たまたま見つけた本。
今年2月に発行されたばかり。
なぜ図書館で借りたのかというと,
地獄はよく聞いても,(知っていても・・・とは言い難いけど。)
畜生や餓鬼はよく知らないからです。
読んでみると,
とても分かりやすかったです。
すっきり分かったような気がします。
でも,そんな気がするだけかもしれません。
読み違えていたら,すみません。
まず,仏の世界観
十界という思想がある。
それは,四聖(ししょう)と六道。
四聖は,4つの悟りの段階。
六道は6つの迷いの世界。
六道のうち,天・人・修羅道は三善道。
餓鬼・畜生・地獄は三悪道。
私たち人間は,人道の住人で,迷える衆生(しゅじょう:仏教で救いの対象となる者)。
人は臨終の時,できれば六道ではなく,往生して悟りの世界に行きたいと願う。
さて,殺生をする武士はみな地獄に落ちるのか?
宿縁・宿業・因果などと呼ばれる前世での因縁による行為で来世に地獄に落ちることがあったが,
たとえ堕ちても地蔵菩薩が救いの手を差し伸べることがある。
理不尽な殺生には因果は必ずめぐってくる。
しかし,現報(げんぽう:この世で受ける仏菩薩の仏罰)の場合は,
それがたとえ,実際は人の手による殺生であっても,仏教の罪業はない。
ちなみに,病で亡くなるより,人によって殺害された方がよいと考えられていた。
なぜなら,病は,悪霊であり,代々その家を祟ることもあるからだ。
地獄から抜けるにはどうすればいいか。
その者の信心のみでは抜け出せない。
現世に残った者の信心が必要。
追善供養の助力を得て,
地獄にいる時間を短縮し,さらなる来世に輪廻転生する。
(中世において,追善供養や出家が多いわけですね。
殺生しても,出家して信心深くなって,六道から抜け,極楽に行こうと考えて。)
次に畜生
畜生は人よりも欲が勝り,衆生に対して慈悲の心に欠けると考えられていた。
ある母親は,娘との別れを嘆く。
親が子どもを盲愛し,子に執心すると,親は畜生道に落ちたと中世では考えられた。
親が子に執心するあまり,親は周囲が見えず他人に対する配慮が欠けることになり,
他人に対する慈悲の心も欠けるというのだ。
これは本当に意味で親の愛情ではない。
そうしたことを痴愛と言い,これも煩悩である。
このような親は畜生道に堕ち,
そうとも知らない子が親を食べるということすらある。
また,生きるための殺生と心のままに殺して食べる殺生がある。
欲望や快楽のために畜生を殺すことは理不尽な殺生である。
したがって,殺されたものが畜生であっても,
殺したものは現報を受け,畜生道に堕ちる。
そして,餓鬼道
餓鬼道は常に飢えと渇きに苦しむ世界である。
男性ならば,自分ばかり食べて,妻子に与えず,
女性ならば,夫,子どもに与えないことの報いで,餓鬼道に堕ちる。
『盂蘭盆経』に書かれた目連の話。
目連は亡き母の恩に報いようと,母が生まれ変わった場所を探す。
母は餓鬼道にいた。
母のところに行き,食べ物を与えようとするが,炎に変わってしまう。
目連は仏のもとに来て尋ね,言われた通り,
自分の罪を懺悔し,他の僧の訓戒を受けている僧に食べ物を与え,
残りを母のもとにもっていく。
すると,食べ物は炎にならず,
母は心のままに食べることができた。
三悪道は仏縁を結べない。
転生をすることで,極楽など四聖を目指すことができる。
最初に書きましたが,読み違えていたらすみません。
え?仏教って?
と正直思いましたが,
元々のインドも仏教とは,随分変化したものでしょう。
修羅道は善道だそうですが,どんなものかしら?
また,宗派の違いはないのでしょうか?
では,次,江戸時代になってくると?
