[Thomas A. Wayment]
ジョセフ・スミス訳は、かつて霊感訳と呼ばれ、後に「ジョセフ・スミスによる聖書の改訂」とも呼ばれた。このJSTは、1830年6月から1833年7月までに行われ、創世記とマタイによる福音書に対して多くの時間が割かれた。その後多くの箇所がさらに改訂(推敲)された。
行われた改訂・変更は大きく分けて次の5つに分類される。1)聖書の叙述(narrative)の拡張、2)聖書の本文を分かりやすくする、3)福音書間の調和・一致をはかる、4)現代の読者を念頭に付加を行なう、5)新しい神学的洞察を含めた拡張。
共通して見られる特徴は、筋が通らない時にその問題を解決しようとする点である。聖書の各書、各章の内容に一貫性を持たせようとして改訂が行われた。
ウェイメントはジョセフ・スミスの聖書改訂全体を、キリスト教徒の視点から行なっている、旧約聖書をキリスト教化している、と見る。全てをイエス・キリストの福音という伏線に沿うはずと考えているのである。
もう一つ言える重要な点は、ジョセフ・スミスが受けた啓示に符合するように、聖書の本文を編集・改訂したという点である(ウェイメント p. 100)。
なお、上記のような内容分析から、JSTが聖書の原文を回復するものであると言うことはできない。ジョセフ・スミス自身も原文を回復したとは述べていない。
典拠:
Thomas A Wayment, “Intertextuality and the Purpose of Joseph Smith’s New Translation of the Bible” in “Foundational Texts of Mormonism” Oxford University Press, 2018.
参考:1 ジョセフ・スミス訳聖書 I 2014.03.01
2 ジョセフ・スミス訳聖書 II 2014.03.01
3 モルモンフォーラム誌4号(1990年 春季号)霊感訳聖書とは何か
そうだと思います。
ジョセフ・スミス訳ってあまり読んだ記憶がありません。
豚師匠の仰るように預言者ジョセフ・スミスが誤りなき聖書を回復したとしたら、聖書を補完するモルモン書の存在意義が無くなります。
そんな事情もあるような気がしてます。
私だけでしょうか?ジョセフ・スミス訳聖書にあまり忠信していないのは。
>ジョセフ・スミス訳は、かつて霊感訳と呼ばれ、後に「ジョセフ・スミスによる聖書の改訂」とも呼ばれた。
なぜこうした見解が長年に渡り、そして現在も多くの末日聖徒によって支持されているのかということです。
ジョセフは原文を回復したとは言っていないのだという視点にたてば、一般の愚かな末日聖徒が勝手に勘違いと思い込みをしてしまった、ということなるのでしょうね?
教会や歴代の幹部たちにはなんの落ち度もなく、ただ一般の会員たちが勝手に思い込んでいただけなので、勘違いの責任は会員にある、これで万事解決めでたしめでたし、と。
そういう結論に導こうとしている記事に思えました。
私はWayment の論文を短く紹介する形で書きました。彼の論文は、Oxford 大学出版から出ていて、学術的で研究の成果を社会に問うものです。(掲載された他の論文も同じ。2019/02/18記事参照)。決して護教的な響きのするものでも、そのような意図で編集されたものでもありません。そのような類の書籍はデゼレト出版から出されるでしょう。的確な視野に立ってコメントしていただきたいと思います。適切な言葉遣いで。
投稿した私の意図は、多くの会員がJSTを慎重に、深く考察しながら、読むようになってほしいと願う所にあります。
JSTには、各人各様に取れる背景と歴史があって、複雑なテーマです。JSTに関心のある会員が、研究者の書いたものも含めて、まんべんなく英文資料にも目を通しながら、自分で研究を進めることを勧めたいと思います。例、JSTが行なっている変更を自分で書き出して分析するなど。
https://www.lds.org/scriptures/jst/jst-rom/4.html?lang=jpn
JS ローマ4:16
(信仰と行ないの両方があって,しかも恵を受なければ,救いは得えられない。)
16 このようなわけで,あなたがたは信仰と行ないにより,恵を通とおして義とされるのである。
こうして約束がすべての子孫に,すなわち,律法に立たつ者ものだけでなく,
わたしたちすべての者の父であるアブラハムの信仰に従がう者にも保証されるのである。
ーーー
プロテスタント
http://www.berith.com/shuhou/roma/038-19990627.shtml
4:16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。
それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、
アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。
「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。
・・・
それ故、この世には、基本的に二種類の宗教がある。
恵みの宗教と行ないの宗教である。
本質的に、聖書の宗教は恵みの宗教であり、異教の宗教は行ないの宗教である。
しかし、いくつかの異教は聖書から魅力的と思われるところを借りているため、
キリスト教から影響を受けた異教においては恵みの要素が入っている。そのことを覚えながら考えていきたい。
ーーー
カトリック
http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_philosophy/33.htm
つまり100%の他力本願です。
また、ルタ-は人間がよいことができないと言うことで、人間が自由であることを否定したのです。
それに対して、カトリックも、天国に行くのは人間の力では無理で神の助け(恩寵)がいると教えます。
しかし、人間の側から何もできないのではなく、人間が神の助けを受け入れて協力する必要がある、と教えます。
ーーー
末日聖徒にとっては
>信仰と行ないの両方があって,しかも恵を受なければ,救いは得えられない。
とうのは至極自然な解釈でかつては「信仰のみ」な思想は違和感がありましたが。。
最近はあまり変わらないというか表現の違いでしかない。という感覚です。
しかし、JS聖書の解釈は大変わかりやすくストレートな表現で好感が持てます。
ローマ書は新約聖書の中でも正確性の高い書簡だとか。
もしパウロの自筆の書簡が見つかったとしたら、「信仰と行ないにより」とは書いてないでしょうが、解説としては「やさしく言い換えてくれてありがとう」とパウロさんも褒めてくれるのではないでしょうか。
3:15
また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。
ペテロ第二(口語訳)
3:15
また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。
このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、
あなたがたに書きおくったとおりである。
3:16
彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。
その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、
無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、
無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。
ーー
安直にキリスト教を信じればとか入信すれば救われる。と思っている人たちへの戒めですね。
https://blog.goo.ne.jp/numano_2004/s/%E6%AC%BD%E5%AE%9A%E8%A8%B3
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E6%AC%BD%E5%AE%9A%E8%A8%B3
安直にキリストを信じる人なんてクリスチャンにいるのかな?
