今回はひとりごとです。
「地元の神社から戦争と平和を考える」3回と「ちょっと気になる絵馬」,
それに,高埜利彦『江戸時代の寺社』
滝口正哉『江戸の祭礼と寺社文化』などなどからのひとりごとです。
滝口正哉氏は『江戸の祭礼と寺社文化』で江戸時代の(神仏習合のもとでの)寺社についてこう書いています。
大まかにいうと,まず,
「①役所として寺請制度による身元保証,往来手形の発行などがあり,他に
②祈願の場として日常の祈願,特定の目的による祈願や現世利益を求める行為の対象が,
③人生儀礼・供養の場として宮参り・七五三・厄除け・葬式・法要などが,
④祭礼の場として氏子町々の祭礼組織による執行が,
⑤集会の場として講・寄合・紛争解決の相談などが,そして
⑥一部の寺院には駆け込みの場として駆け込みの人の抱え置きがみられ,さらに
⑦行き倒れ人・捨て子収容の場であるなど,多彩な社会的機能を有していた。」(2ページ)
さて,現代人の私にとって地元の魚吹八幡神社は・・・
何と言っても,④の「祭」です。
秋の祭りには,毎年欠かさず行っていました。
しかし,コロナで2020年,2021年は大幅に縮小され,昨年2022年は3年ぶりにこのとおり!
(2022年10月22日,大門前は人が多いので行きませんでしたが,馬場で写真を撮りました。)
滝口正哉氏は『江戸の祭礼と寺社文化』の中で,
祭についてこう書いています。
「祭とは,そもそも神霊を招き迎え,供物や歌舞を捧げて歓待・饗応し,祈願や感謝をして慰撫することを意味する。」(81ページ)
祭の本質は共同祈願にあり,神霊と人間との境界や関係性を示す祭場として祠や社が建てられ,
祭は日常生活からの離脱を明確にし,非日常的世界に没頭し,
「祭が終わると再び日常生活に立ち戻るという循環型サイクルがあり,祭は一見浪費や無用の遊興にみえながらも,日常生活を円滑に進める上で不可欠の要素であった。」(82ページ)
しかし,17世紀になると,三都をはじめとする近世都市が誕生し,地域の共同体を中心とした小規模な祭から,山車や附祭をともなった大規模な祭礼へと発展するものが次々に現れ,「信仰をともにしない見物人が発生」,華やかで新しい意匠を競い合うようになる。
さらに,寺社は,信仰と娯楽双方の欲求を満たす場所となる。
「多くの参詣客を迎える寺社では,さまざまな由緒や霊宝などが整備され,
境内や門前にさまざまな見世が立ち並び,物売りや芸を披露する人々なども集まった。
こうした庶民は寺社を生活の一部に取り込んでいき,
それと同時に,相撲・富くじ・小芝居・見世物などの娯楽的な魅力も
庶民を寺社の境内に引きつける効果をもたらした。」(108ページ)
そして明治・・・
江戸時代,神仏習合の状態にあった寺社の境内には,さまざまな娯楽空間を提供するという要素があったが,
神仏分離政策で境内は神社と寺院に分けられ,境内は縮小された。
廃仏毀釈運動も展開された。
それに加え,殖産興業・富国強兵をはかる新政府による制度や社会基盤の整備が次々とすすめられた。
のみならず,文化や風俗習慣までも変化した。
その結果,娯楽の場の多くは寺社を離れて市中に進出し,
明治期に劇場など新たな建物や組織を生み出して行った。
高埜利彦『江戸時代の寺社』では,江戸時代における江戸幕府の神社統制を中心に書かれていますが,
そのあと,明治・・・
1889年(明治22年)大日本帝国憲法が発布された。
「天皇が「万世一系」で「神聖不可侵」であるという論理を説明するために,
政教一致による皇室祭祀や神社・神道が大いに役割を担わされたのである。」(99ページ)
さらに,教育勅語(1890年),
また,靖国神社・明治神宮・橿原神宮の創建
「昭和期に入ると,国は大日本帝国憲法の枠組みのもと,あらたな対外戦争に向かっていくが,
天皇の絶対化のために,「皇国史観」をもって,「万世一系」と「神聖不可侵」を説いて,臣民を教化していった。
靖国神社や地域の神社への参拝も強制されるようになった。
こうして国は第二次世界大戦に突き進んでいったのである。」(104ページ)
長くなりました。
ウクライナ情勢が毎日報道される中,もうしばらく「神社」を考えたいと思います。
追記:5月20日
高埜利彦『江戸時代の寺社』
「出征兵士の故郷の村での神社では,武運長久の祈願が行われ,
戦死者の顕彰碑が建てられたように,
五穀豊穣を祈願する地域の神社である以上に,
国家の対外戦争を地域から支える役割を担う存在となっていった。」(102ページ)
「地元の神社から戦争と平和を考える」3回と「ちょっと気になる絵馬」,
それに,高埜利彦『江戸時代の寺社』
滝口正哉『江戸の祭礼と寺社文化』などなどからのひとりごとです。
滝口正哉氏は『江戸の祭礼と寺社文化』で江戸時代の(神仏習合のもとでの)寺社についてこう書いています。
大まかにいうと,まず,
「①役所として寺請制度による身元保証,往来手形の発行などがあり,他に
②祈願の場として日常の祈願,特定の目的による祈願や現世利益を求める行為の対象が,
③人生儀礼・供養の場として宮参り・七五三・厄除け・葬式・法要などが,
④祭礼の場として氏子町々の祭礼組織による執行が,
⑤集会の場として講・寄合・紛争解決の相談などが,そして
⑥一部の寺院には駆け込みの場として駆け込みの人の抱え置きがみられ,さらに
⑦行き倒れ人・捨て子収容の場であるなど,多彩な社会的機能を有していた。」(2ページ)
さて,現代人の私にとって地元の魚吹八幡神社は・・・
何と言っても,④の「祭」です。
秋の祭りには,毎年欠かさず行っていました。
しかし,コロナで2020年,2021年は大幅に縮小され,昨年2022年は3年ぶりにこのとおり!
