
第一ニーファイ13:26 「分かりやすくて大変貴い多くの部分を福音から取り去り、また多くの聖約も取り去った」について、目にとまった数少ない具体的な解説を紹介したいと思う。J.W.ウェルチ編「モルモン書探究 II」FARMS/Deseret Book, 1992年で、「取り去った」というのは言葉に手を加えたというより、意味を取り換えたと考えられる、そして「聖約を取り去った」というのも聖書の文言を除去することなく行なわれた、としている。(例、聖餐式が行われなくなったり、頻度が極めて低くなったりするなど、NJ注。)実際に本文から姿を消したかという点については、それは上のような変化の結果であって、その原因ではなかったと考えられるとしている。
ほかにH.ニブレーを引いて、福音にギリシャ哲学や神秘的宗教の影響があったと考えられる、原始キリスト教の奥義や誓約が失われている、と書いている。例として、死者のバプテスマ、祈りの輪の実施、聖餐の変更、後に禁欲主義、独身主義が浸透したことをあげている。
聖典に含まれてもよかった書や本文が除かれた可能性について、使徒の失われた書簡、ヘルマスの牧者、クレメントの第一書簡、バルナバ書簡(以上カトリック学者トマス・ホフマンによる)に言及している。
(聖書本文について言えば、聖書学、特に本文批評の分野が進んで、旧約39書、新約聖書27書とも正典成立時のオリジナル本文から後に取り除かれた部分は、あまりないことが分かっているのではないかと私は理解している。上記編者ウェルチの表現もそのことを示唆している。沼野)
Source:
John W. Welch ed., “Reexploring the Book of Mormon”(The F.A.R.M.S. Updates), Deseret Book Company and Foundation for Ancient Research and Mormon Studies, 1992. Chapter 10 The Plain and Precious Parts
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基本、肯定的から、入ると、結果もそれなりにということなのかなぁ・・・・
モルモン書はいかがでしょう??!!
私が、この様な事をやったと公言したら、世間では「病気」と言われます。たぶんね。
病気でも妄想でも、何でも良いんだよな。
素晴らしい発想が閃いて、それで人類が進歩したり、世の中が良くなればね。
それでね、ジョセフさんのそれって、なんか良い事あったの??
という感じなんだが、はたして・・・・
しかしニーファイ書は読めば読むほど、ワケが分からなくなるなると言う・・・
これって、いったい何?
「あんたーなにすんの、棚から勝手に抜き取ったらあかんやないの」
「抜き取ったんちゃうし、最初から入ってなかったんやしー、そう言うあんたは勝手に書き換えてるんちゃうのー!」
「う、うち何位も書き換えてへんよ、間違ったとこ修正しただけやん。」
「修正って、何言うてんの、作者の断りもなく修正したらいかんやろー!」
「そんなん、修正してもかめへんねん。そやかて、これ書いたんうちやもん。」
「そう言うんやったら、うちかって、棚に並べたんはうちやしー」
横で聞いてたおっさん
「わけわからんわ・・・。」
マルコ書が元は8章だったとは聖書学者による推論だけど、末日聖典の改変(改竄?)が行われたのは物的証拠がたくさん残っているから、ハッキリ事実だとわかんだよね
面白いのは末日聖徒の保守派の人って、末日聖典の変更は完全スルーなのに、聖書は変更されてるんだってやっきになるのな、そんな証拠ないのに
じゃあ証拠見せてよって言うと、聖書学者の研究した推論結果を持ち出してくるわけよ、それ、あんたらモルモンが調べた成果じゃないやん、他人の業績やん、他人のフンドシで相撲をとるってまさにこのことやな、だいたい聖書学者にかかったらモルモン教義が聖書に合致しないことなんて100でも200でも指摘されちゃうけどね
あとなモルモン書の記述では、ひとたび世に出てから尊い部分が抜き取られるのでね、編纂過程の文書の取捨選択を言ってるんではないんだよねぇ、一冊の書物が世に出たばかりの時は分かりやすく尊い部分があったわけだから
でも不思議なことだけどモルモン保守派の人って、モルモン書の内容を全然おぼえてないんだよね。酷いのになると教会設立の日付知らない人もいたなぁ、まぁその辺はアメリカのキリスト教保守派と良く似てるよね
それは真鍮の版に刻まれている記録に似たものであって、ただその量が少ないだけである。
それでもその中には、主がイスラエルの家に立てられた聖約が載せてあるので、異邦人にとって大いに価値のあるものである。(1Ne13:23)
とあるように、分かりやすく尊い部分が悪魔によって取り除かれたと同時に「大いに価値のあるもの」が神様と聖書を編纂した人々によって保存されたことも忘れてはならないでしょう。(これは主に旧約聖書)
そして、これらの分かりやすくて貴い部分が取り去られてから、この書物は異邦人であるすべての国民に伝わる。(1Ne13:29)
ともありまして、 旧約・新約とも聖書成立過程で当時の教団の思想に合わせて加筆、削除が行われたことは想像できます。
一種の捏造があったことは否めません。
例えば最も古い福音書と考えられているマルコは当初8章までしかなかったとか。
少なくとも古代の使徒が教えていたキリストの教えに最も近い教義を持っているのは末日聖徒ではないかと考えています。
>論理を弄しながら差別を容認し、
そうです、差別はいけませんね。
ですから、全ての宗派は間違っている、その信条はわが目に忌まわしいものであると神から啓示を受けたなどと差別的な教義は持つべきではないでしょう。さっさと捨てましょう。
ですが、もし、それを事実だと受け入れるなら、そう信じて生き抜いていく覚悟をすべきです。それを信じるがゆえに身にかかるあらゆることに対して、勇気と信仰を持って終わりまで耐え忍ぶべきです。それがモルモンにとってみ名を引き受けるということです。
ちなみに私は青少年の時期にモルモンに改宗し、その覚悟をしました。あなたのように(また多くのリベラル・モルモンのように)私たちをクリスチャンから仲間外れにする他の教会はけしからん、などと情けない感情は持ちませんでした。私たちは神の器として他の宗派、宗教の人たちに回復されたまことの福音を伝える責任があるので自分たちが差別や排斥を受けているなどと考えもしなかった。
ペテロが逆さ磔刑にされたとき差別はやめろと言いましたか?ステパノが石打にされ殉教するとき迫害はけしからんと言いましたか?イエスは十字架の上で父よこの人たちに罰をお与えくださいと言いましたか?
