ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『私の昭和史』 - ( 皇道派と統制派 )

2017-08-26 16:45:34 | 徒然の記

 氏の著作の分かりにくさの原因が、大分理解できました。時系列で書かれているようでいて、その実、話があらぬ方へ飛んでいます。

 相沢中佐による刺殺事件などが良い例で、あちこちで叙述され、しかもその一つ一つが詳しいため、返って大局を掴めなくしています。

 優秀な士官で記憶力は素晴らしいのですが、個別の事象が詳しくなり過ぎ、全体のつながりが不明瞭になっています。

 一番良い例が、日付です。何月何日と具体的に記されていますが、何年という記載がないため、年代が分からなくなっています。

 あるいは氏の任地についても、同様です。果たして氏が現在いる場所は、青森なのか千葉なのか、東京なのか、満州なのか。どうしてそこにいて、何故そうなったのか、説明が省略されています。

 「2・26事件の本質」を伝えれば良いと、氏は割り切っているのでしょうが、これではかかわっていた当事者か、熱心な研究者にしか正確な理解が難しい。私のように戦前についてほとんど知識のない者には、いささか不親切な著作となります。

 それでもこの書には、現在の私たちにとって大切な教訓が多く残されています。

 天皇、軍隊、政党政治、政商、共産主義、国粋主義、庶民生活等々、検証すべき課題がいくらでもあります。何時か憲法が改正され、日本が再び独立国なった時には、軍隊が大きな勢力となります。

 政争の具として軍人が武力を使わない仕組み作りなど、節度のある軍隊を持つことは、今から準備しておくべき重要事です。反日・左翼勢力が、軍の武力弾圧を恐れ警戒するのも、無理からぬ話と思えたりします。

 軍を放任していたら、「5・15事件」や「2・26事件」のようなクーデターの再発は、免れません。独立国として軍隊を持つようになったら、日本はどのように軍を統治していくのか。その重要な警鐘が、著者の思惑とは別にこの書で語られていると感じました。

 いったん氏の本を離れネットで事件を調べますと、当時の軍部内にあった二つの勢力の説明がありました。

 〈 1. 皇道派 〉・・帝国陸軍内に、かって存在した派閥。

  ・北一輝らの影響を受けて、天皇親政下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソ連との対決を志向した。

  ・名前の由来は、理論的指導者と目される荒木貞夫が、日本軍を「皇軍」と呼び、政財界( 皇道派の理屈では「君側の奸」)を排除し、天皇親政による国家改造を説いたことによる。

  ・陸軍には、荒木貞夫と真崎甚三郎を頭首とする皇道派があるのみで、統制派たる派閥は存在しないという説もある。

  ・皇道派が全盛期の時代、つまり荒木が犬養内閣で陸軍大臣に就任し、陸軍内の主導権を握ると、皇道派に反対する者に露骨な人事を行った。

  ・両派の対立は長く続くが、軍中央を押さえた統制派に対して、皇道派は若手将校による過激な暴発事件( 相沢事件や2・26事件など )を引き起こし、衰退していく。

  〈 2. 統制派 〉・・帝国陸軍内に、かって存在した派閥。

  ・荒木と真崎に、左遷されたり疎外された者で団結したグループは、ほとんど中央から退けられた。

  ・この処置が皇道派優遇人事として、中堅幕僚層の反発を招き、皇道派に敵対する永田が、自らの意志と関わりなく、統制派なる派閥の頭領にさせられていった。

  ・もともと統制派には、明確なリーダーや指導者がおらず、初期の中心人物と目される永田鉄山も、派閥行動に否定的な考えをもっていた。

  ・反皇道派を語る時のみ、統制派が実在したという考え方もある。

  ・永田亡き後、統制派の中心人物とされた東條英機の主張が、そのまま統制派の主張とされることが多い。

   ・当初は、暴力革命的手段による国家革新を企図していたが、国家改造のためなら、直接行動も辞さない皇道派の将校と異なり、陸軍大臣を通じて、政治上の要望を実現するという考え方になった。
 
