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<経産大臣指定伝統的工芸品> 長崎 波佐見焼

2021-08-23 10:32:21 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「波佐見焼」

 Description / 特徴・産地

 波佐見焼とは?
 波佐見焼(はさみやき)は、長崎県東彼杵郡波佐見町で作られている陶磁器です。戦国時代の後期に誕生した伝統工芸品ですが、現在も日用食器として親しまれています。
 波佐見焼の特徴は、白磁と透明感のある呉須の藍色が美しいことです。波佐見焼の中でも、くらわんか碗やコンプラ瓶、ワレニッカ食器などがよく知られています。
 くらわんか椀は、「餅くらわんか、酒くらわんか」という掛け声とともに売られたことから、その名前がつきました。コンプラ瓶は、主に輸出向けに作られたものです。語源は仲買人を意味するポルトガル語で、金富良商社が酒や醤油を輸出するためにコンプラ瓶を使っていました。コンプラ瓶に酒や醤油が詰められて輸出されていたのは幕末頃で、出島からヨーロッパなどに輸出されていました。
 ワレニッカ食器は1987年(昭和62年)に割れにくい給食用の食器として開発されたもので、強化磁器のルーツとも言われています。最初は町内の小学校のみでしたが、給食の普及に伴って県外の学校や病院へも出荷され、全国で使われるようになりました。

 History / 歴史
 波佐見焼 - 歴史

 1598年(慶長3年)大村藩主の大村喜前が朝鮮の陶工を連れ帰ったことが波佐見焼の始まりで、翌年の1559年(慶長4年)から実際に焼き物作りが始まりました。当時の窯のタイプは登窯で、畑ノ原・古皿屋・山似田の3カ所に窯が設けられていました。
現在の波佐見焼は、白磁と藍のコントラストが美しい染付・青磁作品が主流ではありますが、窯を築いて間もないころは施釉陶器を作っていました。染付・青磁が主流になったのは1602年(慶長7年)以降のことで、磁器の原料が見つかったために次第に施釉陶器から磁器へシフトしていきました。その後、磁器の生産量が増え江戸時代後期には生産量日本一になるほどの成長ぶりを見せました。
 生産量が日本一になった背景には「くらわんか椀」の存在があります。江戸時代の庶民にとって陶磁器は高級品でしたが、くらわんか椀は手ごろな値段で販売されていたため、多くの庶民の食卓を彩りました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/hasamiyaki/ より

 使われ続け根付いてきた「用」の食器
 日用食器の生産量では美濃・有田に次ぐ大窯業地、波佐見。江戸時代末期には国内随一の生産量を誇った波佐見焼は日用和食器として多くの人に使われ続けている。用の美を追求して50年、ろくろ成形の達人を訪ねた。

 
 焼きものの地に生まれて
 焼きものの地に生まれ、自然な流れで職人に中村平三さんは職人になって52年になる。終戦後で職がない時代、なんとなく今の仕事についたという。「あこがれもなんもなかったねぇ。20歳はなれた兄がろくろをしとったから、弟子入りした。(この地区に)同級生が8人おって、みんな焼物関係の仕事に就いたよ。」


 仕事は辛い、苦しいもの。楽しいだけではうまくならない
 修行は3年間、弟子離れしてからの1年間はお礼奉公で、この4年間は給料がもらえない。「窯元からお金をもらうわけにもいかんから、兄から小遣いをもらって映画に行ったりしていたね。」弟子は先輩の雑用や火種から火を起こし、陶土をこねて中の空気抜きをし、均等な硬さにしなければならない上、当時は足で蹴るろくろで、朝早くから夜遅くまで一日中動きっぱなしだった。
成形にも苦労があった。まったく同じ大きさ、同じ形のものを作ることことが必要だが、100個も200個も同じにするのは並大抵のことではない。自然乾燥や窯での焼成時の収縮率も考えるが、考えても思うようにならない。何度も泣いたほどだそう。


 「呑気にやってこられたけん、よかった~」
 中村さんが職人として生きたこの50年は、ろくろ成形の機械化が進んだ時代。だが中村さん自身は小さな窯元にいたために、その流れから隔てられていた。バブル崩壊以降、多品種少量生産で付加価値のあるものが認められるようになり、ろくろ成形は再び脚光をあびることになる。「100個200個なら機械でするより手でやった方が早い。」「この50年間健康で、仕事があり、明日どうしようかと困ったことが一度もなかったのが幸せ」と絵付を担当する奥様の佳智子さん。そして中村さんが「呑気にやってこられたけん、よかった~」(あまり周りを気にせず呑気にここまでやってこれたから、よかった)としみじみと言われたのが印象的だった。


 400年の歴史の中の50年
 50年を振り返って、中村さんはこう語る。「400年の歴史の中の50年だと考えると、歴史を作ったのかなぁと感じるね。波佐見は雑器だから壊れる。だからこそ伝統が生き続けてきた。それが良かったのかもしれんね。」その歴史の中で受け継がれてきたこと、一番よい作り方を継承したいという。今は職人より作家の方が注目を集める時代だが、作家が作るものは一品ものや大きなもの。そのためには土が余計にいるし、窯も違う。そうなると歴史の一部でなく、すべてが一からスタートになる。だからこそ、職人の技術を受け継ぎたい、と。


 技術の継承に希望を託して
 後進の指導にも情熱を持ち続けている。1970年頃から波佐見焼の後継者育成のためのろくろ教室で講師をしている。今までに教えた生徒は200名はくだらないという。職人になりたい、陶芸教室を開きたい、あるいは作家になりたいと、地元だけでなく遠方からも指導を受けに、多くの人がやってくるそうだ。「何人か見てきたけど、彼らもわしと同じように苦労しとったね。夜中の間、焼物のことが気になって眠れない弟子達とよく酒を飲み明かしたよ。そうやって泣いてきた人間にしか、苦労はわからんね。その中から4人か5人は一人前になった」と嬉しそうだった。


 飾ってもらうだけでなく、使ってもらう器を作りたい
 「お酒が生きがい」で焼物づくりは「やめたい、もう疲れた~」と言いつつも「体が動く限りは仕事を続ける。これしかない」と中村さん。
 「今までは頼まれたことをしてきたから自分の作品はほとんどない。だから自分の作品を作りたいね。それも飾るものではなく、人に使ってもらえるものがいい。」とニコニコして言われた。

 職人プロフィール

 中村平三 (なかむらへいぞう)

 16歳で兄に弟子入りし、以来半世紀にわたってろくろ成形にたずさわっている伝統工芸士。

 こぼれ話

 焼物三角地帯その歴史的背景

 波佐見、三川内、有田は三角形を描くほぼ等距離に位置。原料や技法がほとんど同じで見た目もよく似ていますが、歴史的背景が異なっており、次のような特徴があります。

 波佐見では長崎出島より酒・醤油を詰めオランダ・東南アジア向けに大量に輸出された「コンプラ瓶」、日本の食文化を大きく変えたともされる「くらわんか碗」に代表される日用食器が主に作られていました。

 有田では伊万里港から欧州に向けて、初期には中国の景徳鎮風の、後に柿右衛門様式など日本風のものを生産出荷、欧州諸国で人気を博し急発展しました。

 三川内は世界的に名高い天草陶石を最初に発見・使用、平戸藩御用窯時代に朝廷や将軍家に対する献上品や全国の諸大名への贈り物として、他産地では製作不可能な製品を産みました。

*https://kougeihin.jp/craft/0427/  より


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2024-04-04 01:50:47
名前の読みが間違っていて残念
なかむら へいざぶ です
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