あなたはどうですか?他者を神の名のもとに差別する教えを信じながら、我々を差別するな、と抗議するのは身勝手もはなはだしいですね。まずそこはしっかり自覚しましょう。
そしてもう少し考えて欲しいのですが「おなたは罪人だ」と言われたらどう思いますか?差別だ、誹謗中傷だとあなたなら反論しそうですね。でもクリスチャンとは「罪人」ということなんですよ。理解されていますか?パウロが自分のことを「罪人のかしら」と言ってるのは果たして謙遜なふりをしてカッコつけているんでしょうか。モルモン会員にはそんな人が多いですが。
何かクリスチャンには立派な人というイメージがあるので、その名声だけが欲しいんじゃないのか?と私はモルモン会員を見ています。だってもしクリスチャンとしてその名を引き受けるなら、たとえば中世の異端審問などにしても「はい、当時のクリスチャンは間違いを犯しました。そして私もまた彼らと同じクリスチャンです」と言うことでしょ。けれどあなたをはじめ、そんなこと口にするモルモン会員を一人も見たことない。リスクはいらない、でもオイシイところは全部いただく、そんな感じですかね。
リベラル・モルモンの人たちも酷いものです。モルモン教会には歴史上の汚点はあるがそれは当時のキリスト教の考えに影響されており・・・的な言い訳にクリスチャンを利用してるんですね。でもこの点はこれ以上言うとNJさんの逆鱗に触れるのでやめときますが。
>それと「死者のバプテスマ」など最初からなかったという発言には
キリスト教に「死者の身代わりのバプテスマ」はありません。
あなたは第1コリント15章がどうのこうのとモルモン教会独自の説明しか知らず、文脈を無視しています。だいたいその章を読んで「死者の身代わりのバプテスマ」があったと思えること自体がきちんと読んでいない証拠です。四則演算が満足にできない人に方程式は解けないでしょう。だから言葉を尽くしてあなたに説明しても無駄なのです。
もし当時キリスト教会で死者のバプテスマが行われていたのならこの聖句は「死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか」と言った文章表現にはならないでしょう、「わたしたちは死者のために洗礼を受けて何をしようとするのか」となるでしょうと言うこと。しかしもっとも大きな理由は「死者のバプテスマ」という考え方が聖書の教えに合致しないからです。
それでも「死者のバプテスマ」が存在した可能性は捨てきれないだろうとあなたは言うかもしれませんが、モルモン教会独自の解釈による可能性の上にのみ成り立ち、何らキリスト教的蓋然性が無いのが「死者のバプテスマ」です。むしろあなたが存在した証拠を見せてください。
ただあなたと議論して重要なことを学びました。無知は本当に強いですね。妙に知識のある人間はダメです、簡単に相手の間違いが透けて見えてしまうのでつまらないです。相手の欺瞞が見えてしまうので人を信用することもできない。あなたはそのままで生きていく方がいいかもしれませんね。
一般的なキリスト教会であれこの部分は触れてもらいたくない部分なのですよ。 統一見解のようなものはなくて、模範解答の例は、もちろん古代からそのような儀式があった。 (が異端の教会がこれをやっていた) という解釈です。 彼ら(異端・異教の教会)でさえこれほど復活を信じているのに、お前たちときたら・・・。とお叱りをしていると。
http://www.nakakomi.com/message/m2014/m20140720.htm 回答の一例
しかしねえ、パウロが重要な復活の教義を熱弁している場面で、わざわざ大嫌いな異端の教義の紹介をしたという解釈は必然性からしても弱いと思われます。
マンダ教 http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E2%80%9D%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%80%E6%95%99%E2%80%9D
http://www.essene.com/B'nai-Amen/vbelief.htm
それも調べないで公平な観点と名乗られるのはいかがなものでしょうか?
