以前,
「朝鮮通信使ーJMOOC 田中優子「江戸文化入門」」のところで,朝鮮通信使の食事に興味が行った事を書きました。
ありました,ありました,ぴったりの本が
倉地克直『「鎖国」のなかの「異人」たち
近世日本人は朝鮮をどうみていたか』(角川選書)
その中の
「第3章 朝鮮通信使が通る」
ここでは,岡山藩,備前牛窓での朝鮮通信使とその接待などが詳しく書かれていました。
朝鮮通信使一行の人数は,500人前後。
しかし,その通行の先導や警備の対馬藩総勢が約1500人。(50数艘)
通信使の中心は,正使・副使・従事官の三使。
朝鮮通信使は,三使がそれぞれ乗る騎船が三艘,それに卜船(ぼくせん・貨物船)が1艘ずつつく。
これとは別に,礼物(献上品)や馬や鷹を積んだ献上船がある。
たとえば,寛永13年(1636年)の使節
これは,名称を正式に通信使と改めた最初の使節
(その前3回は,いわゆる朝鮮出兵の被虜人送還の意味が強い。
柳川事件(対馬藩による偽国書事件)後)
岡山藩主池田光政自ら出向いて直々に接待を指揮した。
一行が牛窓に着いたのは,11月6日午後8時頃。
対馬藩主宗吉成が三使に上陸して接待を受けるよう懇願するが,正使は,霍乱(急性腸カタル)を患って,とても接待を受けるような状態ではないため,副使と従事官が出席。
接待場所は,本蓮寺。
次に,正徳元年(1711年)新井白石の改変の時の接待
岡山藩では,家老を遣わして,接待をしたいと申し出,三使以下残らず上陸して,6軒の客館にはいる。
三使の接待には,宗対馬守,岡山藩家老(藩主は「寒気に痛み」牛窓までこられなかった。)
饗応は五々三の膳(昼食相当)饗応の儀式後,引き替えの料理。
上々官以下の使節一行にもそれぞれに応じた料理が提供。
享保4年(1719年)の史料は池田家文庫の中に30点近くあり,「朝鮮人御用留帳」17冊も残されている。
享保3年6月に馳走の準備をするよう指示があり,その頃から岡山藩の準備が本格化。
8月には,接待御用役員が順次任命。
閏10月には,岡山藩から対馬藩江戸留守居に対して下行(げぎょう)物についての問い合わせをする。
享保4年2月に今回の牛窓での馳走は往来とも下行のみと幕府から指示,正式の饗応は行わないことになり,計画全体の見直し。
使節一行の宿舎として準備された町屋は44軒。
この町屋提供は牛窓の住民に大きな負担。
なぜなら,通信使来朝時に宿舎として使われた後,帰帆時までの約半年,家の人が立ち入る事ができない。
ほか,岡山藩士のために,146軒の町屋準備。
こちらは1ヶ月前から藩士が待機しているので,1ヶ月以上家に帰れない。
ほか,船や水主の動員
先だって通行する献上船の馬や鷹などのえさの提供。
(ただし,先を急いだため,えさや官人への下行物は,次の室津まで運んで,室津で渡す。)
8月,藩の船奉行が鞆浦に入って宗対馬守に挨拶,一行が領海内にはいると,先導・随行。
9月牛窓へ。今回は饗応がないため,簡単な食事提供。
三使の献立
素麺 汁 からし
吸物 みそ 鱸 冬瓜 青さんせう
煮鳥 鶴
酒煮麩 梅干
切焼鯛 かけ汁 しやうか
重引 たこ にしめいりこ むき玉子
菓子 西瓜
でも,今回の接待の中心は,下行物の提供。
朝鮮人の食習慣の違いを考え,朝鮮人が好む物,嫌いな物をいちいち名前を挙げて細かく指示。
種類や数量はあらかじめ幕府から指示。岡山藩では,6日分用意。
あと,帰帆時の食事なども史料に残っています。
きりがないので,このくらいにして,私のまとめ&感想。
食事は上陸する時は,その地で日本食を接待。
ただし,饗応料理による接待を三使などに行う時もあれば,
簡単な食事だけの時もある。
身分に応じた食事を出す。
食材など(下行物)を藩が準備し,(幕府の指示に従う)
通信使側に渡す。
料理は船で,朝鮮から来た料理人が料理をする。
今回調べて思ったのは,
これは,参勤交代みたいに幕府が藩に課した負担ではないか。
大名統制の一環につながるのではないかという事です。
一般の人たちも,かなりの負担が強いられ大変ですが,そのなかでも,異文化との接触を楽しみ,見学したり,なかには制約があるなかでも交流したりしていたのだろうと思います。
長くなりましたが,読んでくださった方,ありがとうございました。