こういう何気ない発言に、発言者の宗教観がふと表れるものなんだよね
狂乱バプテスマの時代に何千人(何万人か?)と安直に改宗させといたモルモン教会が、どのツラさげてこんなセリフ言うんだろうなぁ
𓅐別班マン𓆃
朝生(週刊東洋経済より)日本での統一教会の集金が米韓の教団グループを潤し、アダム国家(韓国)に贖罪すべきエバ国家(日本)と見なす韓鶴子総裁は「日本人は許されない民族だが韓国に全て与えれば許される」とする教義に倣い政官財学メディアがスパイ活動をしている事実。
𓅐別班マン𓆃さんが追加
【統一教会の正体】#kokkai 何で日本の宗教法人資格を剥奪しないのそして破防法を適用しないの
𓅐別班マン𓆃さんが𓅓日銀筆頭株主ロスチャイルド𓁹をリツイートしました
#朝生 そもそも論なのですが、日本維新の党の足立康史幹事長代理など、いや特に自民党の国会議員には多いのですが、「日本国」の安全保障や国民主権、基本的人権等々、「韓国統一教会」のシンクタンク世界戦略総合研究所に参加するような人物に日本の国会議員である資格は無いと思うのですが如何草
日本もトランプみたいにインナーステートの訴追を始めなよ。官僚の天下り先となる財閥特殊法人と宗教法人の非課税特権の撤廃を拒むから外国に日本政府が乗っ取られたんだよ。・・・
」https://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/e4f048c9cb441abf3cc7355ef7169c00?st=1
素性が分からなさ過ぎて
得たいが知れないっ--!
[ハズキルーペCM風に]
本当はコメントする人に本名を名乗ることを求めたいのですが、ハンドルネーム(仮の名前)でもどんな人物か分かっていると安心です。
Unknown さん、何か区別できるようにしてください。アルファベット一文字を加えるとか、地名、年齢、本家、分家、二世、とか添えるなどして。
また、内容が失礼に、粗野にすぎると感じる時、削除を考えますのでご注意を。宗教組織に対する悪口、中傷も控えるのが常識と考えます。
大阪風に言えば「主宰者をなめたらあかんで」。
大阪風って言うのは
>内容が失礼に、粗野にすぎると感じる時、削除を考えますのでご注意を。宗教組織に対する悪口、中傷も控えるのが常識と考えます。
変なこと書くと削除するぞ~、主催者の権利じゃ~、すまんの~笑えよ~・・・。
同時路線を行く漫才師がまた一人亡くなりました。
ご冥福を祈ります。
スレッドに関係なくて、すまんの~・・・。
独自路線の間違いじゃ~すまんの~笑えよ~
固定のハンドルネームを使わないのはそれなりの理由があるのです。ご理解いただけなくても構いませんが。
>宗教組織に対する悪口、中傷も控えるのが常識と考えます。
「宗教組織に対する」ではなく「モルモン教会に対する」なのでは? オムナイさんなんかはしばしばカトリックや伝統キリスト教に対する皮肉や当て擦りを発言しますが、そのことに関して全く注意されませんね?
一方でモルモン教会に対して痛いところをついてしまうと、NJさんはなにやら警告めいたことをおっしゃるワケです。
http://www.ishiyuri.com/entry/018/04/28/Utah-valedictorian-comes-out-in-graduation-speech
モルモン で検索より
https://twitter.com/search?q=%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3&src=typd
安直で良いんじゃないですか?
福音て言うのは、安直に信じるだけで救われるから「福音」なんだと思います。
イエスが、全ての人を救おうとしてるのに、戒めとか、行動規範とか言ってハードルを高くするのは、パリサイ人と同じ感覚だと思います。
オムナイさんも、幼子の様になってください。
間違っても、豚にはならんように。
ええこと言わはりますなぁ・・・
アーメンどすぇ
>(信仰と行ないの両方があって,しかも恵を受なければ,救いは得えられない。)
確かに、ジョセフスミスの基本的な考えが、現れてる箇所だと思います。
そして、モルモンの教義の中心を流れる思想なんでしょう。
日本的に言うと「自力救済」
努力するものは、その努力に応じて、益を得る、と言うのは、合理的な考え方です。
ただ、私は疑問に思うのは、その合理性が、果たして、良いものなのか?人間社会にとって益となるのか?
人はそれで救われるのか? って事です。
「努力に応じて・・・」と言うのは、いかにも公平な様に聞こえますが、人間って、スタートラインから公平じゃない。
福沢諭吉も、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずと言うが、人は生まれながらに環境が違う」と言う意味の事を言ってます。
私は、イエスの教えは、その事も考慮して、人が救われる道を説いたのだと信じてます。
全ての戒めを守り、良い行いをしていた青年に、「全財産を施して(捨てて)、私に従ってきなさい」とイエスは言いました。
これが、ここ数年にわたる、モルモンの学習テーマです。
イエスは、生まれながらに恵まれていた青年をたしなめたんだと思います。
恵まれた環境に居る者が、その自分の尺度で、救いを語るのは違うと思います。
>努力するものは、その努力に応じて、益を得る、と言うのは、合理的な考え方です。
さすが師匠深いお考えに学ばせて頂いてます。
オムナイ的には「恵を受なければ,救いは得えられない。」にフォーカスしています。
モーセの律法に固執したパリサイ人も信じるだけで救われると思った極端なルター派も信と行が違うだけで滅びを招く無理な解釈だと思ってます。
人生を最善を尽くして歩めば誰でも救ってくださる。
それが福音だと思います。
目に見えるしるしがないと人間って不安になるものだからね
モーセが目の前にいる間は彼にしたがっていたけど、山に入って何日も帰らないと不安になって金の牛を造る、目に見えるモノがないと信じられないんだよね
だから「行い」という目に見えるモノがないと信仰を持てないんだろうなって思います
NJさん、宗教の悪口はダメってことでしたが、こういう発言はOKなんですかね?
じゃ同様にモルモン教義は滅びを招きます、と申し上げますが、当然OKですよね?
