ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『私の昭和史』 - 3 ( 昭和10年、スターリンの指示 )

2017-08-03 23:04:59 | 徒然の記

 白石氏の著作の主題は、敗戦後の日本に浸透している、「戦争の原因は、すべて日本の軍国主義だ。」「日本さえ中国を侵略しなかったら、戦争は起こっていない。」という主張への反論です。

 その根拠として氏が挙げているのが、昭和10年の7月にモスクワで開催された、「コミンテルン第七回大会」での決議です。

 ここで中国共産党の代表陳紹禹  (別名 王明 ) の提案が、全会一致で議決され、スターリンによって取り上げられ、実行に移されることとなります。この会議には、野坂参三と山本縣蔵の2名が、それぞれ岡野、田中という偽名で日本を出国し、参加しています。

 大事な部分なので、氏の意見を紹介します。

 ・近衛内閣は、蒋介石を相手にしないと声明を出したが、以後歴代の内閣は、日中戦争を一日も早く終わらせるべく、それなりの努力を払った。

 ・しかし都度不調に終わった原因は、「 反ファッショ人民戦線 」 にあったのでないか。

 ・王明の提案の内容をみれば、いくら我が国が和平交渉を提案しても無駄であった理由が判明する。

 ・要するに我が国と蒋介石を戦わせ、両方の戦力を消耗させることが、スターリンの唯一の願望であり、世界戦略の一端であった。

 ・アジアでの無産革命を達成するための障害の一番が日本帝国主義で、二番目が蒋介石の国民党である。

 このために中国に「国共合作」を行わせ、手段として共産軍を国民党軍に編入し、日本に対する統一連合戦線を結成したと氏は述べます。世間でささやかれる「スターリン謀略説」です。

 渾身の思いで出版した本だったのでしょうが、昭和63年の日本では一顧だにされなかったようです、

  「ねこ庭」のブログを始めたのは、平成21年の12月でした。記憶が定かでありませんが、その2、3年後に、チャンネル桜の動画で保守学者の対談を見ました。

 「凄い本を見つけました。大東亜戦争は、スターリンの陰謀で始まったというんです。」

 「日本の陸軍が原因ではない、すべてスターリンが裏で画策していたと、この本にみんな書いてあるんです。」

 年配の学者が得意そうに語り、手にする本を、他の二人が眺めこむ画面を、今でも覚えています。残念ながら本の名は記憶していませんが、白石氏の著書ではなかった気がします。

 何が言いたいのかといいますと、氏の貴重な意見が、世間で20年以上も発見されず終いだったという事実です。スターリン謀略説という言葉は使っていませんが、スターリンの画策を指摘したのは、氏が最初だったのかも知れません。

 保守の学者たちが、四、五年前に驚いていますが、氏が本を出版したのは昭和63年ですから。

 氏は意見の裏付けとして3件の出来事を上げ、これらがスターリンの戦略につながっていると説明します。

 1. 毛沢東の抗日宣言 ( 昭和10年 )

  スターリンの指示を受けた毛沢東は、四川省で、抗日宣言を発表した。

  ・中国および中国民衆の仇敵は日本だ。

  ・日本の侵略で中国は多くのものを失っが、今や日本はさらに武装し、中国に迫っている。

  ・中国および中国民衆は国内抗争を停止し、抗日の旗印のもとに、すべての階級の民衆を組織し、全面的抗日戦線を行うべきだ。

 2. 西安事件 ( 昭和10年 )

  ・共産党討伐戦のため、南京を訪れていた蒋介石を、副司令官である張学良が、宿舎を急襲し監禁した。

  ・延安にいた周恩来がモスクワの指令で仲介に入り、蒋介石を救出した。

  ・釈放の条件として蒋介石は、共産党討伐を止め、国共軍が一致して日本と戦うことを約束させられた。

 3. 2・26事件 ( 昭和11年 )

   ・軍部内の将校を扇動し、天皇親政の名のもとに政権を取らせ、米英相手の戦争に突入させる。

  ・かくて日本は国力を消耗し、敗れ、日本を敗戦革命に導くことができる。

 2・26事件によるクーデターは成功しませんでしたが、米英戦争へ向かうという流れは残りました。氏はここで、ボン大学教授の松本氏の意見を、紹介します。

  ・5・15事件は、純粋に日本だけで考えられ、実行されたものだが、2・26事件はその考えの底流に、外国の発案が働いている可能性がある。

 教授はどこまでも 2・26事件が、コミンテルン会議の決議となんらかの関係があると示唆します。時系列を追い、三つの重大事件を並べてみますと昭和10年代に集中しており、氏の意見との辻褄が合います。

 2・26事件もそうだという確信は持ちませんが、コミンテルンの手が、ひそかに伸びていたというのは、「ゾルゲ・スパイ事件」を考えると、納得させられます。

  ゾルゲ・スパイ事件は長くなりますので、明日にすることとし、今晩の締めくくりは白石氏の「無念の一言」とします。

 ・やがて昭和12年、7月7日の盧溝橋事件が火を吹き、ついに日中全面戦争への道を、西と東から、まっしぐらに走り寄るという結果になった。

 ・これは全くモスクワの筋書き通りで、スターリンの思う壺に、日本が自分から進んではまり込んだと言えよう。

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『私の昭和史 』- 2 ( 満州国の実態とは ? )