最初から存在しないものならパウロは、知るはずがありませんので手紙には書きません。
女性に神権が与えられない理由については呪いのたぐいではないことは明らかです。 今のところ教会の説明は、神権を与えられずとも女性には産まれながら天与の力があり、一定の儀式にかかわれるし、男性と同格であり、尊敬すべき者であり、女性会員の活躍は大管長会によって期待されている。と説明しています。 それ以上の深い教義はわかりません。
主の道にかなわず、神を嘆かせることが罪であるなら、教会の中も外も罪があると思います。
死者のバプテスマの存在していた根拠が第1コリント15:29だけとしたらちょっと弱すぎます弱すぎますぉ~
その聖句はキリスト教の関係者がとっくに解説済みで、モルモン教義が聖書の文脈を無視してるって反論されるのがオチですわ。
もっと他の、(できれば物的な)エビデンスを提示しないと普通のクリスチャンは絶対に納得しない、とだけはハッキリ言えますね。この聖句が死者のバプテスマの証拠だと言われて頷くのは聖書を勉強してないモルモン会員だけですよ。
気がお済みになったでしょうか。 聖絶については単語を取り違えてしまったことについては申し訳ありませんでした。
それで話を戻しますが、議論のポイントが、どこか別の団体や歴史の話ではなくて、論理を弄しながら差別を容認し、抗議する側を馬鹿にする投稿をされたあなたの問題でしかないことは理解してもらいましたでしょうか。
それと「死者のバプテスマ」など最初からなかったという発言には確証があってのことですか。
最初からないものであるなら、なぜパウロは死者の復活の教義を力説する手紙の中で知っているのでしょうか。
「そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。」コリント人への第一の手紙15章29節
念のためですが、引用は聖書のつまみ食いではなく、前後を読んでも、キリスト教の草分けに位置するパウロはこれを知っていたとしか言えないわけなのですけど。
色々と参考になる書き込みありがとうございます。
ついでと言えばなんですが・・・。
もう一つの神権の差別、女性に神権を与えないと言うのは、どう言う根拠から来ているのでしょか?
聖絶の教義からですか?
何か呪われる理由が女性には有ったのでしょうか?
私なら、ふられた相手の女性を呪ってもおかしくないのですが?神様が、女性を呪うのでしょうか?
差別と言えば、ジョセフ・フィルディング・スミス大管長は、左手より右手を使うようにとその著書で述べています。
こう言うのは差別ではないのでしょうか?
後は毎度同じ豚の思いです。
政治家が違法な献金の受け取った時、それを返せば、事が済んだとされるのでしょうか?
泥棒も、盗んだものを返せば、罪が無かったと言うのでしょうか?
世界中のどの軍隊も、従軍慰安婦のようなことはやっている。だから、それでいいのだ。なんでしょうか?
この道は、駐禁だけど、みんな停めているから、ここに車を置いていこう。ってそれでいいの?
学生の頃、みんな平気でキセル乗車をやってました、私も時々やってたんですけど、教会に入る時に、ダメだ!って言われました。
どんな事情が有っても、良くない事は良くないのだ!と言うのが、モルモンだと思ってました。
こんな考えは、今のモルモンの思想信条には入って無いんでしょうね???
あなたが自滅したと言うことで終了ですか?
しかし「公平な観点」というハンドルネーム・・・看板詐称と言いますか、人は往々にして自分には無いものを標榜したがるものですね、まぁこれ以上のツッコミはやめておきます。
>IDがなければ「引きこもり」もれっきとした差別発言です。
どうもあなたは「差別」というレッテル貼りがお好きなようです。ご自分の主張に自信を持っていない方ほど、そういう切り口から攻めてこられるような気がします。
>店が悪徳だの何だのと色々言い訳をしたところで、
>万引き行為が窃盗でなくなることから逃れられないのと同じです。
そうです。この文章自体には同意です。
2千年かけて広まってきた伝統的キリスト教会を『神の目から見て憎むべき』などと『悪徳』扱いし、本当のキリスト教会がアメリカ・ニューヨーク州に回復されたぞと言って作られた宗教は、クリスチャンにとってみれば『窃盗』行為だと思うでしょうね。
>右翼のような理論でこれらの行為を擁護すれば、
>侮辱であり差別であります。
あなたの理屈で言えば、あなたのこの発言は右翼活動家に対する差別ですね。
>あなたは論点ずらしでノラリクラリと逃げてばかりだが、
あなたは「聖絶」と言う論点そのものが間違っていましたが?
ところで公正で思い出したのですが、あるモルモン会員はこう言いました「モルモンの教義では伝統的キリスト教でも他の宗教でも救われるのでモルモン教は公正なのだ」と。ところがよくよく話を聞けば、モルモン会員以外は「日の栄」に行けないのですね。天父とともに住まうことも許されず、家族とも会えず、せいぜい天使となって昇栄したモルモン会員の部下として働くレベルなのです。こんなの全然公正な救いじゃありませんね。
その点を質すとそのモルモン会員はこう答えました「たとえ日の栄に行かなくても、月や星の栄でもこの地球よりずっといい所なんですよ」と。これこそが論点ずらしですね。もう公正どころの話ではありません。死後の世界ではモルモン会員を頂点とした階級社会に全人類が組み込まれると言う教義です。それをモルモン教会では「救いの計画」と名付けており、みんなが救われるんです、どうですモルモンは公正でしょ、とその会員は言ってたわけです。
あなたの「公正な観点」がもっと高いレベルであることを願っています。
余談ですが、この同じ語からハーレム(アラビア語、禁じられた所)が派生し、アラビア語の反意語にハラール(イスラム教で合法的な、食べてもよいもの)という語があります。
聖絶とは、単なる呪いなどではなくて、物や、家畜や人を対象にしたもので、分けて主に捧げるものという意味であり、主から要求されるものであり、家畜や人を対象にした場合は全滅、皆殺しを意味する。
キリスト教の教義の過激な解釈になると、我々モルモン信者も聖絶の対象として神に呪われているそうだ。
その観点から言えば、ノアの方舟やソドムとゴモラの町の滅びも聖絶の一種であるが、統一見解が出ているわけでもない。
聖絶の教義でつまづいたのではなく、「神の呪い」の教義でつまづいたと言うべきでした。
頑張って見つけてください。
「教会員に対してもっと改善…」だったでしょうか、そのコメントの部分に共感を覚えます。
★黒人奴隷(人身売買)の主に始まりは、1500年過ぎた頃と書いてありました。
日本も織田信長、豊臣秀吉時代には、鉄砲や火薬などを購入するために、若い女性と換えたと書いてある書物を読んだことがあります。
★聖絶についてですが、ノアの方舟やソドムとゴモラの町の滅びも聖絶にはなるのでしょうか?また、主イエス・キリストの再臨や主イエス・キリストの最後の裁きも聖絶と言うのでしょうか?
