ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

メモ;和船

2025-02-25 08:56:41 | 日記 地域
私が住んでいるのは,兵庫県の瀬戸内海沿岸です。
「瀬戸内海は古くからヒトやモノが行き交い,知識と文化が交流する場であった。」と倉地克直氏は『江戸時代の瀬戸内海交通』(2021.吉川弘文館)の中で述べています。
昨年11月16日,姫路市立城郭研究室で市民セミナー「和船の歴史」を受講しました。 
今回は「メモ;和船」と称して,江戸時代の和船について,
石井謙治 『ものと人間の文化史76‐Ⅰ 和船Ⅰ』 (1995年 法政大学出版局)からまとめてみました。




2018年10月撮影 兵庫県立歴史博物館(常設展(現在は展示替えされています。)の大部分は写真撮影可)

和船 石井謙治 『ものと人間の文化史76‐Ⅰ 和船Ⅰ』 1995年 法政大学出版局
18世紀前半期 領主と組んで特権的経営に依存していた初期豪商の衰退
合理的運営を行う廻船仲間組織・・全国各地に排出した小資本の廻船業者が勢力を伸ばす。
比較的低い運賃でも利益を上げる方法
乗組水主の減少
 廻船の帆走専用化・・弁才船(べざいせん)が最良の船型・構造
 操櫓用の水主(かこ)を不要とする→3割前後減らす
(千石船の場合水主約24人→弁才船は水主約15人)
廻船の大型化←商品流通の増大
 安全性 根棚(かじき)・中棚・上棚・除棚などの外板を厚くする 船梁を太くする 
上棚の上にハギツケとよぶ舷側(げんそく)板を付加する
太い帆柱
 細い材を何本も寄せ集め,責込(せめこみ)と称する鉄のタガで締める,
いわゆる松明(たいまつ)柱が考案
帆と舵(かじ)の改良
 筵(むしろ)帆から木綿帆→松右衛門帆(ただし高価なので小廻船や漁船には使わず)

廻船の乗組
 船頭 船に乗らない船主を居船頭
    船長役を沖船頭もしくは船乗船頭
    (船主兼船長役を直乗船頭)
 船頭は運行責任者→船鑑札・往来手形・積荷の送状などを持つ書類入れとして懸硯(かけすずり)という入れ物,いわゆる船箪子を持つ
 船頭を補佐する三役
  楫取(かんとり:航海長役),親仁(おやじ:水夫長),賄(まかない:事務長役)
  三役のほかに,平水主,炊(かしき)

海難
 浦証文(浦手形,浦状,浦切手)・・海難を証明する唯一の重要書類
 海難が発生した際,その場所の浦役人が詳しく状況を調査し,それが不可抗力の海難だったことを確認したうえで船頭に与えるようにしていた。
 宛先は損害を受けた荷主や船主
 不可抗力であった場合,船頭の賠償責任は問われない。
 海難証明のほか,船乗りの不正行為の防止にもなる。
  →監視役として,荷主の代理人を乗船させることもある。(奉行,上乗(うわのり))
 海難救助→幕府は全国の浦方に義務として課す。
 船頭らは,大坂や江戸の廻船勘定書に出頭して,海難の届け出とともに浦証文を提出するとあとで吟味を受けることになっている。

引き続き,読書中
石井謙治 『ものと人間の文化史76‐Ⅰ 和船Ⅰ』 1995年 法政大学出版局
倉地克直『江戸時代の瀬戸内海交通』2021年 吉川弘文館
水本邦彦『海辺を行き交うお触れ書き』2019年 吉川弘文館

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初体験! バーチャルMuseum

2025-02-13 15:15:33 | 日記 地域
たつペディア展 ー最新技術を活用したバーチャル Museumがいざなう歴史の世界ー

たまたま,たつの市立龍野歴史文化資料館のホームページを久しぶりに見ると,今,このような企画展が・・・
ってなに?
「歴史探偵」で千田先生がやっていたようなメタバースミュージアムを体験してみたいような・・
Perfumeがやっている「謎解き!ヒミツの至宝さん」に出てくる3D・・
よくわかりません  ( ;∀;)
ま,とにかく行ってみよう!と今日,龍野歴史文化資料館に行ってきました。(写真撮影可)
受付で尋ねると,準備と説明をしてくださいました。
  こんなのをつけて,メタバースになってメタバースミュージアムに入って,・・・思うように動かない・・・ぐるぐるまわる・・あれ?装飾土器の中に入っちゃった?・・・なんか・・気分悪くなってきた・・・やめとこ・・・
VRゴーグルはあきらめて,・

写真は資料館ロビーにある「寛政十年龍野惣絵図(複製)」です。これがデジタルBOOKに入っていて,大画面(?)で超細部を超拡大して見ることができます。
家持の名,家の大きさ(間数)といった文字までハッキリ見ることができます。
そして,

画面下は揖保川,そこに「御蔵」があります。船も書かれています。
ここの蔵には龍野藩の米が置かれているのでしょうか?揖保川を下って,網干まで運ぶのでしょうか。ゆっくりぼおっと拡大したり縮小したりしながらしばらく眺めていました。ー展示の見学は私だけだったので (*´∀`*)