私も何度かブログとか立ち会あげてはみたんですが、全く続きません。
モルモン関連のブログや掲示板も、続いてないようですね。
それを思うと、NJさんの根気の良さには、頭が下がります。
わたしなんぞは、つい思い付きだけで何かを書いてしまいます。調べるッていても、せいぜいがネット検索ぐらいです。
それに比べると、NJさんは、きちっとした資料を提示して、話を進めている。こう言うところが、長続きする秘訣なんでしょうね。
私は、NJさんの立ち位置を支持する事は有りませんが、こうやって、何らかの形で、モルモンについて、自分の思っていることを書き込めるのは、有難い限りです。
古臭い、自分の掲示板を今でも持ってますが、そこに書くより、こちらの方が、他の方の意見も聞けて参考になります。
どうもネットと言う空間は、自分の好む意見ばかりがくっついてくるような傾向に有るらしくて、ついつい、自分の嫌いな意見は排除してしまうか、寄り付かなくなってしまう物らしいですね。
それで、一定の意見の持ち主ばかりが、集まってしまう。
それに比べれば、このブログは、結構いいバランスを保ってる気がします。
・・
第一巻の「ルカ福音書」と第二巻の「使徒言行録」あわせて「ルカ文書」と呼ばれている・・
初期キリスト教の研究は本書なしには成り立たない。
また、パウロの書簡集も『使徒言行録』の存在によって価値あるものになっており、
『使徒言行録』なしにパウロの手紙を読んでも理解できない部分が多いことを忘れてはならない。・・
ーーー
ルカ文書の記録者はとてもわかりやすい表現でパウロの哲学的な表現とは対照的な感じがします。
JBS共同訳ー使徒言行録/ 13章 38節-39節
だから、兄弟たち、この方による罪の赦しが告げ知らされたことを知っていただきたい。
そして、モーセの律法では義とされえなかったあらゆることから解放され、
信じる者は皆、この方によって義とされるのです。
ーーー
とあるようにパウロがモーセの律法にこだわる初期のクリスチャンに説いていたのは、
「モーセの律法の(行い)では救われない。」と力説していたのであり、
善行のことでは無いのでしょう。
救われるためには信仰と行いの両方が大切だという人の行いは、他の宗教をあげつらったり皮肉を言ったり・・・
そういう類いの「善行」を積んで入るのが日の栄えならば、救われない方がマシかもなぁ
>救われるために善行を行うのは、ラッパを吹いて献金することに似ていると思う。
確かに偽善的行いはそうでしょうね。
>救われるためには信仰と行いの両方が大切だという人の行いは、他の宗教をあげつらったり皮肉を言ったり・・・
記憶にないです。
そう受け取ったとしたらオムナイの表現不足でしょうね。
「信仰義認論」もよくよく思想を聞くと素晴らしいです。
末日聖徒、カトリックの義認と根っこでは繋がっていると感じています。
神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
すなわち、忍耐強く善を行い、
栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
ーー
>パウロも善行での救いを説いた
しかし、ローマ書の後半では「行い」だけでは救いに至らずキリストの贖罪を信じる信仰に頼らなければ。。と展開されてるんですよね。
だと思います。
信仰箇条にも
福音の第一の原則は「主イエス・キリストを信じる信仰」とありますからね。
その信仰も最初は「信じようとする望みを持つだけでもよい。」
とアルマは教えてます。
元Unknownの一人です。
kizukaさんも指摘していましたが、オムナイさんの以下の発言、素敵ですね。
>モーセの律法に固執したパリサイ人も信じるだけで救われると思った極端なルター派も信と行が違うだけで滅びを招く無理な解釈だと思ってます。
これの発言が許されるということのようですから、NJさんの勧めもありハンドルネームにしてみました。
いかがでしょうか?
「40 また、わたしの愛する同胞よ、わたしは希望についてあなたがたに話したいと思う。あなたがたに希望がなければ、どうして信仰が得られるであろうか。
41 また、あなたがたは何を望めばよいのであろうか。見よ、わたしはあなたがたに言う。あなたがたは、キリストの贖罪とキリストの復活の力によって永遠の命によみがえることを望まなければならない。あなたがたがキリストを信じることで、約束のとおりこれが果たされるのである。
42 したがって、もし人に信仰があれば、必ず希望もあるに違いない。信仰のない希望はあり得ないからである。
43 さらに見よ、あなたがたに言う。柔和で心のへりくだった人でなければ、信仰と希望を持つことはできない。
44 たとえ持てたとしても、その人の信仰と希望はむなしいものである。柔和で心のへりくだった人でなければ、神の御前に受け入れられないからである。また、人が柔和で、心がへりくだっており、イエスがキリストであることを聖霊の力によって認めるならば、その人には慈愛が必ずなければならない。慈愛がなければ、その人は何の価値もない。したがって、人には慈愛が必ずなければならない。
45 慈愛は長く堪え忍び、親切であり、ねたまず、誇らず、自分の利益を求めず、容易に怒らず、悪事を少しも考えず、罪悪を喜ばないで真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
46 したがって、わたしの愛する同胞よ、もしあなたがたに慈愛がなければ、あなたがたは何の価値もない。慈愛はいつまでも絶えることがないからである。したがって、最も大いなるものである慈愛を固く守りなさい。すべてのものは必ず絶えてしまうからである。
47 しかし、この慈愛はキリストの純粋な愛であって、とこしえに続く。そして、終わりの日にこの慈愛を持っていると認められる人は、幸いである。
48 したがって、わたしの愛する同胞よ、あなたがたは、御父が御子イエス・キリストに真に従う者すべてに授けられたこの愛で満たされるように、また神の子となれるように、熱意を込めて御父に祈りなさい。また、御子が御自身を現されるときに、わたしたちはありのままの御姿の御子にまみえるので、御子に似た者となれるように、またわたしたちがこの希望を持てるように、さらにわたしたちが清められて清い御子と同じようになれるよう、熱意を込めて御父に祈りなさい。アーメン。」 」
モロナイ7
それでルターは救いは信仰によるものだと説いたわけです。また、行いをもって救われるという考え方は偽善を生むことにつながるとルターは説明しています。
