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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 知花花織

2021-08-25 10:27:12 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「知花花織」

 Description / 特徴・産地

 知花花織とは?
 知花花織(ちばなはなおり)は沖縄県沖縄市知花で作られている織物です。
 知花花織の特徴は、布の地に花のような文様が織り込まれていることです。このような連続した幾何学模様を織り込んだ織物を紋織物と言い、華やかな文様のルーツは南アジアから伝わったものとも言われています。
 知花花織には縦方向に柄が浮き上がる経浮(たてうき)花織と刺繍のように柄を織り込む縫取(ぬいとり)花織とがあります。素材は木綿が主に使われていましたが、絹や羊毛を用いることもありました。織り込まれた模様は、通常反物では同じ模様が連続して続きますが、知花花織では最初と最後で違う模様が織り込まれることもありました。その理由は、琉球王朝時代に税金として収められていた織布が多かった中、知花花織は徴税の対象となっていなかったからです。
 祭事の際にも知花花織の着物を着用して祭祀を行っており、その風習は現代にも受け継がれています。

 History / 歴史
 知花花織 - 歴史
 知花花織の起源ははっきりとわかっていませんが、一説によると18世紀頃には旧美里村(現在の沖縄市)の周辺で花織が織られ始めたと言われています。琉球王朝は盛んに中国や南アジアと交易を行っており、花織のルーツは南アジアから伝わったと考えられています。
 知花花織は王府の貢布の対象となっていなかったことから自由な意匠で作られ、知花村の祭事に着る衣装としても根付いていきます。旧暦の8月14日に行われるウマハラシー(馬競争)、8月15日のウスデーク(臼太鼓)で五穀豊穣を願う祭事では知花花織が用いられてきました。しかし、明治以降になると徐々に衰退の一途をたどるようになります。
 第一次、第二次世界大戦後、沖縄が壊滅的な被害を受けると、その技術は完全に途絶えてしまいました。しかし、1989年(平成元年)に知花花織は100年ぶりに復元され、現在では行政の支援も受け着物だけでなく、ネクタイなどの小物も製作するなど意欲的に生産に取り組んでいます。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/chibanahanaori/ より

*https://kougeihin.jp/craft/0136/ より

 百年の眠りから目覚めた幻の知花花織

 【 知花花織とは 】
 知花花織(ちばなはなおり)とは、沖縄本島の旧コザ市と旧美里村が合併した現在の沖縄市発祥の織物。過去二度の大戦で、全ての織物が焼失してしまったことやアメリカ統治、日本本土復帰など、激動の時代を迎えた沖縄で、織物技術の継承が進まず、完全に途絶えてしまった幻の花織り。100年後、一人の男の手によって復元された知花花織は、現在、指定文化財に指定され、各方面での活躍がめざましい。

 2度の大戦で・・・

 沖縄は琉球王国時代より、多彩で気品に溢れた多くの工芸品を生み出していますが、その中でも特に染織に関しては、宝庫と呼ばれるほど多くの技法が現存します。

 ただ、知花花織においては、第一次、第二次と二度の大戦で、ほとんどの花織りが焼かれてしまったことや、その後のアメリカ統治、日本本土復帰など、激動の時代を迎えた沖縄において、織物技術の継承がうまく進まなかったことなど、さまざまな困難があった。

 壊滅危機にある知花花織の染織技法を途絶えさすまいと、先人のあらゆる努力もむなしく、知花花織の歴史は、ついに、完全に途絶えてしまったのです。

 沖縄は染織の宝庫
 織り手そのものの感性 
 今に残る過去の知花花織は、かなり自由奔放なデザインが特徴で、織り始めから終わりまで、同じ模様の連続ではなく、思うがままに模様を変化させながら織られいますが、それには理由があるのです。

 沖縄の染織のほとんどが、琉球王府への租税として、厳しい制度の下で創られていたため、織子の自由な感性で織られるということはありませんでした。

 しかし「知花花織」は、そのような貢布としての制約はなく、村の祭りの衣装や晴れ着として、織り手そのものの感性が、そのまま反映されていたのです。

 庶民に愛される織物ゆえの夢とロマンにみちあふれた花織が、完全に途絶えたことが残念でなりません。

 立ち上がった一人の男

 知花花織発祥の地である旧美里村(現沖縄市)出身の幸喜 新(コウキ シン)氏。
以外にも、知花花織との出会いは、一枚の新聞記事。当時、美里花織(みさとはなおり)と称された織物が紹介されていて、幸喜氏の生まれ育った美里の地名が付された織物の存在に強い衝撃を受け、後の琉球大学大学院で修士論文の研究テーマ「旧美里村における経浮花織技法の調査・研究および復元」で、本格的に、知花花織の研究が幕をあけることとなる。

