平安神宮から北東の丘陵地、左京区黒谷町にある浄土宗大本山 金戒光明寺にやって来ました
知恩院と並ぶ浄土宗七大本山のひとつですね。
浄土宗の信徒からは「くろ谷さん」と呼ばれ、亡くなった義母もよくお寺の婦人部でくろ谷さん参拝に行ったりしてました。
徳川家康は金戒光明寺と知恩院を庇護し、江戸時代初期に二条城とともに京都防衛と朝廷に睨みを効かすために城郭構造に改めました。幕末期、会津藩主の松平容保が文久2年(1862年)京都守護職(京都の警備組織の長)に就任すると、金戒光明寺を京都守護職会津藩本陣とし、藩兵1,000人を京都に常駐させ、尊王攘夷派の取締りにあたりました。
會津墓地参道
京都守護職お預かりだった京の治安維持組織「新選組」ともゆかりのある場所ですね。
そして、薩長を中心とする新政府軍と幕軍が激突した鳥羽・伏見の戦で殉職した会津藩士を弔った場所でもあります。
極楽橋は寛永18年(1641年)の建造で、京都の社寺では最も古い石橋とされてます。
橋の下の蓮池は源平の戦いで有名な熊谷直実が出家を決意した際に兜を洗ったことから、「兜の池」の別名を持ってます。
極楽橋の先にある三重塔。
石段の途中に会津藩士の墓地があります。
鳥羽・伏見の戦で敗れ、賊軍の汚名を着た会津藩士の遺体はそのまま路上に放置されていましたが、元々 会津藩部屋頭だった侠客の會津小鉄は遺体を収容して荼毘に付して埋葬し、容保公の恩義に報いんが為に黒谷會津墓地の清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っています。
今も毎年6月に会津松平家の当主も出席して、會津藩殉難者追悼法要が行われているそうです。
前の週に大阪に行った時は既に梅が満開でしたが、京の都はまだ咲き始めです。
お次は金戒光明寺の境内を歩きます
つづく
過去記事<京都写ん歩 平安神宮>
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