ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

呉座勇一の歴史家雑記:ニョロニョロ文字読むには

2018-09-26 10:56:57 | 日記 新聞
昨日,朝日新聞朝刊で
「呉座勇一の歴史家雑記」を見つけました。
古新聞を探すと,
今年9月から火曜日に連載しているようです。

9月18日火曜日
「ニョロニョロ文字読むには」

江戸時代には,青蓮院流が御家流と呼ばれ,行政文書などに用いられる公式書体になり,
寺子屋教育などで,一般大衆にも普及していった。

だから,

みな判で押したように画一的なくずし方をする。
御家流になれれば,江戸時代の公式文書はだいぶ読めるようになる。

そうです。

ただし,中世文書は,書体の画一化が進んでいない。


ん・・・。

がんばります!


コメント (5)
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読売新聞「明治あとさき 維新150年」

2018-01-26 14:43:32 | 日記 新聞
このブログの読者の方から聞いた記事です。

我が家は朝日新聞ですし,
ネットでは読売新聞の有料会員しか見ることができないページでしたが,
図書のコーナーで読み,メモをしてきました。

個人的には
1⃣旅 寺社参詣から文化観光へ
がおもしろかったです。
江戸時代は神仏崇敬に名を借りつつ,
旅人は名所巡りや美酒美食を堪能していた・・・と記事にありました。
文献では,「旅」「行旅」「遊山」とされていたものが,
明治になり,岩倉具視の「特命全権大使米欧回覧実記」により,
「観光」の二文字が出てきたそうです。
京都が遷都以来衰退。
でも,岩倉の「京都皇保存に関する意見書」などから,
平安神宮が平安遷都1100年記念祭に合わせて創建されたり,
京都で開かれた第4回内国勧業博覧会で
寺社の特別拝観,建物や宝物の一般公開がなされ,
今の観光都市・京都につながったそうです。

5⃣読書 知的遊びから出世の道具へ
江戸時代,写本から版本へ
それが,明治以降,
近代の活字印刷とともに「くずし字」は姿を消し,
江戸時代の本を人々は直接読んで理解できなくなったとことが書かれていました。
それが,
今,解読アプリなどにより変わりつつある?

紹介されていた
①国文学研究資料館「新日本古典籍総合データベース」
すごい!
ちらっと見ましたが,活用すべきことがないので,
すごい!・・・の感想にとどめます。
②くずし字学習支援アプリ「KuLA」
私はいまだにガラケイなので・・・。
パソコン版はないのかしら?


今は出世道具の読書・勉強とのことでしたが,
私の周りには
純粋知的遊び?の読書家,勉強家がたくさんいますよ。
歴博ボランティアもその一つ。
一銭の得にもならないのに,
みんな,勉強して,討論して,教えあって,
お客さんを案内したり,解説したりして,楽しんでいます。


コメント (3)
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天守閣はいま

2017-01-14 13:13:49 | 日記 新聞
「風雪に耐え、400年の歴史を耐え抜いた宝 日本の城――。かつて日本国内には数千の城があったが、天下人たちの登場で整理統合され、徳川幕府の一国一城令によって約200に減少する。その後の明治政府の廃城令で60まで減少。そして戦災…。こうして現在まで残った天守が、「現存12天守」と呼ばれているものだ。」(BS朝日 日本の城見聞録 ホームページ 「新春4時間スペシャル 永久保存版! 現存12天守に攻め入る!!」より:2016年)


さて,朝日新聞(1月9日・10日)
「天守閣はいま」より
 「全国津々浦々に所在する近世城郭(お城)。その中心的存在の天守閣を、江戸時代そのままの木造で再現しようという動きが相次いでいる。一方、戦後建てられたコンクリート造りの天守閣に愛着を抱く人も。天守閣の保存と復元を巡る問題を追った。」

天守閣を復元しようという動き:
①甲府城跡(明治時代に主な建物は撤去),福岡城
しかし,「国史跡整備などを指導する文化庁が、史跡内での建造物の復元展示に際し、発掘調査による構造把握や、細かな状況がわかる指図(設計図)などの存在の確認ができる場合に限って現状の変更を認める方針を示しているから」現状では復元は難しい。

②名古屋城1945年の名古屋大空襲までは天守閣が残っていた。1959年に築造された鉄筋コンクリートの天守閣の耐震性が検討→木造復元を

そもそもなぜ復元?
→「なぜこれほど天守閣にこだわるのか。復元運動を進めてきた福岡城市民の会の石井幸孝理事長は「古今東西を問わず町のシンボルといえば城塞(じょうさい)であり、中でも日本の城のシンボルは天守閣」と語る。天守閣ができると観光客が増加するという試算もあるという。」


さて,現在,日本に天守閣はいくつあるのか。→80前後(日本城郭協会・加藤理文(まさふみ)理事)
ただし,江戸時代から残っているものは12城のみ
かつて名城とうたわれた大坂城・名古屋城・広島城・岡山城・熊本城などの天守は鉄筋コンクリート造り
(中には墨俣一夜城のように本来は天守を伴わなかったものにも新しく天守を建ててしまった例も:模擬天守)
しかし,鉄筋コンクリート天守の寿命は50~60年
多くの天守はあと10年~20年で立ち入ることも難しくなる。

ではどうすればいいか。

今は復元が文化庁から認められても,建築当時の材料を使った精度が高い復元が求められる。

となると選択肢は限られる
木造で復元するか
耐震補強をするか
取り壊すか


文化庁が復元を許可するのではないかと思われる天守は7つ
水戸城・名古屋城・大垣城・岡山城・福山城・広島城・熊本城

すでに補強工事を実施
小田原城・富山城(模擬天守)