と疑問は沸きます。
でも,勉強になったように思います。
長々と失礼しました。
今年2月に発行されたばかり。
なぜ図書館で借りたのかというと,
地獄はよく聞いても,(知っていても・・・とは言い難いけど。)
畜生や餓鬼はよく知らないからです。
読んでみると,
とても分かりやすかったです。
すっきり分かったような気がします。
でも,そんな気がするだけかもしれません。
読み違えていたら,すみません。
まず,仏の世界観
十界という思想がある。
それは,四聖(ししょう)と六道。
四聖は,4つの悟りの段階。
六道は6つの迷いの世界。
六道のうち,天・人・修羅道は三善道。
餓鬼・畜生・地獄は三悪道。
私たち人間は,人道の住人で,迷える衆生(しゅじょう:仏教で救いの対象となる者)。
人は臨終の時,できれば六道ではなく,往生して悟りの世界に行きたいと願う。
さて,殺生をする武士はみな地獄に落ちるのか?
宿縁・宿業・因果などと呼ばれる前世での因縁による行為で来世に地獄に落ちることがあったが,
たとえ堕ちても地蔵菩薩が救いの手を差し伸べることがある。
理不尽な殺生には因果は必ずめぐってくる。
しかし,現報(げんぽう:この世で受ける仏菩薩の仏罰)の場合は,
それがたとえ,実際は人の手による殺生であっても,仏教の罪業はない。
ちなみに,病で亡くなるより,人によって殺害された方がよいと考えられていた。
なぜなら,病は,悪霊であり,代々その家を祟ることもあるからだ。
地獄から抜けるにはどうすればいいか。
その者の信心のみでは抜け出せない。
現世に残った者の信心が必要。
追善供養の助力を得て,
地獄にいる時間を短縮し,さらなる来世に輪廻転生する。
(中世において,追善供養や出家が多いわけですね。
殺生しても,出家して信心深くなって,六道から抜け,極楽に行こうと考えて。)
次に畜生
畜生は人よりも欲が勝り,衆生に対して慈悲の心に欠けると考えられていた。
ある母親は,娘との別れを嘆く。
親が子どもを盲愛し,子に執心すると,親は畜生道に落ちたと中世では考えられた。
親が子に執心するあまり,親は周囲が見えず他人に対する配慮が欠けることになり,
他人に対する慈悲の心も欠けるというのだ。
これは本当に意味で親の愛情ではない。
そうしたことを痴愛と言い,これも煩悩である。
このような親は畜生道に堕ち,
そうとも知らない子が親を食べるということすらある。
また,生きるための殺生と心のままに殺して食べる殺生がある。
欲望や快楽のために畜生を殺すことは理不尽な殺生である。
したがって,殺されたものが畜生であっても,
殺したものは現報を受け,畜生道に堕ちる。
そして,餓鬼道
餓鬼道は常に飢えと渇きに苦しむ世界である。
男性ならば,自分ばかり食べて,妻子に与えず,
女性ならば,夫,子どもに与えないことの報いで,餓鬼道に堕ちる。
『盂蘭盆経』に書かれた目連の話。
目連は亡き母の恩に報いようと,母が生まれ変わった場所を探す。
母は餓鬼道にいた。
母のところに行き,食べ物を与えようとするが,炎に変わってしまう。
目連は仏のもとに来て尋ね,言われた通り,
自分の罪を懺悔し,他の僧の訓戒を受けている僧に食べ物を与え,
残りを母のもとにもっていく。
すると,食べ物は炎にならず,
母は心のままに食べることができた。
三悪道は仏縁を結べない。
転生をすることで,極楽など四聖を目指すことができる。
最初に書きましたが,読み違えていたらすみません。
え?仏教って?
と正直思いましたが,
元々のインドも仏教とは,随分変化したものでしょう。
修羅道は善道だそうですが,どんなものかしら?
また,宗派の違いはないのでしょうか?
では,次,江戸時代になってくると?
と疑問は沸きます。
でも,勉強になったように思います。
長々と失礼しました。