★参考まて。
第2ペテロ1:20-2:3
〔旧約〕聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意思から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。
しかし、民の間に、にせ預言者が起こったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのです。彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。(参照、第2ペテロ3:16,17)
恣意的な文章は欲しくありませんでした。しかしながら日本語が見つからなかったので仕方ありませんでした。 反対サイトへのリンクがNGであれば、参照できないように編集されても結構です。
本来は
Journal of Discourses, Vol. 2, pp.172, 184, Vol. 7, p.290, Vol. 4. p.40
を直接引用すべきだったのかもしれません。 しかし英語ですよね。
ブリガムヤングの「平たい・・と黒い・・」という表現は、ブリガムヤングの無神経さではなくて、当時の欧米の文化の平均的な無神経さを反映したものだったと理解すべきでしょう。
一方で当時としては先鋭的な感覚であった奴隷解放グループからは、この教会はこんなもんだったのかとがっかりさせていた風でもあったようである。期待された理由はもちろんあると思われる。
礼拝堂を黒人たちと共有したり、ワードを黒人と白人と別にしなかったりという点や、ブリガムヤングにしてみても、詳しくは知らないが現行の奴隷制度よりマシな別の制度に改善をしていたようで、そういう点においては欧米の平均よりは進んでいたものと評価されたのでだろう。 そして期待しすぎてがっかりしたのだ。
せっかく多少人道的に進んでいた教会であったにもかかわらず、19世紀の大管長の威厳があだとなって、20世紀になり教会は時代に追いつかれ、追い越されて、人種差別の教会として取り残されてしまった残念さはありますね。
より公平な観点を求めるなら、伝統的キリスト教会諸派のかなり高い位置の指導者の、隠蔽を逃れた説教なりが、聖書に基づいて奴隷制を容認していたという資料を平行に並べる作業が必要でしょう。
都合の良いところだけ反対派の資料を部分引用して、全体の論旨は無視すると言うアレね
まぁ私なんかは教会の書籍と幹部の発言だけを使ってモルモン教義の破綻と間違いを説明できますけど、でもそれやると『あ、それ公式じゃないですから』『あ、それ幹部の個人的な見解ですから』と逃げ出すモルモン会員にばかり出会って来ましたので。
そろそろまともな話し合いのできる末日聖徒が現れて欲しいものですが。
lds.org/topics と garyo.or.tv 経由で「素顔の・・」を引用されました。公平を目指して?!
ブリガムヤングの「平たい・・と黒い・・」という表現は現代では大問題となる発言ですね。私は黒人に対する軽蔑・差別は17, 18世紀ヨーロッパの交易時代にさかのぼり、米の奴隷制度も聖書に正当化・口実を求めたものだったと理解しています。
よーし、こうなったら何でも答えちゃうぞ~
さてまず、ネットで少し調べた程度ですが『聖絶』と言う語をカインの呪いと言う意味では使っているところは見つかりませんでした。たいていは申命記以降のイスラエル民族が戦いで相手を皆殺しにすることの宗教的な理由として使われていますね。
だからダナイト団の所業などを説明するために聖絶の教義の拡大解釈が行われたと言うなら話はわかりますが、黒人差別の理由だと言われると違和感があります。
またご紹介くださったURLは有名な反モルモンのサイトですが、大丈夫なのかな?いや、私はそう言うのは喜んで見ますけど、あなたが議論のエビデンスに使ってOKなのかな?とね。
IDがなければ「引きこもり」もれっきとした差別発言です。 これでお望みどおりですよね。
店が悪徳だの何だのと色々言い訳をしたところで、万引き行為が窃盗でなくなることから逃れられないのと同じです。
「モルモンはクリスチャンではない」をブログや掲示板で書き込んだり右翼のような理論でこれらの行為を擁護すれば、侮辱であり差別であります。
あなたは論点ずらしでノラリクラリと逃げてばかりだが、私は、他のクリスチャンがどうのではなく、あなたの行為を責めています。
ジョン・ドゥさんへ
ジョン・ドゥさんなら、まだ物分りが良いとお見受けします。
「聖絶」とはごく簡単に言えば「神の呪い」のことです。 創世記でカインが受けた呪いも聖絶の例ですし、ハムが受けた呪いも聖絶の一例です。 ノアの息子のハムの子孫がカナン人となり、それゆえヨシュアに命が下って、カナン人はイスラエルによって征服されてしまった。
ここまでは一般的なキリスト教と末日聖徒イエスキリスト教会は同じベースと言えるでしょう。
話を戻せば、この教会が黒人を差別したという明白な根拠は、ブリガムヤングが神権を差し止めたり、初期にブリガムヤングが奴隷制度を維持しようとしたりした点にあります。
https://www.lds.org/topics/race-and-the-priesthood?lang=jpn&_r=1 人種と神権
当時奴隷制度が当然のように錯覚していた時代のブリガムヤング大管長はこう語っています。
ヤングはまた、黒人の奴隷的身分は神の定めた法であり、モルモン教会は奴隷制度を導入すべきだと語っていた。
