お気楽忍者のブログ 弐の巻

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名張藤堂家邸跡にて(2017年)

2020年10月11日 18時00分00秒 | 行楽・旅行記(過去編1)

今日は過去に訪れた三重県名張市にある名張藤堂家邸跡の様子を再録します。

浅井・豊臣・徳川に仕えた戦国武将で築城の名手と云われた藤堂高虎(今治藩主→伊勢津藩主)は子に恵まれなかったため、養子として迎えた丹羽長秀の三男 高吉を後継者にしようと考えていましたが、高虎に実子 高次が生まれるとその話も消滅してしまいました。

うーん、ドロドロ感の予感(笑)

高虎の城代として今治城主となっていた高吉は高虎の死後、高次の家臣として仕え、寛永13年(1636年)に高次の命で伊賀国名張に移封されました。

高次は高吉の存在を危険視していたとされ(幕府が高吉を藤堂本家から独立した大名にする動きがあったとされる)、名張への移封は高吉に対する高次の冷遇の一環であったと云われています。

その後、享保年間に名張藤堂家5代当主 長煕は藩祖高吉の実家である丹羽家を通して幕府に独立を働きかけていることを藤堂宗家が知るところとなり、長煕は隠居、関連した家臣は切腹となってしまいました(享保騒動)。

これ以降、名張藤堂氏と藤堂宗家との対立は落ち着き、名張藤堂家は明治維新まで11代に渡って続きました。

現存の建物は宝永7年(1710年)の名張大火後に再建されたものだそうで、「御西」と称された中奥、祝いの間、茶室など日常生活に使用された奥向の一部と正門(寿栄神社へ移築)が残されており、近世武家の住まいの例として貴重な遺構となってます。

邸宅内では名張藤堂家に伝わった調度品、武具、典籍、文書などが展示公開されてました。

「豊臣秀吉朱印状」、「鉄唐冠形兜・一の谷形兜」、「具足」、「備前無銘刀」「藤堂高吉公一代記」、「羽柴秀吉・丹羽長秀の書筒」などの貴重な資料も観ることができました。

これ、トイレです

観光客が自由に書けるノートに何らや書き込む息子。。

何書いてたか忘れちゃいましたが(笑)

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