[旧約の1/3が韻文、ヘブライ語の詩文は多くが対句法によっている]
モルモン書でニーファイはイザヤの言葉を喜んでいる(IIN25:5)が、イザヤの言葉はあなたがた(ニーファイ人、また現代の読者とも取れる)には理解しにくい、それはユダヤ人の預言の仕方を知らないからである(1節)と書いている。
確かに現代人にとって、イザヤ書や旧約の預言者の書は分かりにくいことが多い。その理由の一つは、イザヤを始め預言者たちの預言がほとんど韻文で書かれていて*、その特徴に精通していないことにある。
ヘブライ語の詩文の特徴には、「折り込み詩」(いろは歌のように各行の冒頭の音がアルファベット順になっている)、「類音押韻」(よく似た音を含む句が組み合わされている)、「頭韻辞法」(頭韻を踏む)などがあるが、最も主要な特徴は対句法である。ここで対句となるのは語に含まれた思想上の並行(or 対立)表現である。主なものに次の四種がある。
1)同義的 諸国の民よ、これを聞け
この世に住む者は皆、耳を傾けよ (詩49:1)
エッサイの切り株よりひとつの芽が生え、
その根からひとつの若芽が出る。 (イザヤ11:1 関根訳)
2)対立的 貧しい者は懇願しつつ語り
富める者は荒々しく答える (箴18:23)
3)総合的 何を守るよりも、自分の心を守れ。
そこに命の源がある。 (箴 4:23)
4)交差的 彼が開けば、閉じる者はなく、
彼が閉じれば、開く者はないであろう。 (イザヤ22:22)
a わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
b わが道は、あなたがたの道とは異なっている、
c 天が地よりも高いように、
b’ わが道は、あなたがたの道よりも高く、
a’ わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
(イザヤ55:8, 9)
[上が同義的、下が交差的]
以上、旧約聖書の預言者の書(韻文)がしばしば読みにくい理由の一つ、対句法について述べたが、われわれ現代人にとっては、当時の国際関係(支配、被支配)、当時の歴史、聞きなれない固有名詞(王、地名、人名)、社会制度、風習、聖書の原語の特徴などが、数多くの点で理解を困難にしている。対句法にもどっても、どこまでがまとまりで、どこから別のテーマに移っているのかが判然としないことが多い。そのため、誰が誰に、どんな意図で語りかけているのか、見失ってしまう。優れた解説書を必要とする所以(ゆえん)である。
*預言の多くが詩文であることは、口語訳、新共同訳などの本文の組み方からも分かる。山我哲雄「一神教の起源」p. 218。E.Kautzsch, “Gesenius’ Hebrew Grammar,” p. 14.
・他の参考文献: シドニー・B・スペリー「旧約聖書の精神」(英文)1970年。John W. Welch, ed., “Chiasmus in Antiquity,” 1981.
[J.W.ウェルチ編の著]
そもそもユダヤ人はイザヤ書がイエス・キリストの預言であるなんて思っちゃいませんしね。有名な聖句「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。」にしてもヒゼキヤ王(もしくはヨシア王)について語ったものだと理解されています。
しかしクリスチャンはそれを救い主の誕生と解釈しました。ユダヤ人に言わせるとこじつけなわけですが、それを予言の両義性だと説明することでクリスチャンは合理化しました。そして聖文からこのような両義性を持つ箇所を次々に見つけ出し(ユダヤ人に言わせるとこじつけ)、旧約聖書はキリストを予言しているのだと受け入れているわけです。
この辺りはきちんと勉強しているクリスチャンなら常識レベルのことですが、モルモン会員は全く理解していないと言いますか、想像すらしていないでしょうねぇ。
私も日曜学校で教師をやっていますので、さてどこまで、どうやって教えようかと悩むところです。ちなみに教師用手引きに沿ってそこに書いてあることだけを書いてるとおりにレッスンするなどということは馬鹿のすることだと思いますので決してしませんが。
イザヤの黙示録
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%A4%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2
たまWEBのブログで24章、28章について数回書いとったですかぁぁ・・・
イザヤ24
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%A424
こういう解説が広まったらいいのになぁぁ・・・
イザヤ28
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%A428
私も明日、イザヤ書の2つの課(36課イザヤ1-6章、37課イザヤ22, 14-26, 28-30章)を担当します。
老いかける頭を絞っているところです。学ぶ普段の頭をSunSchのクラスを担当する教師の頭に切り替えようとしています。しかし、できるだけ外部の人が聞いてもうなづけるような展開にしたいと思っています。
韻文といえば短歌・俳句・万葉集と日本語では馴染み深いので日本人には理解しやすいのかもと思ったことがあります。
先週TVでプレバトという番組を観ました。
人気の俳句コーナーで
5位は横尾渉さんが詠んだ句は「ニュータウンの 剥げたポストや 降り月」
夏井先生の添削は「ニュータウンの 剥げたポストや 月煌々」
剥げたと対称的な語を取り合わせることでニュータウンの寂れた雰囲気が際立って素晴らしい!と感嘆。
難しいと思われるイザヤ書も日本人的感覚で詠めば意外と本質を理解できるのかも。
しかし。イザヤ書最大の問題はその量・長さなんですよお。
モルモン書では、イザヤ書の3分の一以上をほぼそのまま引用している。
私の疑問はなぜ、ジョセフスミスが、そこまでイザヤ書にこだわったのか?
なんか都合の良い事でも有ったのか?って事ですね。
それと本題には関係のない事なのですが、いつも疑問に思うことが有ります。
それは、「預言者が「神の言葉を伝えたのに、人々は聞かなかった」て言う言葉が聖書の随所に出てきますが、
インターネットもテレビラジオも無い時代に、イスラエルの民はどうやって、預言者の言葉を聞いたんでしょうか?
日本でも、明治維新の後に天皇が、全国を回ったという史実が有ります。これは、当時地方の国民は天皇の存在を知らなかったからだと言います。
当時は「日本国民」と言う意識を持って居る人すら少なかったんでしょうね。
すんません、また話がそれた・・。