信仰義認という考え方をよく理解していない末日聖徒はしばしばこう言うのです「信じるだけで救わるるのか?じゃぁ何をやってもいいのか?犯罪や殺人をやってもいいのか?そんなのおかしいだろ、だから信仰義認は間違いなんだ」
私の記憶では、オムナイさんもそういう事を言っていた一人ですが。何回説明されても彼は理解する気配すらないようですね。
ルターには、十戒はクリスチャンが学び守るべき規範だと説いている書もあるのです。このことをとっても信仰義認は、信じていれば何をしてもOKというような考え方ではないことが分かると思います。
結局、末日聖徒は伝統的キリスト教について何も見ず、学ばず、理解せず、自分たちの勝手な思い込みで作り上げた虚像を批判しているだけなのです。
たとえば、幼児洗礼を受けずに死んだ子供は救われないんでしょ?とか、死が二人を分かつまでの結婚しかないんですよね?とか。それに比べてモルモンでは家族は永遠ですよ、素晴らしいでしょ?とかやってるわけです。
アホかと思いますねぇ・・・家族は永遠と言ってることの無意味さもいつか機会があれば説明したいと思いますが。
まぁルターの業績に比べれば末日聖徒の予言者などは足元にも及ばない、私はそう思っています。
この共同の取り組み以後も続けられた研究により,ジョセフ・スミス文書の一部として,
2004年に完全な聖書の改訂原稿が公開されるに至ったのでした。
↓
http://www.centerplace.org/hs/iv/default.htm
私が復元教会の牧師に聞いた話だと、JS訳聖書は復元教会で聖典としているが内容的に良くないという批判が復元教会内でも存在し、JS訳はあえて使わないという信者もいる、というかモルモン書も読まないという信者もいるとのことで、そうした姿勢でも復元教会では個人の信仰の持ち方として許容されている、ということでしたね。
今年のステークのチャレンジはモルモン書読破です、さぁ目標を立ててください、ミニスタリングブラザーは各家庭が毎週読むように励ましてください、なんて半ば強制している我らがモルモン教会とはだいぶ違うなぁという感じでしたね。
また復元教会は指導者が言ったことにもばんばん批判することは普通にあるそうで、ちょっとでも指導者に疑問を呈すると、やれ信仰が弱くなっていてるだの背教だのと従順を押し付けてくる我らがモルモン教会とはだいぶ違う感じです。
あのリーハイが見た・食べた木・木の実というこっちゃな・・・
「11 そこで、行ってその木の実を食べると、それは、今までに味わったどんな実よりもずっと甘いことが分かった。またその木の実は白く、今までに見たどんな白いものにも勝って白かった。
12 そしてその木の実を食べると、わたしの心は非常に大きな喜びに満たされた。それでわたしは、家族にも食べてほしいと思い始めた。その実が、ほかのどんな実よりも好ましいことが分かったからである。」
1ニーファイ8
「22 それでわたしは答えて言った。「はい、その木は人の子らの心にあまねく注がれる神の愛です。だから、どんなものよりも好ましいものです。」
23 すると天使はわたしに、「そのとおり。それは人にとって最も喜ばしいものである」と言った。
24 天使はこれらのことを言ってから、またわたしに「見なさい」と言った。眺めると、神の御子が人の子らの中に進んで行かれるのが見えた。また多くの人がその足もとに伏して、御子を拝むのが見えた。
25 そしてわたしは、父の見た鉄の棒が生ける水の源、すなわち、命の木に導く神の言葉であること、またその水が神の愛の表れであり、命の木もまた神の愛の表れであることを知った。」
1ニーファイ11
福千年が開始されたら、サタンとサタンに従う霊たちが獄に繋がれて罰を受け、地上に善人が復活し始める。
②福千年後にやってくる最後の審判の日に、思いと行いによってキリストに選ばれて、昇栄を宣言されて神の友に数えられること。
のふたつがあるからね。 一般的なキリスト教会では①のみを強調することで、①だけでなく②も信じているモルモンをバカにしているのだよ。
最後の審判で「滅びの子」と宣告された人だけが、天国から追放されて地獄に落ちていってしまうということになっています。
>当時のカトリック教会は資金集めのために免罪符を発行していたのですね。いわく、人は善行を積むことにによって救われる、しかし善行を行うのはなかなか困難である、そこでこの免罪符を買いなさい、そうすれば救いは近づくであろう、と。
>それでルターは救いは信仰によるものだと説いたわけです。
勉強不足で、ルターについても、昔伝記を呼んだぐらいなのですが、免罪符(贖宥状)は、宗教改革のきっかけにはなったと思いますが、ルターの信仰義認に関する考えは、それ以前から彼の中に有ったのだと思います。
それと、ルター自身は、すごく行いを重視した人だと思ってます。
ルターの行動は、「信仰さえあれば、行いはどうでも良い」と言うのとは、かけ離れていたと思います。
ルターの信仰義認の影響を受けて活発化した農民運動に関してですが。
抑圧されていた農民が、解放運動の中で、領主からの略奪などを行為をルターは批判しました。
ルターは路線変更後の1525年、『盗み殺す農民に対して』において「親愛なる諸卿よ、やれるものは誰でも彼ら(農民)をたたきつぶし、絞め殺し、刺し殺せ。(…)狂犬を撲殺しなけらばならない」と農民の殺害を煽動するほどであった[7]。宗教改革を成功させるためには、世俗の権力と金力が必要だった[8]
https://ja.wikipedia.org/wiki/マルティン・ルター より
つまり、日本人的な、「信じて居れば救われる」と言う考えとは、違っていたと思います。
ルターは、父親から厳格に育てられ、それに反発したようですが、子供の頃から身に付いた厳格さは、死ぬまで変わらなかったのだと思います。
先日ワーグナーのニュールンベルグの指輪、の中の「ワルキューレ」を1日かけて見てきましたが、その中でも、「神の正義と愛」と言うテーマが歌われていました。
愛を行ったワルキューレに、正義を行う事の苦しさを吐露する神が私には印象的でした。
正義なのか?愛なのか?
善行なのか?信仰なのか?
私には、そんなに簡単に結論は出ません。
モルモンが、「ホームティチャー家庭訪問教師」と言う行い重視から「ミニスタリング」と言う愛重視に舵を切ったのなら、歓迎するところです。
ただ、革袋が古いため、新しい酒を入れられるかどうかは疑問です。
モルモンの救いっていうのは、俺はモルモンだからファーストクラス、あんたはモルモンじゃないからビジネスかエコノミー、でも飛行機に乗せてやったんだからありがたく思いなよ、って話ですね。
それを信じるのはモルモン会員の自由だけど、プロテスタントの万人救済とは違うのです。
それもな~・・・て気がしません?