  ・彼らは合法的な形で、列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した。

   ・天皇親政や財閥の規制など、政治への深い不満を旗印に結成された皇道派には、陸軍大学校(陸大)出身者がほとんどいない。

  ・一方統制派は、陸大出身者が主体で、彼らが軍内の規律統制を尊重するという意味から、統制派と呼ばれた。

  ・中堅幕僚層は、永田鉄山や東條英機を中心として纏まり、やがて陸軍中枢部から皇道派を排除していった。

 以上がネットの情報ですが、末松氏はこの問題に関し、次のように述べています。

  ・皇道派と統制派、この二つの概念を明確に意識したのは、この時が初めてだが、この二つを対立概念としている現在の使用意味とは違っている。

  ・これらはもとより抽出した概念であり、この二つの概念だけを頼りに当時の軍内を把握しようとすることは、実体を見損なうわけである。

  ・私自身が、皇道派の一人として分類されることは不満である。」

 軍人は質素であるべきと考える氏は、他人の金で贅沢をしたり、料亭に入り浸る者を軽蔑しています。皇道派の中にいても、末松氏は和して同ぜずを貫き、納得できないことには同意していません。

 とは言いつつ、一度信を置いた人物に対しては、自分の気持ちを抑え接していますから、信念の人とも思えない面があります。

 文武両道という言葉がありますが、剣術に優れ砲術に優れ、過酷な軍務を物ともしない氏は、武に勝っていても、文には弱かったのでないかという気がします。思想的にも肝心なところが曖昧で、条理より、義理や人情を大切にする人間であるようです。

 当時の軍人仲間はみなそうだったのか、それとも氏が特別に厚かったのか、軍務を離れても死ぬまで世話を焼いたり、金の工面をしてやったりしています。

 いったい、この強靭な仲間意識は、軍隊組織の中にいる軍人と両立しうるものなのでしょうか。仲間のために軍の規則を破り、してはならない違法行為をする軍人の姿が、随所に描かれていました。

 皇道派と統制派を問わず、義理と人情の波を泳ぐ軍人たちでもあります。

 己の心を省みて、やましいことがなければ、それで良し。純なる動機であれば、行為の結果は許される。

 氏に限らず、軍人達はそれを信じ軍刀を振りかざしますが、私は疑問を感じます。そんな考えで行為の正当化ができるのなら、世界は無秩序の乱世になります。依って立つ思想次第で、やましいことは変化します。立場が違えば、純な動機は不純となり、不純なものが純に見えてしまいます。

 これでは、個人の勝手な解釈で、好き放題をする世界を到来させる恐れあります。末松氏たちのように武器を手にしていないだけで、現在の与野党の政治家たちの姿は、この時代の軍人の姿を彷彿とさせます。

 喚いたり叫んだり、相手を攻撃するしかできない反日の議員だけでなく、のらりくらりと対応し、本気で亡国の左翼に対峙しない与党の議員も同じ姿に見えます。彼らは自分たちの勝手な解釈を述べ、へ理屈で戦っています。

 軍刀や銃を持っていないだけで、やっていることは軍人たちの横車に似ています。

 末松氏たちとの違いは、ただ一つ愛国心だけです。

 氏には「愛国心」がありますが、現在の政治家には、野党はもちろんのことですが、保守自民党の議員にも「愛国心」が見えません。ただ一つとは言いながら、一番大切な魂を失った国になったのですから、敗戦後の日本の荒廃が私には身にしみます。

 傍に積み上げた未読の書の中に、中公新書の「二・二六事件」という本があります。気持が沈んだついでですから、明日はこの本を読んでみようと思います。

 もしかすると新しい事実を知り、末松氏への印象がガラリと変わるのかもしれません。時にはそんな期待や楽しみがないと、読書の喜びがないではありませんか。

 ということで、まとまりのない氏の著作の紹介を本日で終了します。

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『 私の昭和史 』 ( 末松平太氏 )

