5月12日
昨年に続いて、京都市左京区黒谷町にある浄土宗大本山 紫雲山 金戒光明寺、通称「くろ谷さん」を訪れました。知恩院と並ぶ格式を誇る浄土宗七大本山の一つです。
そして、幕末期には京都守護職本陣が置かれた場所でした。
徳川家康は金戒光明寺と知恩院を庇護し、京都防衛と朝廷に睨みを効かすため、二条城とともにこれらの寺院を城郭構造に改めました。
幕末期になり、会津藩主 松平容保が文久2年(1862年)に京都守護職(京都の警備組織の長)に就任すると、金戒光明寺を京都守護職会津藩本陣とし、藩兵1,000人を京都に常駐させ、尊王攘夷派の取締りにあたりました。
薩長を中心とする新政府軍と幕軍が激突した鳥羽・伏見の戦で殉職した会津藩士を弔う会津墓地もあります。
立派な山門は、万延元年(1860年)に建立され、後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額があります。
法然上人の幼少の頃の姿、勢至丸(せいしまる)の像。法然は13歳の頃、比叡山で仏門に入りました。
御影堂(大殿)
宗祖法然上人75歳の御影(座像)を奉安しているお堂ですが、 火災により焼失し、今の御影堂は昭和19年に再建されたそうです。
妻の実家は浄土宗なので、亡くなった義母も毎年、地元のお寺の檀家の催しでくろ谷さん参拝に行ったりしてました。妻はまだ来たことがなかったから、義母を偲ぶ意味も込めて訪れた次第です。。
阿弥陀堂(京都府指定有形文化財)は慶長10年(1612年)に豊臣秀頼により再建されました。
納骨堂
承安5年(1175年)、43歳で浄土宗の開宗を決めた法然が比叡山の黒谷を下り、この地に草庵を結んだのがこの寺の始まりとされています。
浄土宗の総本山はご存知、知恩院ですが、法然が浄土宗開宗の意思を強固にした地はここだったんですね。
つづく
過去記事<京都写ん歩 アースデイ in 京都>
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