「ハムの子どもたちが『僕の僕』となるよう運命づけられたことを、われわれは知っている。主が彼らを呪いのなかに留まることを認めているかぎり、天下のいかなる力もそれを妨げることはできない。これがニグロについてのわれわれの考え方であり、またそのように人々に知られているのである・・・。
ハムの種は、それはカインの種がハムを経て伝播したものであるが、その呪いのゆえに、神がその呪いを解くまで自らの兄弟に仕え、また他の人々の『僕の僕』となる定めである。これが奴隷制度についての私の意見である・・・。
・・・主はハム(の子孫)にしるしをつけられた。平たい鼻と黒い皮膚である。・・・洪水の後、新たな呪いがこの人種(黒人)にくだされた。すなわち黒人は『僕の僕』となることである。その呪いが解かれるまで、彼らはその身分に甘んじなければならないのである。それは奴隷制度廃止論者でもいかんともしがたいのである。まして神の定めを変えることなどできるわけがない。
ユタが独立州としてアメリカ合衆国に加えられたなら、われわれはここ(ユタの地)に奴隷制度を導入することを選択したい。このことについては合衆国が口をはさむ問題ではない。
http://garyo.or.tv/michi/sinjitu/sugao/092bydrei.htm
(ジョセフスミスはそこまで奴隷制度の堅持に凝り固まってはいなかったようで、ユタ準州はモルモン会員たちの住民投票によって、非奴隷制度が選択されました。)
ところが残念なことに神権停止措置は長年継続してしまい、それをもって、当教会は黒人差別の教会といわれることにまきこまれることになって行ったのです。
「ニグロにたいして神権を否定する根拠は、『アブラハムの書』をおいて他のいかなる正典にもない。しかし私の考えでは〔黒人を差別する〕真の理由は、われわれの誕生以前の存在にまでさかのぼらなければけっして明らかにならないのである」
これはデイヴィッド・マッケイ大管長の発言です。
このように、長年神権停止の根拠をアブラハム書に求め、罪がないはずの霊がのろわれた血統の家族に生まれてくる理由を前世の貢献度で説明してきたのです。
今日教会は、指導者らや会員たちが教えたことにせよ、これらを間違いであったという立場に立っています。
今日の教会
今日,教会は過去に流布した黒い肌は神が嫌われたしるし,またはのろい,あるいは前世での行いを反映している,異民族間の結婚は罪である,黒人やその他の人種または民族はほかのだれかに比べて多少なりとも劣っているなどの見解を否定します。「今日の教会指導者たち
は,いかなる形でも過去,現在のすべての人種差別を全面的に非難します。
https://www.lds.org/topics/race-and-the-priesthood?lang=jpn&_r=1
つまづきの第一段は、カインの印が黒い肌の色であり、神権停止につながるつまづきの第二段がノアの聖絶が神権停止であるというところにあったことは、これで客観的に理解されると思います。
客観的にと要求されましたので、デイヴィッド・マッケイ大管長とブリガムヤング大管長の名前を出しましたが、誰を責めているというわけではなく、神が導く教会といえどもさまざまな迷信に対抗しきれない場合もあるということや、一度にすばらしい教会が与えられたわけでもないという知識は、最近では教会内でもゆるく共有されはじめたと感じる次第です。
あんまり言いたくはないけど、それってモルモン教会内で全く認識されていないことを勝手に作り上げてないかい? それってウソをついて護きょ・・・ゴホン、ゴホン、いや何でもない。
まずは教会内部でほとんどの会員が、聖絶の教義につまずいたから黒人を差別してしまったんだと認識させ、納得させてから、はじめてモルモンはこうでしたと言えるんじゃないのかな?
いくら個人レベルで検証可能です、説明できますと言い張ったところでモルモン会員の誰も納得していないのでは教会外部への説明にはならないでしょ。まぁそもそも外部への説明なのか、モルモン会員への説得なのか、どちらのつもりで発言されているか分かりませんが。
またリベラル・モルモンを名乗られる方々を見ていつも思うのですが、皆さんの研究成果(?)を語る相手を間違えていませんか。教会の改善やより良い方向に進むための動機付けとなり、その問題点の解決に使って欲しいですね。
教会は間違ってないんだ、幹部は悪くないんだ、全ては会員の単なる勘違いだったんだと思い込むための材料にはなさらないで下さいね。
ハンドルネームすら決められない姿勢から判断させていただいて、きちんとお話し合いをなさりたいのではないようです。ですのであなたの考え方の問題点にのみ絞って申し上げます。
>最初からこちらを異端と思ってるクリスチャン相手に
異端であるのはモルモンがそういう姿勢をとっているからです。例えば末日聖徒は何かのキリスト教団体に加盟して彼らと交流がありますか?聖餐会、礼拝、その他イベントを他の教会と合同で実施しますか?無いでしょう。
モルモンは伝統的なキリスト教と何も交流せず全く無関心でその上、彼らは神の目から間違っているという啓示を信じ、本来のキリスト教から失われた儀式と権能を回復して我々だけが保持していると主張、中世の異端審問や魔女狩りなどキリスト教の過失には我らには関係なしと切り捨てながら、モルモンの黒人差別についてはあなたのようにあれはキリスト教でもそう信じていましたからねとダシに使う人がいる。
あまつさえあなたは、モルモンは謝罪したから立派でしょ、他のキリスト教では聖絶という教義を今も信じているんですよという文脈で仄めかしをしておられますが、アメリカの黒人人権運動のリーダーだったマルチン・ルーサー・キングの職業をあなたは知らないのですか?
