「萩焼」
Description / 特徴・産地
萩焼とは?
萩焼(はぎやき)は山口県萩市一帯を中心に作られている陶磁器です。
萩焼の特徴は、装飾がほとんど行われないため、素材の性質を活かして作られる、同じものが二つとない独特の風合いです。釉薬との伸縮率を利用したひび割れ「貫入」と使い込むことによる表面変化「七化け(ななばけ)」、「窯変」といった焼成時の変化などを利用して陶磁器の個性を出しています。
また茶器として用いられることの多い萩焼ですが、高台(こうだい)に切り込みがよく見られます。この「切り高台」は萩焼のルーツである朝鮮李朝から伝わったもので、その目的は諸説ありますが、装飾の少ない萩焼では作品全体の印象を決定する重要な要素となっています。
萩焼には大道土(だいどうつち)、見島土(みしまつち)、金峯土(みたけつち)を混合した胎土を使用します。これらの土は焼き締りが少なく保温性に優れているため、風合いの良さと相まってお茶を楽しむ用途に好んで使用されています。
History / 歴史
萩焼の歴史は安土桃山時代の1592年(文禄元年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に遡ります。当時茶の湯の文化がもてはやされ、茶器として高麗茶碗が評価されていました。
秀吉は陶工の招致を大名に指示しており多数の陶工が日本へ渡りましたが、江戸時代前期の慶長9年(1604年)に後の萩藩開祖の毛利輝元が招いた李朝の陶工李勺光・敬兄弟が萩に移り、築いた御用窯が萩焼の始まりと言われています。
当初は高麗茶碗の手法がそのまま用いられましたが、後に様々な流派が生まれました。また明治時代後期には伝統文化の再評価が起こり、三輪休雪が新たな作風を興しています。大正時代に入ると「1楽、2萩、3唐津」と呼ばれるほどの知名度を得ることになります。
戦後の高度成長に伴い萩焼は発展を続け、1957年(昭和32年)に選択無形文化財に選ばれました。
1970年(昭和45年)には三輪休和(十代三輪休雪)、1983年(昭和58年)には三輪壽雪(十一代三輪休雪)が人間国宝に認定され、2002年(平成14年)に伝統的工芸品の指定を受けることとなりました。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/hagiyaki/ より
絡み合う炎の技と人の技~萩焼
一楽、二萩、三唐津。萩焼は数百年に渡って茶の湯の道具として、愛でられてきた。茶の湯に似合うとされたのは、柔らかさを感じさせる土の味わいと、表情豊かな釉調。それらを生みだすのは窯の炎だ。作り手は、経験を重ねることで、炎を御す術を身につける。炎と人の技がひとつになることで、萩焼ならではの存在感が作り出されるのだ。
萩焼を焼きつづけること60余年、自身も旺盛な製作活動をつづける傍らで、数多くの弟子を育ててきた、兼田三左衛門さんの窯を訪ね、お話をうかがった。
茶の湯と萩焼
「まず、お茶を」そう言ってだされたのは、抹茶。もてなしに気軽に抹茶が出てくるところに、茶の湯が身近な萩の土地柄を実感する。
萩焼の作り手には、茶の湯を嗜む人が多い。窯元が自分の所の職人に師匠を紹介し、仕事の一環として茶を習いに行かせることも珍しくないという。茶の湯との交流の中で、作り手たちは自ら使い手となり、より良いものが焼けるように精進した。そうした気風が、現在の作り手たちの間にも受け継がれているのだ。
茶の湯の茶わんは、見た目だけでなく手に取り使った時の感じの良さも大切にする。余分な装飾のない分、形や釉調が存在感を左右する茶わんには、萩焼の魅力が凝縮されている。数あるやきものの形のなかで、「やっぱり、茶わんが一番難しいやね」と兼田さんは語る。
炎がつくる萩焼の魅力
微妙な釉調は、萩焼の大きな魅力のひとつだ。器の優しい肌色の上に掛かる白い釉、その所々に浮かび上がる薄紫色。こうした色の変化は窯変によって引き起こされる。窯変とは、窯に入れた時の火の具合によって、通常の釉調とは異なる反応がおきることをいう。萩焼の表面に時折見られるホタルの光の様な白い斑点も窯変によって作りだされる。
作り手は、作品を焼く時、窯の中で置く位置を計算することなどで、窯変を意図的に起こすことが出来るという。しかし、すべてが思い通りに運ぶ訳ではない。