 美里花織(みさとはなおり)とは、どのような織物なのか。美里とは沖縄市の美里地域を指したものなのかなど、手がかりの少ない中のスタートだったと言う。

 家宝として守られてきた知花花織との出会い

 知花花織の歴史が途絶えて100年の月日が経過した今。
 花織技術を知っている人も現存していない状況の中、完全に途絶えた歴史を復活させるのは容易ではない。

 それでも、僅かな情報の中からスタートし、信頼関係を築きながらの涙ぐましい努力。繰り返しの地道な聞き取り調査を行った結果、戦時中、家宝として守られてきた知花花織を見せてもらうまでにたどり着いたそうです。

 100年以上の時を経て、目の当たりにする知花花織の技術力の高さと美しさに、強い衝撃を受けた事を、今でも鮮明に覚えているそうです。

 知花花織の技術力の高さ

 「無」から「有」に変えたいと願う瞬間
 また、知花花織を身にまとい五穀豊穣を願う祭祀(知花ウスデーク)との出会いも忘れられない。戦中戦後を通し、一時途絶えていたウスデークは、知花の女性達により、戦後いち早く復活したそうですが、さまざまな障害を乗り越えることが出来ず、その後、完全に途絶えてしまったようです。

 知花花織の復元とウスデークの復活。単なる一個人の研究で終わることなく、地域のために貢献できることとして、たとえ一人でもこの仕事をスタートさせたい。それは「無から有に変えたいと願う瞬間だった。」と幸喜新氏は言う。
 その後、沖縄市市長をはじめ、多くの支援者の尽力により、ついに、100年の眠りから目覚めさせることに成功した。

 五の四までも(いつの世までも)

 一つの花(柄)は、四つ角に五つの組の■と、中心に四つの組の■とで構成されています。これは・・・

 いつ(五)の世(四)までも永遠に、あなたへの愛は変わらない。

 という深い思いが込められており、島の美童達は、いとしい人の為に、1本1本心を込めて織り、愛する人に思いを託した女性の愛のしるしだったのです。

また、結婚す際に、花嫁が花婿の家族や親戚に贈ることもあったと言われ、紺、白、赤の優しい色合いは、その落ち着いた感じの素朴さが魅力だ。

 素材は、木綿が主で、その他に芭蕉・絹・羊毛なども使用されています。花織の伝統的スタイルは、藍(琉球藍)で染められた紺地に絣、もしくはさらに格子柄の組合せ、そして浮模様が入るというものです。

 

 職人の真剣勝負

 準備に2週間を費やし、1日の生産量わずか数十センチ。

 いくつもの工程を経て、織り上げられる同花織りは、1694本の緯糸を1本1本手作業で綜絖に通される。

 織り機に準備するまでに「約2週間」を費やし、織れる量は「1日にわずか数十センチ」と地道な作業の繰り返しにより、ようやく形として表れる織物の仕事は、相当な根気や忍耐が必要とされる。

 タンタンと快調に聞こえる機の音ですが、1通たりとも気が抜けない、職人の真剣勝負なのです。

 100年の眠りから目覚めた幻の花織、受け継ぐ職人の技(匠)をご堪能下さい。

 歴史を刻む沖縄のおばぁ

 18世紀には、既に技術として確立していたとされる知花花織は、臼太鼓(ウスデーク)と言われる五穀豊穣を願う女性の祭り(旧暦8月15日)に、村の女性が着る衣装で、自ら織り着飾った花織りを自慢する風習があったようです。 

 また、馬乗り競争(ウマハラシー)と言われる男性の祭り(旧暦8月14日)に、馬乗用上着や芝居の晴れ着などとして、広く庶民に愛された衣装なのです。

 

 【 知花花織の今 】
 現在、知花花織の復元は、「知花花織復元作業所」にて行われており、デザイン、琉球藍の染色技術と管理、色糸の染色、絣括り、製織など、技術の錬磨と研鑽に情熱を注いでいる。 また、自由な感性で織られた知花花織は、他地域の織物と比べ、独自性に富み、貴重な民族文化財とされ、沖縄市指定文化財に指定されるまでに評価される。今後も、各方面での活躍が期待されています。

*https://www.rakuten.ne.jp/gold/fellows/chibana03.htm?scid=af_pc_etc&sc2id=af_115_1_10000448 より

 


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