万人って言うのは、豚は入って無いし・・・。
確か、モルモンの教義では、地獄は復活の前に居る場所ですよね。
滑り止めとは言い得て妙ですね。
憲法第25条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
これをイメージしてました。
最低の天国といえど人知を超えた桃源郷だとか。
スンバラシイ救いの教理ではないですかぁ!
人間来世の幸福が保証されているなら口笛を吹いて人生を歩めそうなものです。私など星の栄でさえ勿体無いかも。
もっとも末日聖徒の来世感は天国と地獄が相対的なものではあるんですけどね。
関連箇所比較しておきます。
新共同訳 ヨハネによる福音書 5:29
善を行った者は復活して命を受けるために、
悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/jst/jst-1-cor/15?lang=jpn
JS 1コリント15:40(1コリント15:40と比較せよ)
(復活には3つの栄光の階級がある。)
40 日の栄えの体もあれば,月の栄の体も,星の栄の体からだもある。
しかし,日の栄のものの栄光と月の栄のものの栄光と星の栄のものの栄えい光こうは,違ちがっている。
新共同訳 1コリント15:40-41
また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、
星と星との間の輝きにも違いがあります。
>ルターの行動は、「信仰さえあれば、行いはどうでも良い」と言うのとは、かけ離れていたと思います。
さすが。
同意します。
https://kierkegaard.jp/wp-content/uploads/2013/08/fed287b8e8cbb6b49d22f680002dcaae.pdf
・・
キェルケゴールによれば、ルターが「わざ」を廃棄したという見解は、
彼以後のプロテスタンティズムに帰せられるべき誤解に他ならない。
・・
若しルーテルが日本に生まれたならば?と問ふ者がある、余輩は此問に
答へて曰ふ
「ルーテルは日本に生まれない、そは今日の日本に彼の生れ出る必要がないからである、
神は用なき人を国に送り給はない、今日の日本にルーテルを出すもそは無用の長物である、
ルーテルは十六世紀の欧洲に必要であつたのである。
ーーー
ジョセフ・スミスの最初の示現の頃のアメリカのプロテスタントの教会は、もう必要の無くなった「信仰のみの義認」に陥っていたのかも。
確かに、平等は良いって思うし、競争社会なんて、豚的ではない。
でもね~。金も銀も銅もメダルの無いオリンピックなんてつまらないって思いもあるしね。
それとね、豚は基本的には、日の栄なんて行きたくない。
どう考えても、楽しそうじゃないからね。
だってそうでしょ、くそまじめな人間ばかり集まってる社会なんて、何の魅力も無い。
毎日が安息日の教会みたいな場所に、永遠に生きてるなんて、まさに地獄だよ。
言えてますねぇ、でもってモルモン教会(長子の教会だっけ)と幹部をなんでもかんでも素晴らしい素晴らしいと、北朝鮮国民が金正恩にするみたいに誉め称えるんでしょ?
頭痛くなりそう
一生懸命、モルモン書を読んで断食日に我慢して日曜日に遊びたいのを我慢して、その善行wの報いをもらえなきゃ嫌なんだろうなぁ
>毎日が安息日の教会みたいな場所に、永遠に生きてるなんて、まさに地獄だよ。
たぶんどの天国(栄)もこの地上以上にエキサイティングな日常だと思いますよ。
仏教なんかは地獄に8段階のランキングがあるとか。
ネガティブなのか逆にポジティブなのか。
陰暦と陽暦のちがいでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/八大地獄
>ルター自身は、すごく行いを重視した人だと思ってます。
>ルターの行動は、「信仰さえあれば、行いはどうでも良い」と言うのとは、かけ離れていたと思います。
そうですよ。私、そう言いましたけれども。
「信仰さえあれば、行いはどうでも良い」と言う考え方が信仰義認だ、というのはモルモン教会員(このコメント欄ではオムナイさん)が吹聴している誤謬です。
モルモン教会員って、間違ったクリスチャン像を妄想の中で勝手に作り上げ、それに基づいて、ほらクリスチャンは間違っているよ、モルモンは正しいよって一人芝居をやってるんですね。
善行に励むのは人として大切なことです、でもそれは、善行が救われる条件だからじゃない、救われるために必要だから行っているならそれは善行じゃない。それはノルマであり、ときには偽善にもなる。
救いは、神の側の一方的な恵みのよるのであって、私らが何か立派なことをしたからといって、それを交換条件にして神に対して救いを要求するものではない、ということですよ。
末日聖徒ってこの説明を何回受けても理解できないんです・・・私にはそれが不思議です。まぁ良いですけどね。
しかしねぇモルモン教会員で、信仰義認はもう不要だとか言ってる人は、現代は善行を積んで救われる時代だよ、とでも言いたいのでしょうか?じゃ何であんた伝道に行かなかったの?って聞きたいですね。
私は19才から2年間伝道に行きましたけれども。で、モルモン護教しているあんたらは何で行かなかったの?善行を積んで救われるんでしょ?ん? って問い詰めたいですね。
★福千年の間、正義の要求にしたがって悪人の霊が閉じ込められて、自分自身の罪を償わされるところ(獄)
★復活後の最後の審判の裁きにおいて、キリストから滅びの子と宣告され、天国より永久に追放されること。(外の暗闇)
ということになっている。
★存命中でも、死んでからでもイエスに帰依した者が罪なしとして救われるところ(パラダイス)
★復活後の最後の審判の裁きにおいて、キリストから受け継ぐ父の王国のこと(日の栄え、月の栄え、星の栄え)
宗教改革の時代、一部の神学者によって再び『ヤコブ書』が槍玉に挙げられるようになった。特にマルティン・ルターは『ヤコブ書』をあまり価値のないものと考え、『藁の書』と呼んで何度も正典から外そうとした。その理由はルターが唱えた「信仰のみ」という考え方の中心をなすパウロの思想を批判するだけの文書と考えたためであったと思われる[2]。結局ルターの弟子たちがルターが正典から除外しようとした『ヨハネの黙示録』と共に新約聖書については伝統的な27書とすることで問題は決着した。
」
「執筆の目的: この手紙はパウロの信仰の教えを乱用した人々に書かれたとする節があります。この様なキリストにある信仰によって旧約の律法、戒律主義、法律や社会的道徳から解放されるという極端な教えを無律法主義(antinomianism)といいます。ヤコブの手紙は国外に散っているユダヤ人クリスチャン達にむけて書かれた手紙です(1:1)。この手紙を嫌い、「藁の書」と呼んだマルチンルターはヤコブの手紙がパウロの信仰の教えと矛盾したのではなくそれを補完する書物と理解できなかったのです。パウロの教えは信仰義認に特に注目していますが、ヤコブの教えは信仰義認の証拠となる行いに注目しています。ヤコブはキリストにある信仰に成長するようにとユダヤ人達に励ましを送ったのです。聖霊に満たされた者はやがて良い行いをすると強調し、パウロがガラテヤ5:22-23で書いている御霊の実が行いを通してみられないならばその人物が救いの信仰を持っているかどうかも分からないと教えています。
重要な箇所: ヤコブ1:2-3:「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを・・・」
一方ルターは確かに行いの重要性は説いたが、結局のところ一般的なクリスチャンの理解では、行いと救いとは無関係であると考えている。
そのため末日聖徒の努力=「善行」を偽善であると決めつけて馬鹿にする傾向がある。
つまりそういうこと。 揶揄は当たっていませんし、間違った理解はしていないと考えますが?