「前にいいものが焼けたところでも、次も同じ様にできるとは限らん。その反対に、思いもよらん窯変が生じることもある。そこが、登窯の面白い所。同じ窯でも、火の回り方によって色が変るし、時には火に引っ張られて形も歪む。でも萩焼を知っちょる人は、それがいいっていって買っていきよる。」と兼田さんは微笑む。人の技と炎の技の絡み合いが生みだす妙技を見る目が買い手にあってこそ、作り手の技も活きるのだ。
萩焼の魅力は、窯の中という人の手の届かない場所で産み出される。しかし、そこから生まれる作品を、限りなく自分の狙いに近づけていくのは人の技だ。
炎を活かす人の技
萩焼は、今でも伝統的な登窯によって焼かれることが多い。登窯の他には、ガス窯や電気窯も用いられている。同じ雰囲気のものを安定して作るには、ガス窯や電気窯が向いているが、炎や灰による変化を求める作品は、登窯でなければ生まれない。
登窯での焼成に掛かる時間は、窯の大きさによって異なるが、兼田さんのところでは概ね24時間。この間つきっきりで火の番をする。火加減はやきものの出来を決める大切な要素である。同じ土、同じ形、同じ釉薬のものを焼いても、窯の焚きようで、色も変われば窯変の現れも変る。
登窯の場合、火の温度や勢いは、投入する薪の太さやタイミングでコントロールする。兼田さんはそれを炎の色で見極める。己の目だけが拠り所の作業である。
どれぐらい経験を積めば、見極められようになるのだろうか。そんな問いに、兼田さん笑って「まだ、まだ」と繰り返す。この道60年の大ベテランをして、未だに見極めきってないと言わせるほど、登窯の奥は深いようだ。
色見と呼ばれるサンプル。炎の色を見極めた所で、色見を窯の脇の小さな窓から引き出し、焼け具合などを見る。納得がいけば、そこで窯焚きが終了となる。
次の代には次の代の作品
兼田さんの天寵山(てんちょうざん)窯では、息子の昌尚さんも製作活動を行っている。ギャラリーに展示されている昌尚さんの作品は、兼田さんのものとは随分作風が違う。
「息子には息子のやり方があるよって、なるべく言わんようにしちょる。」兼田さんは、昌尚さんのやり方が自分と違うと思っても、それを口には出さない。どこの窯元でも後継ぎに対しては同じ様だという。「出来上がってみれば、『いい』と思うこともあるよって。でも本人には言わんけどね」そういう兼田さんはどことなく嬉しそうだ。
萩焼はその発生当初から時代の流れに敏感なやきものだったという。江戸に遅れをとらないように、流行をいちはやく取り入れ、その作風を変化させてきた。それぞれの時代の中で流行となった造形の中で、生き残ったものが、伝統として今に受け継がれているのだ。
兼田さんは「こっちが息子に習わにゃならん」と笑う。兼田さんもまた、時代と共に変り続ける萩焼の作り手のひとりだということを、感じさせる一言だった。
職人プロフィール
兼田三左衛門 (かねたさんざえもん)
大正9年生まれ。昭和15年に山県麗秀氏、伯父である天寵山窯五代目の兼田徳蔵氏に師事。昭和48年の一水会初入選以来、日本伝統工芸展など各種工芸展などで入選・入賞多数。
萩市文化奨励賞、萩市産業功労賞、山口県選奨受賞
日本工芸会正会員、萩陶芸家協会会員
こぼれ話
澄んだ色味の初々しい茶わんが、何年も使ううちに落ち着いた渋い雰囲気の茶わんに変る。萩焼が美しく時を重ねる様子を、やきものを知る人は「萩の七化け」という。
萩焼の茶わんは、ざっくりとした土味の胎土でつくられている。その土味が萩焼の魅力のひとつとなっているのだが、透水性があるため、表面の釉に入った貫入という細かいヒビの隙間から茶や酒などがしみ込み易い。長く使っているうちに、釉調が変化するのはそのためだ。
入り込んだ茶液などが残した色は、貫入の様子を際だたせ地紋のように見せたり、面白みのある色染みを生じさせたりする。
色の染み込み方は、使い手の扱い方によって随分違う。使う前に器に充分に水を含ませ、使用後は手でよく水洗いをして自然乾燥で完全に水分をとばす。そうした基本的な扱いはもちろんだが、風合を良くしていくのに大切なことは、使い続けることだという。「いくら立派な茶わんだからといって、大切にしすぎて使わなければ死んでしまう」というわけだ。
きちんと手入れをして長く使う。そうすることで、萩焼は「七つ」どころか無限に変る表情を愉しませてくれる。
*https://kougeihin.jp/craft/0419/ より
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