そういう方々がモルモンはキリスト教です、それを認めないのは差別ですなどと言える義理はないのですよ。むしろ伝統的キリスト教にケンカを売って設立した、その歴史的事実を潔く引き受けるべきでしょう。
だいたい自分たちが勝手に作った教義だけを信じながら、私たちもキリスト教を信じているからクリスチャンと呼んでください、は無いですよね。アボガドやウィンナーの巻き寿司もどきばかり作っている外国の店員が寿司職人を名乗るようなもんです。
そうですね、たとえば月に1回は他のキリスト教会の日曜礼拝に参加し、平日の勉強会にも参加、カトリックとプロテスタントの違いは何かを(ネットで検索するんではなくて)実際の信者の姿を見て肌で実感し、相互の信頼関係を築く、これを2年くらい続ければ『交流がある』と言えるでしょうね。
それくらい交流が深まれば「モルモンはクリスチャンと認めないのは差別だ」などと自分が言う前に、ジョセフ・スミスの啓示が間違いであると気が付きます、私のようにね。あなたはちょっとした調べものすら行動に起こさないで、自分の立場が差別だ侮辱だと憤っておられますがそれじゃ何も始まらないでしょ。
もちろんいつまでもUnknownのまま引きこもっておられるのも自由ですが。
>原始キリスト教会には死者のためのバプテスマの教義があった
ありません。
中立的で一般的な辞書や辞典には、クリスチャンとはキリスト教の信者の意味であり、キリスト教とはイエスをキリストすなわち救世主と信じる宗教。とあります。
いえいえ構造がどうのこうのとへったくれを言って否定をせず、「モルモンはクリスチャンではない」は侮辱であり、明らかな差別表現であることを理解まずしてください。
構造がこうだから、抗議する御仁は勉強不足で、言われるのが当然だ、しかたがないのような発言は、差別表現を容認、加担することそのものです。
聖絶の教義に教会はつまづいた、についても当方の認識は検証可能な事実であって、意見でもなんでもなく、間違ってさえおりません。 教会はアフリカ系黒人をカナン人(ノアの呪いを受けた息子のハムの子孫)の末裔である。したがって神権が受けられなかったと教えておりました。インストでも日曜学校でもそう習いました。 今日それが誤りであると述べていますから、事実誤認による差別があったということです。
また、原始キリスト教会には死者のためのバプテスマの教義があったことは明らかです。 「そんなものは最初からなかった」はあなたの誤認としかいえません。
あなたが私に対して継続した議論をされる気があるのでしたら何かのハンドルネームを用いてほしいです。そういうのは末日聖徒やキリスト教を語る以前に常識の範囲だと思いますが。
またあなた自身の個人的見解と、モルモン教会が公の場で主張していることを混ぜこぜにしてご意見を述べてられても、こちらとしては議論のしようがありません。あなたが反論されるのが怖くて、そういう掴みどころのない発言をされているのならば、私は無視するだけです。
>分派された方々は末日聖徒かも知れませんが、末日聖徒イエスキリスト
>教会の会員ではありませんし、
これはあなた自身のご意見であって教会が公にしている立場ではありません。末日聖徒イエス・キリスト教会は、この教会以外の会員をモルモンと呼ぶべきでない、と求めています。
>当教会はこの聖絶の教義につまづいてしまい、肌の色と関連付けて、
>誤って長年黒人を差別したという汚点をはっきり認め
ここでもあなたは間違ったことを言っておられます。あなたはご自分のハンドルネームすら持たないただの『Unknown』であって、モルモン教会の代表者ではありません。予言者でも権能を持つ幹部でもありません。にも関わらず「当教会は」と切り出すのはいささか不適切に過ぎますね。
また発言内容も間違っています。モルモン教会は『聖絶の教義につまづいた』などと言ってませんし。それを『肌の色と関連付けた』などとも言っておりません。教会代表者であるかのような口ぶりで、教会が公に認めていない事柄をさも平然と語る人に真実があるのか甚だ疑問です。
また、きちんと議論なさりたいのであれば奇妙な印象操作をすることもお止めください。あなたはこう言われましたね。
>ことあるごとに『ことごとく神の目に憎むべきもの』発言を持ち出して、
>他教会同士いがみ合わそうとするのはおやめになったらどうですか。
『ことあるごとに』とは何ですか?まるで私がそんなことをしているように言いますがまったく酷い言いがかりです。むしろ末日聖徒イエス・キリスト教会の正式に任命した宣教師がそれをしているのです。
『ことごとく神の目に憎むべきもの』と啓示があったことを世界中に知らせ、それをキリストの名によって証し、人々を改宗に導いているのではないのですか。これは押しとどめることのできない神の業であり、たとえ諍いが起こったとしても、それはルカ12章49~53節に説明されていますねと、そうやってモルモン教会は宣教師を訓練しています。
モルモン教会の現実と歴史と教義をしっかり勉強なさってください。
当教会はこの聖絶の教義につまづいてしまい、肌の色と関連付けて、誤って長年黒人を差別したという汚点をはっきり認め、迷信であったとしています。 誤りについて自ら誤ったのであって他教会のせいになどしておりません。