>そのため末日聖徒の努力=「善行」を偽善であると決めつけて馬鹿にする傾向がある。
どうして「馬鹿にする傾向がある」とおっしゃるのですか?何か調査したわけでもないでしょうに。そんなクリスチャンは、一人もいないとは言いませんが、いたとしてもごく少数でしょう。大抵はモルモンに関心ないですから。
むしろ末日聖徒側にこそ問題があって、信仰義認を間違って理解した上に「信じるだけで救われるなら何をしても良いと言うのか」なんて風にクリスチャンを馬鹿にしているんですよ。主にオムナイさんね。
「信じるだけで救われると思った極端なルター派も信と行が違うだけで滅びを招く無理な解釈だと思ってます」なんてアホな発言をしていたでしょ。「極端なルター派」ってなんだよ、そんなのいねーよって。
彼の発言は、モルモンは今でも多妻結婚をしているぞに匹敵するような、偏見に基づく失礼極まりない発言です。私は末日聖徒として、モルモン会員が誤解に基づいてクリスチャンをバカにしているのを見過ごせないんです。そんなことをやってるからいつまでたってもモルモンは異端だ、クリスチャンとは関係ないって言われるですよ。
>一般的なクリスチャンの理解では、行いと救いとは無関係であると考えている。
一般的なクリスチャンの理解ではというより、信仰義認では、ですね。行いと救いとは無関係だからこそ、救いに大きな意味があり、神への感謝が深まり、自分は救われたという認識の下でより善行に励むようになる、ということです。
信仰義認は「どんな悪いことをしたって構わない、信じるだけで救われるから」なんていう考えではありません。まぁオムナイさんは何度説明されても絶対理解しないでしょうけれどね。
つまりそういうこと。で、Rさんは伝道に行ったの?
>そうですよ。私、そう言いましたけれども。
はい、その様に理解してます。
これは、私の無知な理解ですが、ルターは修道院に入って、修行したんですよね、でもそれがなんかピンとこないって言うか、しっくりしないって言うか??
ルターって、何とか「自分は救われたい」って願ったような気がしないんです。
確かに、救いについて考え抜いた人だとは思うんですが、「救われた」って切に願った人のようには思えないんです。
>信仰義認は「どんな悪いことをしたって構わない、信じるだけで救われるから」なんていう考えではありません。
私も、信仰義認について無理解です。
ただ、南無阿弥陀仏を唱えれば極楽浄土に行ける。
と似た感じでとらえているのだと思います。
ですから、「どんな悪いことをしたって構わない、信じるだけで救われるから」で良いのだと思ってます。
>行いと救いとは無関係だからこそ、救いに大きな意味があり、神への感謝が深まり、自分は救われたという認識の下でより善行に励むようになる、ということです。
これと、
>信仰義認は「どんな悪いことをしたって構わない、信じるだけで救われるから」なんていう考えではありません。
は、矛盾しますよね。「行いと救いとは無関係」ってだったら、「どんな悪いことをしたって構わない、信じるだけで救われるから、」で、良いわけです。
つまり、真宗の南無阿弥陀仏も、ルターの信仰義認も、難しすぎて、凡人には理解しがたい。
モルモン教義は滅びを招く無理な解釈だと思っている者さんの様な、頭の良い人にしか理解できない。
でも、それじゃあ、万人を救う教義にはならないじゃないですか?
なるほど。
ルターさんは
酒と女と歌を愛さぬ者は、生涯馬鹿で終わる。と名言を発していて、
まぁ、カトリックの免罪符や権威主義にモーセの律法を重ね合わせて
モーレツ抗議に至ったのが「キリスト者の自由」なんでしょうね。
宗教革命にはカトリックとは逆の思想を強調してぶつけていった。と
後世になって、今度は極端な無律法主義のプロテスタントが多くなったと。
つまり「行」と「信」は相互干渉の関係にあるのでしょうね。
ヤコブ2:24 「 人は行ないによって義と認められるのであって、
信仰だけによるのではない。」
ヤコブ書は山上の垂訓に似ている言われていて、著者はキリストの弟との説もあります。
最もキリストの思想を純粋に伝える書の一つではないでしょうか。
藁の書なんてとんでもない。
それに比べてパウロの書簡はペテロも言うようにわかりにくいものの他の福音書や手紙と同じことを述べています。
それはパウロがギリシャ語とベブライ語のバイリンガルで、ギリシャ哲学の影響を受けているせいなんでしょうかね。
パウロがその書簡で述べているのはモーセの律法からの脱却であって、信仰と行いの関係ではないように読めます。
そんなアホを相手に、宗教者は、「神はこう言ってる」と断言する。そこには理屈なんて全くない。
「神が言ってるのだから」って言えば、それ以上論議の仕様も無い。
そこで、根拠らしく、聖典にこう書いてある・・等と言い出すが、その聖典すら、ほんまに神の言葉を聞いたのか?いや、誰が書いたのかすらよく分かっていない。
氏素性の知れない輩が書いた物を、やれギリシャ語だとか、ヘブライ語だとか言って学問的らしく蘊蓄を述べるが、しかし、根本になるものの真偽が明らかでないのに、その蘊蓄に何の意味が有るのか?って言いたい。
「神の義」等と言うのは、その程度のもので、信仰者は有り難がるが、真偽のほどはいい加減なものだ。
この意見に文句が有るのなら、私の目の前に神を連れてこい!