「天守復元・再建運動の多くは城という存在が町の中心であることを認め,それを再現することで町も活性化させようというのが根っこにある。」



さて,わが姫路では,
「姫路藩主本多忠政の息子忠刻(ただとき)・千姫の成婚400年」と昨年,のぼりを立てていました。
町の活性化・・・わかるような気がします。


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「後藤又兵衛討死之時」:新聞等の比較

2016-11-24 09:48:31 | 日記 新聞
まず,NHKホームページから
「又兵衛の下で戦っていた武将、金万平右衛門が、ひん死となった又兵衛の首を、秀頼から又兵衛に与えられていた刀で落とし、秀頼に刀を返したと記されています。また、その際に首を持ち帰ることができなかったため、又兵衛の折れた旗を討ち死にの証拠として秀頼に差し出したなどと記されています。」

ATSU:これでは,介錯をした人間は,金万平右衛門と読み取れます。
また,秀頼から又兵衛に与えられた刀(行光)で首を落としたことになっています。



読売新聞
「脇差しの「行光」で首を討ち、秀頼に、又兵衛の折れた「指物さしもの」(旗か刀の意味)を渡して報告したことが記されており、」
大阪城天守閣(大阪市)の北川央館長は「介錯した人物は特定できない・・・。」

ATSU:確かに,読売新聞は,介錯をした人物が誰とは書いていません。
行光で首を落としたことになっています。



産経新聞
「同館(岡山県立博物館)によると、腰に重傷を負った又兵衛は配下の武士に自身の首を討たせていたが、書き付けでは、その際に秀頼から授かった脇差し「行光」を使っていたことが初めて分かったという。」

ATSU:確かに,産経新聞も,介錯をした人物が誰とは書いていません。
行光で首を落としたことになっています。
京都新聞も産経新聞と同様です。



朝日新聞
「致命傷を負った又兵衛が、秀頼から拝領した脇差し「行光(ゆきみつ)」で家臣に介錯(かいしゃく)を頼んだことが記されている。」
「大阪城天守閣の跡部(あとべ)信・主任学芸員の解釈によると、書面にはまず、又兵衛が長四郎という小姓に脇差しを渡し、自分の首を討って、又兵衛の最期はこうだったと秀頼に伝えるよう指示したが、長四郎は首を落とせず、脇差しだけを秀頼に渡したという内容が書かれているという。さらに、もう1人の小姓も討ち死にした証拠として又兵衛の旗のようなものを秀頼に持って行き、その後、金万平右衛門がその場に到着したと記す。」

ATSU:朝日新聞によると,介錯した人物はわからず,
又兵衛は,行光で介錯を頼んだが,行光で落としたとは書かれていません。



毎日新聞
「書付を見た福田千鶴・九州大教授(日本近世史)によると、又兵衛が配下の小姓の長四郎に秀頼拝領の脇差し「行光」を渡し、自分の首を落として秀頼に報告するよう指示した。しかし長四郎は実行できず、秀頼に行光を渡したと書かれているという。又兵衛はこの直後に配下の平右衛門に討たれたとみられる。」

ATSU:今回発見の書付では,介錯をした人物は書かれておらず,
行光で介錯したかどうかは書かれていません。
別に,配下に討たれたことを書いているが,書付に書いているとは書いていません。



そして,この書付を調査した岡山県立博物館
「書付「後藤又兵衛討死之時(ごとうまたべえうちじにのとき)」は、又兵衛の首を討った脇差が、又兵衛が豊臣秀頼から拝領したものであったこと、又兵衛最後の様子を秀頼に報告したことなどが記されており、」

ATSU:介錯した人物が誰かは言っていません。
秀頼から拝領した脇差で又兵衛の首を討ったと言っています。


この違いは何でしょうか。
ちょっと勉強になりました。

ちなみに,
「この資料は、11月25日(金)から来年1月15日(日)まで、岡山県立博物館にて展示します。」


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「後藤又兵衛討死之時」

2016-11-19 15:08:58 | 日記 新聞
17日木曜日,
NHKニュースで「大坂夏の陣で討ち死に 後藤又兵衛の最期を記す史料発見」のニュースを聞きました。
「(史料よりますと、)又兵衛の下で戦っていた武将、金万平右衛門が、ひん死となった又兵衛の首を、秀頼から又兵衛に与えられていた刀で落とし、秀頼に刀を返したと記されています。また、その際に首を持ち帰ることができなかったため、又兵衛の折れた旗を討ち死にの証拠として秀頼に差し出したなどと記されています。」となっています。(ホームページより)

次の日,読売新聞と朝日新聞を見比べていた歴博職員さんが
「どっちが正しいの?」
と聞いてきました。

読売新聞は,NHKニュースとほぼ同様のことが書かれています。

しかし,朝日新聞には,
「又兵衛が長四郎という小姓に脇差しを渡し、自分の首を討って、又兵衛の最期はこうだったと秀頼に伝えるよう指示したが、長四郎は首を落とせず、脇差しだけを秀頼に渡したという内容が書かれているという。さらに、もう1人の小姓も討ち死にした証拠として又兵衛の旗のようなものを秀頼に持って行き、その後、金万平右衛門がその場に到着したと記す。」と書かれています。
そして,古文書の古文書をコピーと活字にして載せています。


この活字を読むと,確かに朝日新聞の通りです。
「又兵衛印ヲあげ候義ハ不罷成、」です。

なぜ,こんな違いが出たのでしょう。
NHKや読売新聞が読み間違えたのでしょうか。
それとも,朝日新聞が活字を間違えているのでしょうか。

コメントをしている専門家の違いでしょうか。

疑問です。
コメント (6)
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