。龍野から網干は揖保川を下ればいい。でも,船は龍野に戻らなければならない。じゃあその船はどうやって?

この欄間ができたのはいつかわからない,と資料館の人。
でも,この欄間の彫刻のように人が陸の上で引っ張って,龍野まで戻していたんですね。

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島津忠兼軍忠状

2015-05-22 13:09:58 | 古文書
「小島: 南北朝時代の文書ですが、特に合戦関係の文書が多い点が特徴です。突然ですが、なぜ武士は戦うのでしょうか?

 - …なぜでしょう。自分なりの主義主張のため?

 小島: ずばり見返りが欲しいからです。正義のためとかは考えていません。戦えば見返りとして土地やお金が手に入って暮らしが成り立つ。だから戦うんです。

 - シンプルですね。

 小島: ですので、どうやって恩賞をもらうかということを武士は常に考えているわけです。そのためには、自分がどの戦争でどれだけ活躍したのかを認めてもらう必要があるので、そのための書式が発達していきます。

 - なるほど。

 小島: 「私はこの合戦でこれだけの戦功をあげました。間違いないですよね?」ということを大将から一筆もらうわけです。その書式を軍忠状といいます。「惟宗(島津)忠兼軍忠状」の例ですと、島津忠兼が播磨国守護の赤松円心へ「私はあの合戦の時にこれだけがんばりましたよね?」と文書を出します。それに対し円心が「間違いありません」と一筆書き添えることで、戦功が認められるわけです。」

国立歴史民族博物館ホームページより


今日,龍野歴史文化資料館で,島津忠兼(ただかね)軍忠状のコピーを見つけました。
建武3年3月のものです。

おもしろい
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