2017-08-26 01:45:15 | 徒然の記

 末松太平氏著『私の昭和史』( 昭和38年刊 みすず書房 ) を、読み終えました。

  まず、氏の略歴を紹介します。

  ・明治38年北九州市に生まれ、昭和10年小倉中学校卒業

  ・広島幼年学校を経て、昭和 2年に陸軍士官学校を卒業

  ・昭和10年に陸軍大尉となり、昭和11年の 2・26事件により起訴

  ・禁固4年の判決を受け、免官

  つい先日、5・15事件 ( 昭和7年 ) に関与した白石正義氏の著『私の昭和史』( 昭和63年刊 ) を読んだばかりで、偶然、昭和の大事件に関連する本を続けて読むことになりました。

 図書館でもらってきた本を、順不同で手にしているのですが、こんな偶然もあるのです。

 本の書名も『私の昭和史』と、そっくり同じなので間違えそうです。7月初旬に読んだ『岡田啓介回顧録』は、2・26事件で襲撃された元首相の談話でしたが、本書は襲った側の将校による回顧談です。

 2・26事件の首謀者の一人と言われながら、筆者はなぜ処刑されず、禁固四年の刑で済んだのか。事件を起こしたのが東京在の将兵たちで、氏は青森の五連隊の所属だったからという理由も分かりました。

 小さな活字で印刷された347ページの本は、読み終えるのに、10日かかりました。

 2・26事件について書かれているというより、軍隊内での交友関係、上官との関係、他県の師団との共同訓練など、筆者の軍隊生活が詳細に綴られた本です。

 北一輝の『日本改造法案大綱』が、どれほど士官たちの間で読まれていたのか、内容はどんなものか、大川周明内閣という言葉も出てきますが全て断片的叙述です。

 同じ陸軍士官学校に学び、同名の書を表しても、上田氏と末松氏は、語り口が異なります。明治38年生まれの末松氏と大正2年の上田氏で、ここまで違うのかと不思議な気がします。

 上田氏は5・15事件に連座して退学処分となり、満州に追放され、関東軍情報部、関東軍特務機関要員となります。氏は生涯を反ソ・反共産主義者として生きますが、末松氏は思想的には曖昧です。

 末松氏が軍人として部下を持ち、指揮し戦闘をし、大尉になっているのに対し、上田氏は満州へ追放後、軍の特務機関員となりますが、現場の軍人というより、身分を隠したスパイ活動がメインでした。

 上田氏が大東亜戦争での日本の立場や、スターリンの謀略、ゾルゲ事件で日本が被った実害など、明確に語っているのに比較しますと、末松氏は、日本を取り巻く国際情勢についてあまり口にしません。

 階級が下でも特務機関要員である上田氏の方が、世界情勢を把握できる立場なのかと、最初はそんな疑問を覚えました。しかし最後まで読み終えますと、末松氏の著作は挫折を知った軍人の回想録であり、諦観の叙述だと理解しました。

  ・ 『 私の昭和史』は笹舟のような私が、 「  2・26 事件異聞 」 という表題でたどたどしく自分の体験を綴ったものが、大部分である。

  ・私は、体験したことだけを書くように努めた。一木一草、風のそよぎ、空の色、花の色のうつろいにも、フィクションはないつもりである。

  ・何時とはなしに机辺にたまった資料のほかは、自分自身を資料にして記憶を頼りに書いた。

  ・体験を、もちろん端折ってはあるが、体験したまま書いたのであって、弁明の意図は初めからない。あったにしても、一片の笹舟の弁に過ぎない。

  現在の私たちが知る 2・26事件は、血気に早る青年将校の暴走として説明されています。しかし氏の本を読みますと、そうばかりでないことが分かります。

 昭和4年に発生した世界恐慌のため、日本では企業の大型倒産が続き、不景気が国民生活を直撃していました。疲弊した農民が生活苦に喘ぎ、娘を身売りするという新聞報道が数多く出ました。

