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以前からもそうであるが、最近、キリスト教会の神学者や牧師から学ぶことが多い。書物のほか、トゥイッターからもよい言葉や考え、同感と感じる表現を読むことがある。ここに引用する文は、九州延岡の牧師沼田師の言葉である。
「誰かのことを祈ったからといって神が即座にその人のことをどうにかしてくれるとは限らない。けれども、祈りをとおして、その人にどう向き合うのか、わたし自身が整えられてゆく。そうやって整えられたわたしと接するとき、その人は自身とわたしとのあいだに神さまの平安を感じるのだろう。」
「誰かのことを覚えて祈るということは、その誰かの「問題」が解決するために、ということだけではなくて、祈るこのわたし自身が神によって変えられてゆくこと、その誰かとの向き合い方に新鮮な波が生じる契機でもあるのだ。」(引用二つとも延岡の牧師沼田和也師 Mar 22, 2014)
深く、的確な洞察であると思う。彼の前後の発言から、榎本保郎『ふつか分のパン』聖燈社、1974、54頁を読んで得た感想と思われる。
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>旧約の神ヤハウェは偏愛する神
主は「偏愛」の神と理解しています。
ただし、定めれた原則に乗っ取ればですが・。
わたしたちがどんなに弱くても、主の御心から離れていても神の愛を感じるときがあります。
弱さ故に、神から離れた状態のときほど、主が支えて下さっているのを感じます。
それ故に、その状態から抜け出すための信仰と希望を与えてくれます。耐える力をも与えて下さります。
そして、自分の弱さを認め「感謝の祈り」と「悔い改める」機会が与えられているそのものが「神がすべての人に偏愛」の愛をお持ちあることを知っています。
神の「正義」に反するときに軌道修正し「主の憐れみ(贖罪の力)」を求めるか、自らの意思で「正義が要求する罰の苦しみ」を受けるかは、本人の選択によるもので、主は本人の選択の自由を尊重されいます。
「滅ぼされる」方を自ら選んだのは自らの意思の選びの結果ですが、(極悪以外)そのような人であっても「天の住まい」を神は準備されています。
それゆえ、主は「偏愛の神」。
すべての人が主の贖罪の力によって、自分の弱さから離れて、福音からもたらされる平和と平安、喜びを感じられるように「神の愛」を見出して欲しいです。
パウロは神が私たちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みを賜ってくださる(IIテサロニケ2:16)、と書いていますが、そのような神を「偏愛」の神と見られたと受けとめます。
はい、そうです。
また、福音を知らない人であっても、神はわたしたちが想像、考える以上にわたしたち一人一人を深く愛しているのですから。
天のお父さまがどんなにか一人一人、すべての子供たちを愛しておられるのを一番よく御存じなのは、主御自身ですから。
主がわたしたちを愛するという意味には、わたしたちが理解しえない部分にも多くあると思います。