ただ、連れてこられても、見たことが無いので、それが本物かどうかはわからないのが、問題だ。
神の義については、さように意味不明だが、人間の義は意味明瞭だ。
人間社会の存続に何が必要か?って言うテーマなら、ある程度の方向性は出せるのではないか。
神の義などと言う、不毛の論議に現を抜かすより、人間の能力を有効に使えると思うがどうだろうか?
ただ、個人的には、無意味なうだうだ話も嫌いじゃない。
ポケモンで信者ゲットだぜ。とはいかなかったようですね。
ルターの信仰義認説の意味とは
まず学びましょうということでしょうか
私はルターを立派な人だと思ってはいますが、彼の信者ではありませんし、彼について何もかも知ってるわけではありません。ですので、あなたがルターをどう受け止めようが、そうですかとしかお返事できません。
>は、矛盾しますよね。「行いと救いとは無関係」ってだったら、「どんな悪いことをしたって構わない、信じるだけで救われるから、」で、良いわけです。
あなたは思い違いをしていますね。というか論点がズレています。それを説明します。
【概念A】
・信仰義認とは信仰によって義とされるので、人は何をやっても構わないという考え方である。だから滅びを招く。
【概念B】
・信仰義認とは信仰によって義とされるという考え方であるが、人は何をやっても構わないとは教えていない。
ここでオムナイさんをはじめモルモン教会員の多くは【概念A】を持っている。だからルター派は滅びを招く云々の発言を彼はしているワケです。で、私は【概念A】は誤りであり、正しくは【概念B】であると訂正しているのです。
そういう勘違いをしたままキリスト教批判をするのは実にみっともない、アホだからです。
それだけです。豚さんの勘違いは、私の主張が『モルモン教義は間違いで信仰義認が正しい』だと思っていること。そうではないのです。
私の主張は、
『【概念A】は間違いで、正しくは【概念B】である』
です。
ここまで説明しても当の発言者であるオムナイさんは全く理解せず、しばらくしたらまた【概念A】を持ち出すのでしょうけれどね。
豚さんの理解力はオムナイさんレベルですか?もうちょっとマシなのですか?
・信仰義認とは信仰によって義とされるという考え方であるが、人は何をやっても構わないとは教えていない。
これが意味不明です。
「人は何をやっても構わないとは教えていない。」って事は、救いの為の行動規範が有るって事ですよね。
それなら、初めから「良い行いをしないと救われないよ」って教えればいいわけです。
質問ですが、信仰義認と言うのは、「救いは信仰のみで判断される」のか、「行いも判断基準になる」のかどっちなんです。
アホにも分かるように説明してください。
https://hitopedia.net/信仰義認説/
信仰義認説
信仰義認説とは、ルターが提唱した、人間は救い主である神への信仰によってのみ義とされるとする説。
プロテスタンティズムの根本思想となり伝統や形式を重んじるカトリック教会に対しての批判が込められてる。
神の義(正しい)とは、聖書に示された神の意志であり、それにかなうことによって人は義(正しい)とされる。
ルターは、パウロの『ローマ人への手紙』をもとに完全な善行を行い得ない人間は、神の恩寵(恵み)によってのみ“義”とされる。
十字架上で人間の罪を贈ったイエス・キリストへの信仰によってのみ、
人間は罪から解放されて神の前に義とされるとする。
キリスト者は、神の救いを感謝をもって受け入れ、神の恵みへの信仰によってのみ、ただしき人として生きることができる。
ーーー
>質問ですが、信仰義認と言うのは、「救いは信仰のみで判断される」のか、「行いも判断基準になる」のかどっちなんです。
プロテスタントの信者になったつもりで「悟り」を得ようとする心持ちで読み砕くのが良いのでしょうね。
この場合、耳学問と論理的思考はむしろ邪魔をするものです。
ーー完全な善行を行い得ない人間は、神の恩寵(恵み)によってのみ“義”とされる。ーー
神の恩寵(恵み)に焦点を当てて考えるとわかりやすいかも。
救い主キリストをただただ純粋な気持ちで信じれば、彼の教えを自然と行うだろうし、救われる存在へ誘われる。
そんな風に私は読み解きました。
とりあえずルターの「キリスト者の自由」を読むと良いです。
安いし、薄いです。
>完全な善行を行い得ない人間は、神の恩寵(恵み)によってのみ“義”とされる。
そこんとこなんですけど!!!
そもそも、人間を不完全に作ったのは、神様じゃないですか!!
その不完全に作られた人間が、何とか必死に努力して、少しでも良くなろうって、あがいて生きてるんです。
それなのに、そもそもの原因を作った、神様が、「人間はいくら頑張っても、救われないよ!私の力が無いとね!」なんて、他人事のように言っちゃって良いわけ?
そんなことを、したり顔で言う宗教者が、信用できないんですよ!
結局、あんたらは、神様の側で好きなこと言ってる。
人間の側に立って、神様に物申す事なんてしない。
私は、人間として、神様に文句を言いたいことが、いっぱいあるのだ!
ありゃ。悪霊にでも取り憑かれたのでしょう。
エクソシストにお願いしますか。
>神様が、「人間はいくら頑張っても、救われないよ!私の力が無いとね!」なんて、他人事のように言っちゃって良いわけ?