(2022年10月22日,大門前は人が多いので行きませんでしたが,馬場で写真を撮りました。)
滝口正哉氏は『江戸の祭礼と寺社文化』の中で,
祭についてこう書いています。
「祭とは,そもそも神霊を招き迎え,供物や歌舞を捧げて歓待・饗応し,祈願や感謝をして慰撫することを意味する。」(81ページ)
祭の本質は共同祈願にあり,神霊と人間との境界や関係性を示す祭場として祠や社が建てられ,
祭は日常生活からの離脱を明確にし,非日常的世界に没頭し,
「祭が終わると再び日常生活に立ち戻るという循環型サイクルがあり,祭は一見浪費や無用の遊興にみえながらも,日常生活を円滑に進める上で不可欠の要素であった。」(82ページ)
しかし,17世紀になると,三都をはじめとする近世都市が誕生し,地域の共同体を中心とした小規模な祭から,山車や附祭をともなった大規模な祭礼へと発展するものが次々に現れ,「信仰をともにしない見物人が発生」,華やかで新しい意匠を競い合うようになる。
さらに,寺社は,信仰と娯楽双方の欲求を満たす場所となる。
「多くの参詣客を迎える寺社では,さまざまな由緒や霊宝などが整備され,
境内や門前にさまざまな見世が立ち並び,物売りや芸を披露する人々なども集まった。
こうした庶民は寺社を生活の一部に取り込んでいき,
それと同時に,相撲・富くじ・小芝居・見世物などの娯楽的な魅力も
庶民を寺社の境内に引きつける効果をもたらした。」(108ページ)
そして明治・・・
江戸時代,神仏習合の状態にあった寺社の境内には,さまざまな娯楽空間を提供するという要素があったが,
神仏分離政策で境内は神社と寺院に分けられ,境内は縮小された。
廃仏毀釈運動も展開された。
それに加え,殖産興業・富国強兵をはかる新政府による制度や社会基盤の整備が次々とすすめられた。
のみならず,文化や風俗習慣までも変化した。
その結果,娯楽の場の多くは寺社を離れて市中に進出し,
明治期に劇場など新たな建物や組織を生み出して行った。
高埜利彦『江戸時代の寺社』では,江戸時代における江戸幕府の神社統制を中心に書かれていますが,
そのあと,明治・・・
1889年(明治22年)大日本帝国憲法が発布された。
「天皇が「万世一系」で「神聖不可侵」であるという論理を説明するために,
政教一致による皇室祭祀や神社・神道が大いに役割を担わされたのである。」(99ページ)
さらに,教育勅語(1890年),
また,靖国神社・明治神宮・橿原神宮の創建
「昭和期に入ると,国は大日本帝国憲法の枠組みのもと,あらたな対外戦争に向かっていくが,
天皇の絶対化のために,「皇国史観」をもって,「万世一系」と「神聖不可侵」を説いて,臣民を教化していった。
靖国神社や地域の神社への参拝も強制されるようになった。
こうして国は第二次世界大戦に突き進んでいったのである。」(104ページ)
長くなりました。
ウクライナ情勢が毎日報道される中,もうしばらく「神社」を考えたいと思います。
追記:5月20日
高埜利彦『江戸時代の寺社』
「出征兵士の故郷の村での神社では,武運長久の祈願が行われ,
戦死者の顕彰碑が建てられたように,
五穀豊穣を祈願する地域の神社である以上に,
国家の対外戦争を地域から支える役割を担う存在となっていった。」(102ページ)