それ以上の要求は、プロテスタントの信者をカトリック教徒としなければ、差別主義だみたいな強引でナンセンスな議論となるでしょう。
教会が正当性を主張するのは当たり前です。
ジョセフスミスの示現で神が現れて『キリストの教会はどこにもない、ことごとく神の目に憎むべきもの』と言ったことを信じることと、他のキリスト教信者に向かって、当教会の信者がお前たちの教会は神に憎まれているとかあちこちに投稿したり、教会の看板に掲げて宣伝して回ることは別ですよね。
われわれは伝統的なキリスト教の信者をクリスチャンであると信じています。 また聖書に記述されている大背教の教義を曲げはしませんが、面と向かって失礼な態度をとらないようにしています。
ことあるごとに『ことごとく神の目に憎むべきもの』発言を持ち出して、他教会同士いがみ合わそうとするのはおやめになったらどうですか。
われわれ教会員は伝統的なキリスト教会の信者をクリスチャンとして認めています。 伝統的ではありませんから異端といわれるのは仕方がないとしても、我々をクリスチャンではないという発言は侮辱表現であり、明らかな差別発言です。
それと死者のためのバプテスマは古代の教会にありました。 伝統的教会からはなくなっていると思いますが。
こんな聖文を発見しました。
第2テモテ4:3―4
「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」ぺテロの話。
その後、幾つかの派に分派していると書いてありました。
真のキリストの教義から作り話にそれる時に背教が起こると言うことでしょうか。
また別なところで、その国のトップにの意向によって、弾圧などにより、教義など変えられたり、燃やされたり、自分を神としたり、古代から続いているとも、ネットで読みました。
お返事ありがとうございます。ボーゲルって本当に『超』批判派なのですか?
ボーゲルについては以前のNJさんの記事(2008-12-20)で、以下のような紹介がありました。
>聖書の偽典書が古代の預言者の名を冠して著されているのと同様、
>モルモン書も偽典書に列するもので、書中に登場する
>数々の預言者の名を借りて当時の読者に語りかけている、
>しかし、あくまで著者の意図はキリスト教を改革・推進し、
>人々を救いに導こうとする善意に基づいているという。
このことから、ボーゲルと言う人は、モルモン書はジョセフの創作ですよと批判派のそぶりをしながら、結局モルモン護教に回っている人物と思っておりました。私に言わせていただければ、今の時代になって『モルモン書は創作』などと書いても何ら目新しさはなく、それで批判派と言われてもどうかなと思うのですが。
しかしせっかくの機会ですのでアマゾンで買って読んでみることにします。
Unknown様へ
どこのどなたかは存じませんが、はっきり言うとあなたは不勉強すぎて話相手になりません。
>『神の小羊の書物から分かりやすくて貴い多くの部分が
>取り去られている』ことは否定しきれないでしょう。
「可能性が全くなかったとは言えない」は「あったに違いない」でありませんよ。
モルモン会員は往々にしてこの二つを恣意的に同一視して護教しますね。
>確かに黒人差別については、根底に一般的キリスト教も
>認めている「ノアの呪い」や「聖絶」という教義
何かにつけモルモン会員は伝統的キリスト教会のせいにするのですね。回復されたまことのキリスト教会を標榜する潔さは無いのですか?
伝統的キリスト教会は間違ったことを信じてきたり教えてきたことを認識するたびに謝罪しています。キリスト教会のそういう姿を見てあげつらうモルモン会員を何人も見てきました。しかし彼らは、モルモン教会自身のことになると謝罪など必要ないと頑迷になります。
>死者のバプテスマの儀式
そんなものは元々のキリスト教にありません。
>外圧として法律ができて犯罪行為と指定されてなお、これを行うので、
>理由を問わず破門されてしまうのは仕方がないと思います。
では教会が多妻結婚を導入した際にそんな不道徳なことはできないと、多くのモルモン会員が離れましたが、彼らは末日聖徒に数えられますか?
逆に教会が公式の宣言を出した後も一部のモルモン会員(幹部を含む)はメキシコに行って多妻結婚をしていることが、神殿の系図記録に残っていますが、彼らは末日聖徒に数えられますか?
まぁそれよりあなたの考え方の幼稚さが気になります。末日聖徒であるなしの条件が法律を破った犯罪者だからかどうか、などとは聖典にありません。法律と言う外圧があるから仕方ないなどの理由で破門され、神の国に入れないのであれば、それはキリスト教以前に宗教ですらありませんよ。差別とはまた違った酷い話ですね。
>一方「モルモンはクリスチャンではない」発言は酷い差別発言でしかないのです。
いえいえ、モルモン教会が伝統的キリスト教会に言ってることこそが「酷い差別発言」です。
モルモン教義を思い出してください。神が現れて『キリストの教会はどこにもない、ことごとく神の目に憎むべきもの』と告げられたのでしょう。この示現が真実であることの証人が末日聖徒なのですから。これほどの教義を信じていながら、どの面さげて、私たちをクリスチャンの仲間に入れろと言うことができますか?
