[燃える柴の前に立つモーセ]
Wikipedia の記事(英文)が最近の研究者の見解を
手際よくまとめていると思われるので、自分用の
ノートを兼ねてここに掲載しておきたい。
文書説はモーセの五書(トーラー)が何世紀もの
時間をへて編纂されてきたと見ているが、それに
よれば律法をもたらしたモーセは申命記文書に遡
ることができる、言い換えれば紀元前7世紀ユダ
王国の時代に起源があるという。申命記派による
イスラエル発祥の物語は、モーセが回想的に語る
文学的様式で描かれている。
大方の見方は、申命記派が統一王国にまで辿れる
資料に基づいて書いた、つまり紀元前10世紀頃に
遡れる伝承によって物語が紡がれたということで
ある。それはモーセが生きたとされる約4世紀後
のことである。
それに対し、聖書の記述を最大限抑制して観る学
者たちは、出エジプト記をペルシャ時代あるいは
もっと後世に書かれたフィクションであり、史的
モーセの記憶の痕跡すら残っていなかったとする。
出エジプト記の史実性、特にエジプト史の誰が聖
書の記述に現れるファラオに該当するのか長年問
われてきたが、決定的な結論に達していない。そ
れでも多くの聖書学者は、出エジプトとシナイ伝
承の背景には歴史的な核となるものがあった可能
性を受け入れている。(ただ実際は幾つもの段階
をへて行われた移民とカナン征服を、聖書では単
一の出来事として劇的な物語に描いている。)
出エジプトと約束の地の征服を描いた物語は全般
的に見て、遠く昔歴史上の出来事に届くかも知れ
ないが、聖書に描かれたようなイスラエルの指導
者モーセの姿を実証することは不可能である。
(以上、Wikipedia, Moses より)。
また、山形孝夫は「聖書を読み解く:物語の源流
をたどって」(2007年)でモーセによるエジプト脱
出物語について「物語の史実性となると、依然と
して疑問のままだというほかない」と書いている。
そして、北欧祭儀学派ヨハネス・ペデルセンの
「出エジプト記祭儀説」を引いて、古代オリエン
トの遊牧民が催す春祭りの「過越祭」(ペサハ)
でドラマとして演じられる祭儀神話であり祭儀劇
(ritual drama)であると見れば、厄介な史実問題
から解放される、と述べている。(pp. 82,83)
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モーセはいたのか、いなかったのか。
それが問題だ!
いや、実はそれは問題ではないかも。
そういえば聖徳太子も史実から言えば実在しないとか。
キリストの実在さえも聖書以外には記述が無いとか。
モーセの史実性のノートありがとうございます。
大変良くまとまっていますね。
どちらも無ければ崩壊する?
エジプトの今まで発掘されたヒエログリフには歴史的に黒歴史として抹消されたかは不明ですがモーセに該当する人物の記録が現時点ではなぜか無いのも不思議です
史実の解明はいつか解明されることでしょう。
今、主が多くの人に求めておられるのは信仰だと思っています。
私自身、イエス・キリストの実在を否定していました。
そんな私が聖霊の力によって疑う余地は全くないほど、イエス・キリストの実在を確信し、受け入れました。
事実の解明より遥かに心に迫る確信でした。
私の経験から、モルモン書からイエス・キリストを見出せば、解明していない事柄をすべて受け入れるのは難しくないです。
事実を求めるのは、素晴らしいことですが、事実が解明できなくても信仰によって見出すことが、もっと重要に思います。
天に封じられている書物が明らかにされるのは、モルモン書に記されている内容を受け入れるかどうか信仰を試されていると主は第三ニーファイで、話されていますしね。
新約聖書を受け入れないユダヤ人はイエス・キリストに信仰を持っていないのと同様に、モルモン書を受け入れられないクリスチャンもモルモン書を信仰によって受け入れいないのと同じだと思っています。
真にイエス・キリストに帰依しているクリスチャンがモルモン書を手にし、熱心に読むなら、真理を見出すことでしょう。
史実の解明は、主の御心にかなった時期に主の方法で明らかにされると信じています。
私なりにNeptuneさんに回答させていただきますと、次のようになります。JSによるモーセ書は、示現、すなわち「聖霊の力を通して与えられる、出来事や人物、物事についての目に見える啓示」のことで、信仰に属する事柄と言えます。ほかの例として、
終わりの時についてのエゼキエルの示現(エゼキエル37~39章)、神の右にイエスが立っているのを見たステパノの示現(使徒7章55~56節)、終わりの時についてのヨハネの黙示録(4~21章)、神にまみえたエノクの示現(モーセ6~7章)などがあります。信仰者にとって意味を持ち、一般(俗世)の尺度で論じるべきものではない(史実云々を含めて)と受け止めています。
沼野さまと同じで嬉しく思っております。
論じるのは空しいです。。
以前のわたしは、キリスト教を批判していました。
今思うとそのことが辛く感じ、同時にイエス・キリストの贖罪の苦しみを思うと胸が詰まり苦しくなります。
唯一の教会が沢山あって、他を否定してる。
神社仏閣を偶像と蔑み、人の情や愛よりも宗教を重んじる。
貴方がたの愛のないキリスト教とやらが、如何に虚しく冷たいか私は福島で痛感した。
こんな研究や議論や考察が何の役に立つのか?聖書の登場人物の生きざまから学ぶ事は軽視されている。
布教は迷惑なだけ!二人の友人(1人はクリスチャン)が、もう片方に「ねえ教会に来ない」と言ったが、言われた人は急に表情が硬くなり拒絶した。
教会員を増やすのと伝道は違うのが解ってない。
福音とキリスト教が別物であると言うのも解ってない。
史実云々語るのも議論するのも複数の「絵にかいた餅」の真贋を論じるに等しい。絵は絵であって、餅ではない。
空腹な人に餅は役に立つし必要だが、絵にかいた餅は不要です。
福音は餅だが、キリスト教もクリスチャンも絵に描いた餅であって、人々は「絵にかいた餅」なんぞは求めてない。
現在はプロテスタント所属だが、モルモン(過去形)であろうとプロテスタントであろうと、私はクリスチャンであることを恥ずかしく思う。
人々が備えられてない訳でもなく、サタンが強く支配してるからと言う訳でもない。全てはクリスチャンの言い訳であって、そこにあるのは組織信仰だからである。
指導者は神からの啓示を託されると言うが、キリスト教会は大抵同じ論理で動いており、理事級牧師がそれに相当する。
グノーシス的思考や弁論術も時には必要だが、そんな能力を頻繁に行使するなんぞ師匠であるイエスと全然違う。
私はキリスト教と言う宗教が衰退する事を、父なる神にイエスの御名によって祈っている。
小難しい理論や考古学のような事を探求し、聖典を引用しイエスを証明するのは虚しいだけです。
正当性を競う中東諸国と大差ないのが実情です。
だから私は前述したように祈るのです。
愛があるなら、人からの誉れや金銭的利益は論外ですが「神様、イエス様」などど言う存在を念頭に置かずとも善をなせるでしょう。
今なお、モルモンのメンバーとは友人付き合いが続いてます。彼等の行動力とバイタリティーは今なお私を益してます。退会しても友人として関係の続く彼らには感謝してるのです。
日記の内容とずれのある事をご容赦ください。
同感を覚えるところがあり、ご指導、ご鞭撻をこれからもいただきたいと思っております。(本心です)。
あーぁ、困ったもんだ、
『ユダヤ古代史』にちゃんと書かれているよ!
大事なことはちゃんと調べてね。