宮下奈都氏著「羊と鋼の森」(平成27年刊 文元春秋)を、読み終えました。
氏は昭和42年福井県に生まれ、上智大学文学部を卒業後、平成16年に「静かな雨」で文学界新人佳作賞となり、文壇にデビューしました。今回は図書館でもらった廃棄図書でなく、家内が借りてきた現役の本です。本屋大賞を受賞した話題の作だといいます。
村田喜代子、梨木香歩、上橋菜穂子、宮尾登美子氏など、家内は女性の作家に偏っていますので、本であればなんでも構わない私の方が、感動や感激など、喜びの範囲が広いのだと、密かに自負をしています。
さて肝心の本ですが、一気に読みました。一言でいいますと、ピアノの調律師のお話です。日本にも世界にも、プロと呼ばれる人々が沢山います。芸術家もその仲間に入るのかどうか、知りませんが、ひとかどの域に達する職人は、間違いなく「その道のプロ」です。
調律師という職業があることは知っていましたが、これほど奥深く、微妙な仕事だとは思ってもいませんでした。素晴らしい調律師は、ピアニストの演奏力を高め、聴衆に訴える音作りの、芸術家でもあると、作者のおかげで知りました。
本の題名である「羊と鋼と森」という言葉にしても、なかなか工夫されています。鋼は、「はがね」と読み、ピアノ線を指していますが、続く「羊と森の」言葉が、凡庸でない作者の技でしょう。弦と呼ばれるピアノ線を叩くのは、フェルト製のハンマーで、氏の言葉で説明されるとこうなります。
「ほら、この弦をハンマーが叩いているでしょう。」「このハンマーは、フェルトでできているんです。」
「昔の羊は、山や野原で、いい草を食べていたんでしようね。」「いい草を食べて育った、いい羊のいい毛を贅沢に使って、」「フェルトを作っていたんですね。」
山深い土地の中学校で、主人公の少年は、体育館の隅でピアノを調律している男と話をしています。男の説明を聞き、少年は、家の近くの牧場に飼われている羊の様子を思い浮かべます。そして、思わず調律師に質問します。
「もしかして、ピアノに使われている木は、松ではないですか。」
「スプルースという木ですが、確かに松の一種ですね。」
少年の心に大雪山の風景が浮かび、鮮やかな森の景色と森の匂いまでを感じます。そして、思わず言ってしまいます。
「僕を弟子にしてください。」
と、これは本の10ページまでですが、この語り口には、どうしたって引き込まれてしまいます。大賞をうける作家というものは、その人自身もプロの職人みたいなもので、自分だけの言葉を持ち、それを文章に組み立てています。前に読んだ藤沢周平氏も、稗島千江氏もそうでしたが、自分の言葉と、リズムを持ち、語り口の巧さで読者を魅了しました。小説のジャンルは違っても、ひとかどの作家には、共通する非凡さがあり、その非凡さが作者の研鑽の賜物なのでしょう。
調律師の専門学校を卒業した少年は、ピアノの調律をする専門の会社に就職します。社長の他に調律師が四名、受付と事務の女性が一人、他に営業が何人かいて、全部で約10名という小さな会社です。広い仕事場には、調律練習用のピアノが何台か置いてあります。見習いの少年は先輩たちに連れられて仕事を手伝い、つねにノートを身につけ、大切なことをメモしていきます。
仕事の内容、注意点、自分の失敗や先輩の優れたところなど、懸命に書き記し、読み返して自分を反省します。彼らの職場は、個人の家庭、学校、コンサートホールと、大きく分けると三つです。どこでやっても調律の仕事は同じだと思っていましたが、それぞれが別だと教えられ、感心したり驚いたりでした。
同じく先生と言っても、学校と塾の教師は違いますし、小学校、中学、高校、大学となりますと、資格も条件も異なっています。清潔な室内に置かれたピアノと埃だらけの部屋に置かれたピアノでは、仕事のやり方を変えなくてなりません。耳の肥えた観客のいる会場にあるピアノと、元気な生徒たちのいる学校のピアノでは、調律する箇所と方法が変わります。
調律師たちの個性も様々です。自分でピアノを弾けなくても、音だけは聞き分ける耳を持ち、演奏者の心まで読むという、主人公のような人間もいますが、プロを目指していながら、断念した調律師もいます。あるいはピアノでなく、別の楽器にのめり込んでいる者もいます。
波乱万丈の筋立てがなくても、登城人物の個性のぶつかり合いが面白くて、途中でやめられませんでした。
「もう、読んだの。」と、家内がびっくりするほどの早さでした。私たちは別の思考をしていますから、読後の感想を述べ合うことはしないのですが、珍しく家内が気持ちを語りました。
「この本を読むとね。いったい自分の人生は何だったかって、考えさせられるね。」「こんな風に、一つのことを一生懸命に追いかけたなんて、したことなかったからね。」
「主人公にも兄弟がいて、互いに競争しあって、」「でも最後には、兄弟だから和解する。」「うちの子たちも、そうなってくれるだろうって、希望が湧いたわ。」
そうか、そんなことを考えていたのかと、感動している妻と違い、私は別のことを考えていました。息つく間もなく読みましたが、登城人物のすべてが、素晴らしいプロばかりで深遠な意見の持ち主だというのは、不自然ではなかろうか。会社全体が天才とプロの集まりだなんて、それは作者の過剰サービスではなかろうか。
藤沢氏や稗島氏の作品には、ごく普通の人間や何でもない人間が混じっていたが、リアリティーという面からすれば、その方がいいのではないか。・・・・・、だから私は、黙って本を返し、そして、少しばかり反省もしました。
どんな本でも読むので、感動と感激の範囲が家内より広いとしても、素直に感動できる読者と、いつも何がしかの短所を指摘してしまう自分と、はたしてどちらの方が幸せなのだろう・・・・。