2017-08-03 15:59:34 | 徒然の記

   ・ 満州国、それは寒い北東アジアの片隅に、淋しく咲いた 「ケシのあだ花 」 であったのかもしれない。

 これが満州国を語る氏の言葉です。しばらく、元関東軍の諜報部員だった氏の叙述を辿ってみましょう。

  ・日本人のいろいろな理想と、こじつけが折り重なって、ある年 ( 昭和7年 ) の春もまだ遠い3月1日、多少世間を憚りながら、肩を張って誕生を宣言した満州国でしたが、わずか十数年後の夏も暑い日盛りの8月15日、誠にアッケなく自らの生涯を閉じた。

  ・その引け際の、あまりのあっけなさゆえに、「 "まぼろしの帝国 」と呼ぶにふさわしい短い一生であったと言えよう。

  ・共産中国の最高指導者であった、故毛沢東が尊敬する歴史上の人物である秦の始皇帝は、万里の長城を築いたことで、我が国にもその名を轟かせている。

  ・しかし独裁者始皇帝が死して、わずか四年後、秦王朝は二世の胡で終わりを告げた。

  ・その名を語り継がれる割には短命であった秦王朝は、20世紀中葉の、幻の帝国満州国」と偶然にも同じ長さである。

  ・人類の長い歴史の上で、人間の短い生命の何十分の一にも満たない寿命だった帝国のことなど、論ずるに値しないとも思われるが、

  ・満州国は20世紀に、われわれ日本人が直接手がけた国造りであるという意味において、そのあだ花の姿を描くことは、なんらかの価値があるのかもしれない。

  ・もとより戦争は敗れた者を全部悪者にして、勝利者の横暴が幅を利かす結果となることは、人類の歴史を見ればハッキリとしている。

  ・負けた者は罰として、勝利者の要求するまま苦難の道を歩まねばならない。

  ・しかしここで、何もかも負けた側の行ったことは悪いということを止めて、静かに足跡を辿ってみることも、あながち無意味ではあるまい。

 これが本の書き出しです。始皇帝の秦との比較で満州国を語られるとは、思ってもいない叙述でした。

 氏が本を出版した昭和63年は、日本経済がバブルの絶頂期にあった時です。全長58.85kmで、世界最長の「青函トンネル」が開通し、東京ドームが完成し、株価が3万円を超え、竹下首相が「ふるさと創生」を提唱し、全国の市町村に使い道に制限のない1億円を交付するという、大盤振る舞いをした年でした。

  この年の9月に、昭和天皇の容態が悪化し、連日「下血」の状況が報道されました。陛下が崩御された翌年の昭和64年は、わずか一週間で終わり、平成の年号に代わりました。
 
 したがって昭和63年が、実質的には昭和の最後の年ということになります。
 
 世界一の経済大国米国に迫る、世界第二の経済大国となったのですから、国民は上も下も有頂天になり、使いきれない資金を諸外国へ投資し、この世の春を謳歌していました。
 
 昭和天皇のご容態の急変がありました時でもあり、氏の著作はおそらく世間の誰にも注目されなかったのではないでしょうか。
 
 得意の絶頂にいたのは国民だけでなく、朝日新聞を筆頭に腐れマスコミも反戦・平和の記事を拡散し、「お花畑」を全国に拡大していました。
 
 戦前の日本を悪として報道していたマスコミが、氏の著作に目を向けるはずがなく、気づいても無視したに違いありません。氏の著作は、出版の時期が早すぎたのかも知れません。
 
 国民の多くがマスコミの偏向報道に気づき、歴史を見直そうとしている今なら、多数の読者を得たと思います。不運な氏に代わり、氏の祖国愛を少しでも世間に伝えられたらと、つい余計なことを考えたりします。

  だがその前に、知識の空白を埋めてくれた氏に感謝しなければなりません。これまでの自分は、極東裁判で潔かった東条大将の姿に敬意の念を抱いていましたが、き板垣征四郎中将や石原莞爾大佐にはずっと否定的な印象を抱いていました。