「朝鮮通信使ーJMOOC 田中優子「江戸文化入門」」のところで,朝鮮通信使の食事に興味が行った事を書きました。
ありました,ありました,ぴったりの本が
倉地克直『「鎖国」のなかの「異人」たち
近世日本人は朝鮮をどうみていたか』(角川選書)
その中の
「第3章 朝鮮通信使が通る」
ここでは,岡山藩,備前牛窓での朝鮮通信使とその接待などが詳しく書かれていました。
朝鮮通信使一行の人数は,500人前後。
しかし,その通行の先導や警備の対馬藩総勢が約1500人。(50数艘)
通信使の中心は,正使・副使・従事官の三使。
朝鮮通信使は,三使がそれぞれ乗る騎船が三艘,それに卜船(ぼくせん・貨物船)が1艘ずつつく。
これとは別に,礼物(献上品)や馬や鷹を積んだ献上船がある。
たとえば,寛永13年(1636年)の使節
これは,名称を正式に通信使と改めた最初の使節
(その前3回は,いわゆる朝鮮出兵の被虜人送還の意味が強い。
柳川事件(対馬藩による偽国書事件)後)
岡山藩主池田光政自ら出向いて直々に接待を指揮した。
一行が牛窓に着いたのは,11月6日午後8時頃。
対馬藩主宗吉成が三使に上陸して接待を受けるよう懇願するが,正使は,霍乱(急性腸カタル)を患って,とても接待を受けるような状態ではないため,副使と従事官が出席。
接待場所は,本蓮寺。
次に,正徳元年(1711年)新井白石の改変の時の接待
岡山藩では,家老を遣わして,接待をしたいと申し出,三使以下残らず上陸して,6軒の客館にはいる。
三使の接待には,宗対馬守,岡山藩家老(藩主は「寒気に痛み」牛窓までこられなかった。)
饗応は五々三の膳(昼食相当)饗応の儀式後,引き替えの料理。
上々官以下の使節一行にもそれぞれに応じた料理が提供。
享保4年(1719年)の史料は池田家文庫の中に30点近くあり,「朝鮮人御用留帳」17冊も残されている。
享保3年6月に馳走の準備をするよう指示があり,その頃から岡山藩の準備が本格化。
8月には,接待御用役員が順次任命。
閏10月には,岡山藩から対馬藩江戸留守居に対して下行(げぎょう)物についての問い合わせをする。
享保4年2月に今回の牛窓での馳走は往来とも下行のみと幕府から指示,正式の饗応は行わないことになり,計画全体の見直し。
使節一行の宿舎として準備された町屋は44軒。
この町屋提供は牛窓の住民に大きな負担。
なぜなら,通信使来朝時に宿舎として使われた後,帰帆時までの約半年,家の人が立ち入る事ができない。
ほか,岡山藩士のために,146軒の町屋準備。
こちらは1ヶ月前から藩士が待機しているので,1ヶ月以上家に帰れない。
ほか,船や水主の動員
先だって通行する献上船の馬や鷹などのえさの提供。
(ただし,先を急いだため,えさや官人への下行物は,次の室津まで運んで,室津で渡す。)
8月,藩の船奉行が鞆浦に入って宗対馬守に挨拶,一行が領海内にはいると,先導・随行。
9月牛窓へ。今回は饗応がないため,簡単な食事提供。
三使の献立
素麺 汁 からし
吸物 みそ 鱸 冬瓜 青さんせう
煮鳥 鶴
酒煮麩 梅干
切焼鯛 かけ汁 しやうか
重引 たこ にしめいりこ むき玉子
菓子 西瓜
でも,今回の接待の中心は,下行物の提供。
朝鮮人の食習慣の違いを考え,朝鮮人が好む物,嫌いな物をいちいち名前を挙げて細かく指示。
種類や数量はあらかじめ幕府から指示。岡山藩では,6日分用意。
あと,帰帆時の食事なども史料に残っています。
きりがないので,このくらいにして,私のまとめ&感想。
食事は上陸する時は,その地で日本食を接待。
ただし,饗応料理による接待を三使などに行う時もあれば,
簡単な食事だけの時もある。
身分に応じた食事を出す。
食材など(下行物)を藩が準備し,(幕府の指示に従う)
通信使側に渡す。
料理は船で,朝鮮から来た料理人が料理をする。
今回調べて思ったのは,
これは,参勤交代みたいに幕府が藩に課した負担ではないか。
大名統制の一環につながるのではないかという事です。
一般の人たちも,かなりの負担が強いられ大変ですが,そのなかでも,異文化との接触を楽しみ,見学したり,なかには制約があるなかでも交流したりしていたのだろうと思います。
長くなりましたが,読んでくださった方,ありがとうございました。