10月9日
滋賀県甲賀市水口町にある標高282mの古城山に登りました。
その山頂には豊臣時代に水口岡山城が築かれ、今は水口岡山城跡として整備されてます。
写真は西の丸跡にある展望台の天翔の櫓。
西の丸跡
天翔の櫓から眺めた水口町
眼下には東海道が通り、江戸時代になると東海道五十三次の水口宿が置かれました。
きっと水口岡山城があったころは東海道沿いの町家や人々の姿がここからもっとよく見えたんでしょうね。
豊臣秀吉はこの城下町に甲賀武士(甲賀忍者)を住まわせて、ここから監視したとも云われてます。
レンズかセンサーに付着物があって、露出を下げると画像に黒いシミが出てしまう。。
遠くに霞んで見えるのは比叡山です。
栄子姫は1595年に5万石で水口岡山城に入場した豊臣五奉行 長束正家(なつかまさいえ)の正室で、徳川四天王のひとり 本多忠勝の妹でした。
本丸の石垣跡
関ケ原の戦いではもちろん豊臣方の西軍として参戦した長束正家でしたが、吉川広家の軍勢に囲まれて戦線を離脱し、水口岡山城に戻りましたが、池田輝政の命を受けた池田長吉の軍勢に取り囲まれます。
竪堀跡
山の斜面に直角に掘られた空掘ですね。
伝 本丸櫓跡(天守とする説あり)
天翔の櫓から一人で景色を眺めていたら、笛の音がどこからともなく聞こえてきました。
この水口岡山城の悲劇と重なってちょっとドキッとしましたが、この本丸櫓跡の斜面に腰かけたご婦人2人が縦笛の練習をされてました(爆)
なんで
阿迦之宮は古城山の麓にある大岡寺の奥の院。
水口岡山城をなかなか落とせない池田長吉は正家に「兵卒の命と所領の安堵」を約束し、正家は開城に応じます。
しかし、それは池田の謀略で正家は捕縛されて自害、その首は京都三条河原に晒されました。
池田軍は水口岡山落城の際、城内、城下で略奪、凌辱の限りを尽くしたと云われてます。
正家の妻 栄子も辱めを受け、正家の旧家臣に救われました。身重だった栄子は後に子を産みましたが、産後の肥立ちが悪く亡くなってしまいます。。
阿迦之宮は正家をお祀りしたお宮で、今も山の上から城下の安全を守ってくれている気がしてなりません。
ようやく山頂に到着しました
山頂の南東側には天守跡がありました。
この日気温は29度もあって汗だくになりましたが、地元の歴史に触れ、良い時間を過ごすことができました。
古城山散策の帰り、季節外れの紫陽花にも出会いました。
おしまい
過去記事<古城山リベンジ 花と虫たち>
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とても勉強になります
はじめまして。
コメントありがとうございます。
いやいや、色んな物に興味があって節操の無いブログになっちゃってます(笑)
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