うーんと。プロテスタントの信者さんは人はそもそも救われていて、それに気づくだけだと理解している方も多い様です。
要は気持ちの問題なんでしょうね。人間死ねば皆仏。
どれだけ、ありがたく神秘的に、かつ説得力をもって人に安寧をもたらすか。それが宗教家の才覚なんでしょうね。
オムナイの場合はいわゆるモルモン神学に癒され、真理をみいだしているわけですが。
様々な宗教が様々に真理を説く。
しかし、黄金律的なものは共有しているわけですから、
その部分で協力すれば黄金色の世界は具現化するのではないでしょうか。
>アホにも分かるように説明してください。
え?あなたはアホじゃないでしょ、アホ以下の豚なんでしょ?ホントにあなたが自認しているとおりですよ。
私はね、
信仰義認に対する【概念A】は間違いであり、正しくは【概念B】である
と言ってるのです。それだけです。
信仰義認そのものをあなたが納得するように説明する義務は私には無いのです。そういう話を聞きたいならばお近くのプロテスタント教会へ行ってください。
あなたがどれくらいアホなことを言ってるか別のたとえで解説してあげますね。
Aさんがこう言いました「モルモンの預言者とはジョセフ・スミスただ一人である」
それを聞いていたBさんはモルモン教会員ではなかったが、Aさんの言ってることを訂正するために「いやモルモンには今でも預言者と呼ばれる後継者がいるよ」
すると、この話を聞いていた愚かな豚がBさんに突っかかってきました。
「預言者というものが分からない、なぜ神から啓示を受けるのか、一人一人に神が答えればいいじゃないか、俺に分かるように説明しろや!オラァ!」
人間は、いや豚か・・・年を取ると理解力が低下し、頑迷になり、まともな会話ができなくなると言うのは本当だなァと実感しました。
しかしあなたがアホなことを言ってる間にオムナイさんは、いつの間にか信仰義認に対する良き理解者を装っていますよ。笑えますね、この変わり身の早さは。オムナイさんは「極端なルター派は滅びを招く」とか当て擦りをしていたことをすっかり棚に上げちゃって、まぁ・・・何をかいわんやです。
でもね、私はモルモン教会員のこういう姿勢って実に興味深く感じながら観察しているんです。彼らは「救われるためには行いだ、善行だ、戒めを守ることだ」って言うじゃないですか。でもそんなこと言う人ほど、伝道には行かない、他の宗教を貶める発言を平気でする、自分の間違ったことをほったらかしにする・・・
いったいモルモン教会員が日の栄に入るための善行ってなんじゃらほい?畢竟、自分の非を認めない、決して謝ったりしない、そうして善人のフリをすることなんだなぁって見えてきました。
私は若い頃に改宗してずっと末日聖徒ですが、いい加減このモルモン教会はそろそろ潰れてもいいんじゃないかなって本気で思うようになってきました。何十年も教会に通っている重鎮たちがこんな有様じゃあ・・・ねぇ。
>信仰義認そのものをあなたが納得するように説明する義務は私には無いのです。
昔のフォークスって事ですね。
結局、豚さんも素直にゴメンと言えない人だったのか・・・
>結局、豚さんも素直にゴメンと言えない人だったのか・・・
え?え?なんで? 謝る話なの?
誤るのはタダだからなんぼでも謝りますけど。
モルモン教義は滅びを招く無理な解釈だと思っている者さんは、私が「アホ以下だ」って言ってるだけで、謝罪しろって言ってないと思いますけど。
謝らないといけない話なら、ナンバでオムライスでもおごりますけど。
あまり常連さんを追及しすぎるとBANされますよ。
モルモン教会員は自分の発言が間違っていたことを絶対に認めません。例外は認めることが自分にとって得する場合だけですよ。
モルモン教会員の過ちを指摘すると、誤魔化したり惚けたり黙り込んで無視したり、お前はどうなんだと逆ギレしたり、アラシ認定したり、反モルモン認定したり・・・まぁそんなところです。
あ、オムナイさんのように完全に真逆のことを言い出すという、これはちょっと他では目にしない行動をとる人もいますね。まぁこの人はしばらくするとまた元の間違ったことを言い出すんですが・・・
救われるために行いが必要だと考える人たちはこうした「行い」を積み重ねて、神に近づいていくんですね。
このブログのコメント欄はモルモン教会員の人間観察の場所として実に有益です。
モルモン教義は滅びを招く無理な解釈だと思っている者さん
これって、モルモン教会員であるあなたにも当てはまるんですよね。
>お前はどうなんだと逆ギレしたり
このことですね。
・・
こうした変更を加えるに当たり,ジョセフは多くの場合,聖書学者による信頼に足る注釈を参考にしたと思われます。・・
・・
ジョセフ・スミス訳聖書は末日聖徒の神学を体系化する練習台になった気もします。
その結実が聖典である「教義と聖約」なのでしょうね。
こちらにはリアルな歴史書としての価値も見出せます。
・・
こうした変更を加えるに当たり,ジョセフは多くの場合,聖書学者による信頼に足る注釈を参考にしたと思われます
・・
笑えます。論文調に記述していますが、ようするに啓示ではなくパクリだったということですね。
ジョセフ・スミスに聖書学者の注釈を「信頼に足る」かどうかを判別する素養は、学識的にも神学的にも持ち合わせていなかった、と思われます。
・・
ジョセフは一時,聖書外典の翻訳についても検討しました。聖書外典は,カトリック教会をはじめとする正統派キリスト教徒に聖文として受け入れられているものの,プロテスタントの多くからは認められていない選定集です
・・
ここで言う外典とは旧約聖書続編のことですね。厳密には旧約聖書続編と外典は違うのですが果たしてモルモン教会にその区別ができているかどうかは不明です。
なお聖書続編を聖書から除外したのはルターですが、彼はヤコブの手紙も除外したかったようで、藁の書と呼んでいるのです。
藁の書なんてとんでもないとお怒りの御仁もいらっしゃいますが、モルモン教会でも聖書続編を採用しないあたり、結局ルターの思惑通りに事が運んでいるワケで、こうした流れを見るとどっちが本当の預言者かわからんなぁと、興味深いです。
・・
こうした変更を加えるに当たり,ジョセフは多くの場合,聖書学者による信頼に足る注釈を参考にしたと思われます
・・
聖書学者の注釈を組み合わせて聖典を加工する技術がジョセフ・スミスにはあった、ということをモルモン教会が認めているワケです。
ならば、当時アメリカで流通していたイーサン・スミスの『View of the Hebrews』やその他の歴史偽書を組み合わせて、ジョセフがモルモン書を創作することは十分に可能であったという裏付けになりますね。
興味深いのは、モルモン教会はジョセフ・スミスをある時は無学な青年で本など創作できないと過小に評価し、あるときは非凡な才能と探求意欲に溢れた人物だと表現しているところです。
こうした矛盾に満ちた人物像を何の疑問もなく受け入れられるのは、教会の主張が欺瞞であることにまったく気づいていない無頓着な人か、あるいは・・・いや、やめときましょうBANされたくないので。