 その思い違いを正してくれた氏の著作から、該当部分を紹介します。

  ・日華事変が勃発し、板垣中将は北支に転戦することとなる。

  ・その後任に東条が、憲兵司令官から、関東軍参謀長に就任した。

  ・間も無く石原が少将に昇任して、関東軍に戻ってきた。しかも東条の補佐役としての参謀次長である。

  ・石原参謀次長にしてみれば、満州国のレールは自分が敷いたという自負もあろうし、それゆえの責任も感じていたであろう。

  ・数年留守をして現在の満州国の状態を見て、がっかりしたのは事実であろう。

  ・このまま放置すると五族共和どころか、日本人が暴走し、満蒙漢人の怨嗟の的となり、民心が離反し満州国が崩壊する。

  ・石原は建国の初心に戻り、緩んだタガを締め直す必要を感じた。

  ・これは、政治的要素の欠けている東条参謀長には、理解できないことであったかもしれない。

  ・要するにこれは、二人の対立という安易な問題でなく、日本の悲劇であったと言える。

  ・多すぎる日本人管理者の登用、(濫用に等しい。そして現地人の軽視。

  ・かねて石原の理念であった、五族共和の精神、王道楽土の理想郷建設、そのどれ一つを取り上げても、建国時に本庄司令官を中心に語りあった約束とは裏腹であった。

 ここで私は、4年前に読んだ愛新覚羅浩 (ひろ )氏の著書、『流転の王妃』を思い出しました。氏は公爵家の嵯峨実藤氏の長女として生まれ、満州国皇帝溥儀の弟溥傑と、関東軍により政略結婚させられた人です。

 故人となられているはずですが、彼女には母国日本と夫君の中国が、いずれも大切な祖国でした。

 『流転の王妃』には、日中両国の間で心を引き裂かれつつ生きた彼女の半生が描かれていました。そこでは彼女の気持ちが率直に述べられ、私の前に日本が別の顔をして現れてきました。

  ・満州国の建国そのものが、関東軍の策謀の下に行われたことは、いうまでもありません。

  ・清朝最後の皇帝宣統帝 ( 溥儀 )を満州国皇帝にかつぎあげたのも、関東軍でした。

  ・満州国建国の翌々年、宣統帝は二十八歳で満州国皇帝となります

  ・しかし当初の話とちがって、皇帝とは名ばかりで、関東軍のため行動の自由も無く、意思表示もできない傀儡の生活に甘んじなければなりませんでした。

  ・関東軍のなかで宮廷に対して権勢をふるったのは、宮内府宮廷掛の吉岡安直大佐でした。

  ・大佐は私たちが新京で生活するようになると、事ある毎に干渉するようになりました。

 吉岡大佐は二人のお見合い時からの付き添いで、当時は中佐でしたが、大佐となり中将となった人物です。他人を悪し様に言わない彼女が、何度か彼の名前を出し、溥傑氏に無礼を働く様子を書いているところからして、余程腹に据えかねていたのだろうと推測できました。

  ・吉岡大佐に限らず、「五族協和」のスローガンを掲げながらも、満州では全て日本人優先でした。

  ・日本人の中でも関東軍は絶対の勢力を占め、関東軍でなければ人にあらず、という勢いでした。満州国皇弟と結婚した私など、そうした人たちの目から見れば、虫けら同然の存在に映ったのかもしれません。

  ・日本の警察や兵隊が店で食事をしてもお金を払わず、威張って出て行くということ。そんな話に私は愕然としました。

  ・いずれも、それまでの私には想像もつかなかった話ばかりでしたが、そうした事実を知るにつれ、日・満・蒙・漢・朝の「五族協和」というスローガンが、このままではどうなることかと暗澹たる思いにかられるのでした。

  ・日本に対する不満は、一般民衆から、満州国の要人にまで共通していました。私は恥ずかしさのあまり、ただ黙り込むしかありませんでした。

 4年前の文章を覚えているので無く、「ねこ庭」の過去記事を探し、肝心のところを紹介しました。半信半疑で読みましたが、『私の昭和史 』を読み、やはり日本人の奢りは事実と知りました。

 違っていたのは板垣中将や石原大佐が、その風潮を助長していたと誤解していた点です。

 満州の荒野を開き都市に変え、工業を起こし、商業を発展させたのは、日本の力だと保守の人々は力説しますが、自慢ばかりしておれない気がしてきました。同様に考えると、朝鮮半島の事情も似ているのでないかと、推測したくなります。

 反日と憎悪の攻撃ばかりしかけてくる、現在の韓国や北朝鮮に対し、封建的身分差の酷かった朝鮮を解放し、不潔と貧困の国を近代化させたのは、日本でないかと愛国の人々が反論します。

 むろん私もその一人で、歴史の大嘘を並べる反日の隣国を嫌悪しています。しかし日本統治の 35年間が人種差別の日々だったとしたら、感謝されるはずがないことも分かります。

 「恨みは千年たっても消えない。」と朴大統領が言いましたが、日本の保守の人間も、新しい角度から自分たちの過去を検証すべきと思えてきます。

 しかしそれは、反日左翼の人間たちの意見に乗るのでなく、日本を愛する人間の立場からしなくてなりません。現在の日本政府のように、卑屈に反省する必要はどこにもありません。

 本日も夜が更けてまいりました。今日はここで一区切りとしますが、白石氏の著書の紹介はしばらく続けます。この本は本棚の宝として残し、私と共に灰にしようと決めました。

 これもいわば、小人の煩悩なのでしょうか。断捨離はなかなか難しいのだと理解いたしました。

コメント (7)
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