そして私のお気に入りもう1点
2019-08-09 たつの市立龍野歴史文化資料館「西宮山古墳の御宝」
に書いた装飾付須恵器・・・の3Dデータをもとにしたレプリカ です。
 手にとって見ることができます。

でも,やっぱり・・デジタル・・バーチャル・・・こういうのは苦手かも?
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江戸時代の農業;双六から

2025-01-30 16:29:30 | 日記 地域

いつ見てもいいですね,姫路城・・ (^^♪
ということで,兵庫県立歴史博物館・常設展示です。(常設は一部を除き写真撮影可)

農業の双六(部分)です。

写真にはありませんが,「初春此所ふりはじめ」から始まり,双六の目のところに進みます。
たとえば,ふりはじめで「1」なら「田かへし」,「6」なら「田うへ」に進むようになっています。
写真中央「上がり」は「年貢納」その右は「こめだわら」,
左は「ほうねんいわひ」です。
「とうみ」もあります。 (写真は同じフロア展示の唐箕)  
「わたとり」「まめばた」「むぎかり」もあります。
なんと,「のあそび」では,子どもがたんぽぽのような花を摘んでいるように見えます。
面白いですね。飽きませんね。
版元は,京都のようですが,(双六左下に,「京都」の文字がみえます。)何年につくられたものかはわかりません。
文字と絵を見ると,江戸時代の農業が見えてきます。
版元は京都の町人だろうから,農業をしているわけではないかもしれませんが・・・
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明けましておめでとうございます。新年は,姫路・野里からスタートです。

2025-01-07 08:55:14 | 日記 地域
明けましておめでとうございます。新年は,姫路・野里からスタートです。 
写真は大野家住宅です。  
1月5日,姫路城の北東,内堀と中堀の間,かつては商家等が立ち並んでいた野里地区に行ってきました。
今の野里は大野家住宅のような町家が,ぽつん,ポツンと点在し,私の勝手な想像よりも少なかったです。仕方がありませんね。姫路駅にも比較的近く,便利な都会(?)ですから。
でも,そんな中にも町家の南東あたり(姫路城の東)に残っているずらっと並んだ寺やノコギリ横丁には感激しました。
 休憩で立ち寄ったのが写真の小倉屋。
2024年8月にオープンした古民家カフェ,かつては,金物商を営んでいたそうです。

「文政二己卯歳」「尾上市兵衛家」の文字が見えます。
カフェでいただいたパンフレット「町家の残る城下町 野里を歩く」には,
この旧尾上市平家住宅は,万治3年(1660)の文書には,「小くらや 市兵衛」の名が見え,現在の建物の主屋では寛政7年(1795)の棟札が確認されているそうです。
「小倉屋」にはほかにも「姫路城下町西部の町並み 現状とこれから」というパンフレットもありました。
次は船場地区も散策したいです。
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宮島へ その2;厳島神社と平家納経

2024-12-10 15:32:01 | 日記 地域
宮島にはお昼12時ごろに着き,穴子どんぶりを食べ,厳島神社ヘ。
順路通り見てまわりました。この時は潮が満ちていて,床の少し下まで水がありました。
その後,宝物館や宮島歴史民俗資料館,紅葉谷で紅葉をちょこっと見て,豊国神社千畳閣から景色を見ていると,あれっ?潮がかなり引いてきたような・・と思い,もう一度厳島神社へ(3時過ぎだったかな?)そして,神社を出てすぐのところから,鳥居の近くまで歩いていきました。


振り返って,見たのがこの写真。
ぱっと厳島神社を見て,宇治の平等院鳳凰堂を思い出しました。厳島神社は神社です。平等院は寺院です。でも,似ているような気がしました。
宝物館では,大正時代の精密なレプリカの平家納経を見ました。
お経が神社に奉納されたのです。いままでなぜ気にならなかったのでしょう。まさに神仏習合です。
展示されていた平家納経「序品(じょほん)」は本当に綺麗でした。
清盛による「願文」も含めて全33巻のうちほんの少ししか見ることはできませんでしたが,(それもレプリカ)それでも,感動しました。
いろいろな質問に答えてくださった宝物館の職員さんは私たちに気を許したのか,ぼそっと「庶民は飲まず食わずなのにねえ」と・・・。
まさに,そう。
かつて読んだ本郷恵子氏の『買い物の日本史』には,貴族たちがお金をかけるものとして,官職や信仰(極楽浄土に行くため)というようなことが書かれていたと思うのですが,清盛もまさにそうでしょう。
清盛の願文の説明には,「下品でもいいから極楽浄土に」というようなことが書かれていました。
そういえば,・・・大河ドラマ「光る君へ」の最終回は次の日曜日。
以前京都で見た『御堂関白記』(これはレプリカではなく,本物を見た。)の11世紀の古写本によると,日記の最後は念仏の記録。「五日丁丑十七万遍」
道長と清盛は100年以上違いますが,いかに末法は恐ろしく,極楽浄土に行くことを願ったかが想像できます。

最後にもう一度,厳島神社鳥居の写真  
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