 兵士の多くが農村出身でしたから、こうした状況を彼らは見過ごすことができませんでした。

  ・わが国は、天皇統帥の国体であるが、現在この国体は、私心我欲を恣にする者の手によって破壊され、そのため国民は苦しい生活を強いられている。

  ・その元凶である元老、重臣、軍閥、官僚、政党を除いて、維新を断行し国体を擁護する。

 こうした考え方が青年将校たちの間で、共通の怒りとして全国に広がっていきました。彼らはそれを「昭和維新」という言葉で語り、力ずくでも断行するという機運が盛り上がりました。

 運動のうねりは青年将校間だけでなく、佐官、将官クラスの上層部にも浸透し、同調者が現れるようになりました。

 末松氏には、「5・15事件」も「2・26事件」と同じ行動で、いずれも「昭和維新」のための行為であり、「世直し」の実践でした。

 だが「5・15事件」に比べますと、氏のかかわった「2・26事件」は、あまりに無残な結末を迎えました。

 「5・15事件」では、当時の政党政治の腐敗への反感から、犯人の将校への助命嘆願運動が広く湧き起こり、彼らへの刑は軽いものとなりました。どれほど大きな違いだったか。二つの事件を比較してみますと、末松氏の諦観が理解できます。

 〈  「5・15事件」 〉

  ・昭和 7年   海軍の将校を中心に、民間人も含め26名が参加。

  ・犬養首相を殺害した将校を含め、全員が10年から16年の禁固刑

  〈 「2・26事件」 〉

  ・昭和11年  陸軍の将校を中心に、兵士、民間人を含め 1,483名が参加。

  ・死刑 16名    自決 2名  1年から6年の禁固刑 17名 兵士は無罪

 ネットで調べますと、末松氏の名前が禁固刑17名の中にありました。司令官の承認を得て参加した将校もいましたし、「天皇親政」により政治の腐敗を改革すると、一途に信じた者もいました。

  それなのに二つの事件に対する裁判の結果は、手のひらを返したような違いが現れました。

 義挙と信じ、上官からもそう暗示され、死を決意して実行した者たちが、「逆賊」と言われ、「反乱軍」として処罰を受けました。状況を知らない私は、暴走した青年将校が厳罰に処せられたのは無理もないと考えてきました。政府の要人を殺害しているのですから、弁明の余地もないと思っていました。

 しかし氏の書を丹念に読みますと、当時の陸軍には、若い彼らが「昭和維新」や「世直し」を信じるだけの風潮がありました。将軍や旅団長、司令官、連隊長といった上官たちが、彼らの活動を支え奨励していました。

 ・2・26事件を赤と思い込ませ、一挙に不人気にして葬り去ろうとした浅知恵に対しては、今も心が平かでない。

 ・「兵に告ぐ 」の起案者の氏名が今もはっきりしており、NHKに残る録音盤が、折に触れ再三再四放送されている。

 末松氏が無念そうに語ります。

 「兵に告ぐ」の放送は、赤の上官に騙されただけなのだから、一般の兵に罪はない。原隊に戻れば、不問にすると、確かそういう内容だった気がします。

 末松氏は、自分たち将校の行動が赤いソ連による扇動だと、軍と政府が 作り変えようとしている現実を理解していました。陛下が「凶暴な将校を、許さない」と語られたことが、最後のダメ押しとなっています。

 全て覚悟の上でやったことで、今更とやかく言うくらいなら、初めからこんな道に踏み込まないと、氏は語ります。所属する部隊の兵を愛し、上官を敬愛する軍人ですから、氏は一度心に決めたら、責任を個人のものとします。

 語らないことで、他人に嫌疑や罪が及ぶことを避けているようです。

 明日はもう少し本の感想を述べたいと思いますので、今夜はここで止めましょう。時計の針が一時を過ぎましたが、氏の諦観を重さを知ると睡眠が醒めます。

 氏も武士道精神を持つ日本人の一人だったという、その発見が唯一の救いでした。

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