>近年になって聖書の古代の写本がいくつも発見されましたが、その内容は現代に伝わっている聖書とそう変わらなかったのですね。
>だいたい「聖書の文言を除去することなく行なわれた」とはニーファイ書の以下の記述とは全く合致しません。『あの書物があの大きな忌まわしい教会の手を経て出て来てからは、神の小羊の書物から分かりやすくて貴い多くの部分が取り去られている』
事実関係からして、その次々発見された古代の写本の一部しか聖書に選ばれなかったことも考慮されているのだと思います。 まあ異様で異端すぎるテキストをことごとく全部聖書に入れるべきだったとまでは言いませんけど。
『神の小羊の書物から分かりやすくて貴い多くの部分が取り去られている』ことは否定しきれないでしょう。
それから、変化は悪いこと(退化)ばかりでないと思われます。
ミサの回数の増減したとか、聖餐のぶどう酒が水道水に変わったとかは些細だし、もしかしたら全身礼か滴礼かの問題も実は些細な問題なのかも知れません。
確かに黒人差別については、根底に一般的キリスト教も認めている「ノアの呪い」や「聖絶」という教義がからんでいて、当教会が神権の運用に失敗した不名誉な例なのかも知れません。
しかし死者のバプテスマの儀式の意義が2000年の長い歴史の中で良くわからなくなった例など見れば、「本来持っていたものが失われた」は酷い言いがかりばかりとは思われません。
>彼らを末日聖徒ではないとしているモルモン教会の姿勢と、モルモンをクリスチャンではないとしている伝統的キリスト教会は全く同じ構造なのですよ。
外圧として法律ができて犯罪行為と指定されてなお、これを行うので、理由を問わず破門されてしまうのは仕方がないと思います。
一方「モルモンはクリスチャンではない」発言は酷い差別発言でしかないのです。たとえ思っていても言うべきではなく、全く同じ構造などではありません。
私自身は、もし聖典の一部分が除去されたり、変質がおこなわれているのであれば、その当時に行われたある種の改革(悪く云えば都合に合わせた)であったと好意的に捉えています。
どの写本を比べても、文言上では聖書はそんなに変化していないようですが、教会の教義や考え方、習慣、儀式、捉え方、生活習慣等、聖書以外の外的な要素で変化があったように感じます。
<取り去られた>という表現の解釈について、ウェルチの見解はまっとうな意見であると感じています。
そして、その毛糸を使って、また手袋やセーター等を作るんですね。
子供の成長に合わせて、編みなおすのは物のなかった時代には必要な生活の技術だったのでしょう。
私は年上の兄弟が居たので、上のものが着たセーターの編み直しを良く着せられました。
それは嫌じゃなかったんです。
母も、私も、兄弟もみんな、編み直しだって知っていましたし、それでいいと認めていました。
喜んで着ていました。
でもね、もしその時に、母が編み直しを「新しいセーターだよ」って私に着せようとしたら、すごく嫌だったでしょうね。
この度のブログ記事は、[メモ]と書いていますように一情報として掲載したもので、小生の姿勢とか主張を表す周到な研究をへた声明のようなものではありません。むしろ、lds保守派の方々を頭においた「ウェルチでさえこう言っていますよ」というメッセージでした。記事中、( )内の文が私の声です。
なお、ボーゲルは超批判派の筆頭でウェルチとは対極的な位置にいる人です。
だいたい「聖書の文言を除去することなく行なわれた」とはニーファイ書の以下の記述とは全く合致しません。
『あの書物があの大きな忌まわしい教会の手を経て出て来てからは、神の小羊の書物から分かりやすくて貴い多くの部分が取り去られている』
仮にウェルチが言うように本来の意味を「忌まわしい教会」が取り替えたのだとして、じゃあそれはいったい何をですか?
「聖餐会が行われなくなった」ですか?それは噴飯ものですよ、だってカトリックは毎週ミサを行っていますよ。しかもちゃんと聖書に倣って種入れぬパンと葡萄酒を使っています。モルモン教会のように食パンと水道水ではありません。儀式を取り替えているのはどちらの教会?
まぁはっきり言ってしまえば「原始キリスト教会が本来持っていたものが失われた」と言うこと自体がモルモン教会の勝手なデタラ・・・いや、モルモン教会独自の主張ですね。(汗)
では逆にモルモン教会の主張「原始キリスト教会が本来持っていたものが失われた」を正しいとして考えましょう。
それでモルモン教会設立から180年以上経つわけですがこの間に組織の拡大、世情の変化に合わせて様々な変更が行われましたね。一夫多妻の導入と廃止、黒人への神権、同性愛への対応・・・こうした変化を見ればモルモン教会ですら「本来持っていたもの」が失われていますよ。
キリスト教会も2千年経てば変化が起こるのは当然でそれを「本来持っていたものが失われた」とは酷い言いがかりとは思いませんか?立場を変えて考えてください。モルモン教会が一夫多妻を廃止した時に、神の神聖な制度が失われたと主張するグループがいましたがモルモン教会は彼らを破門しました。彼らは末日聖徒に数えられていますか?
彼らを末日聖徒ではないとしているモルモン教会の姿勢と、モルモンをクリスチャンではないとしている伝統的キリスト教会は全く同じ構造なのですよ。
ですから「愛を説きながらモルモンを排斥している伝統的キリスト教会はけしからん」などとお怒りになるモルモン会員がたまにおられますが、事実関係を全く存じない無知な人か、甚だ自分本位で身勝手な人なのだと思う次第であります。
そんなわけでウェルチだとかボーゲルだとか、このところしばしば取り上げておられますが、いずれも簡単に論破されうる護教的こじつけの感が否めないず物足りないなぁと思う日々です。
「ひとつ」「愛」「御国」「地獄」「救い」「復活」などの神学的な用語において、確かに伝統的キリスト教では混乱させるような定義に変わっている可能性は感じられます。
それが本当であるならば、ジョセフスミスが福音を回復したという主張は、使用されている言葉の定義を元に戻したという主張になりますね。