ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

文明の衝突 - 15 ( キーティング首相の大胆な決断 )

2019-10-24 20:18:57 | 徒然の記
 本日は228ページ、オーストラリアの話の続きです。
 
 「オーストラリアは、20世紀を通じて、まずイギリスと、続いてアメリカと固く同盟し、冷戦時代は、西欧の一員だっただけでなく、西側の軍事及び諜報の、中心的存在だった。」
 
 「だが1990 ( 平成 2 ) 年代に、オーストラリアの政治指導者が決定したのは、西欧から離脱し、アジア社会の一員として自国を見直し、近隣諸国との、密接な関係を発展させることだった。」
 
 「キーティング首相は、オーストラリアは、〈 帝国の出先機関 〉であることをやめ、 〈 アジアに組み込まれる 〉 ことを目的とすべきだと、明言した。」「彼の説明によれば、オーストラリアは、数えられないほどの長い年月、イギリス崇拝と、麻痺状態を病んでおり、イギリスとの連合を続ければ、国の文化と経済の将来はなくなり、アジアと太平洋における、われわれの運命は衰退するだろう、と言うのである。」
 
 キーティング首相が、こんなことを言っていたとは知りませんでした。背景にあるのは、アジア諸国のダイナミックな経済発展で、根拠となる数字を、ハンチントン氏が上げています。
 
 1994 ( 平成 6 ) 年     輸出 ・・ 東アジアと東南アジア向け 62%   (  EU向け    11.8%    米国向け 10.1% )
 
                                 輸入 ・・ 東アジアと東南アジアより 41%
     
 金の切れ目が縁の切れ目と言いますが、キーティング氏が実行したのは、まさにそれだったようです。氏は中国の巨大市場に目を向け、日本に対してはむしろ、冷淡だった印象がありました。 ハンチントン氏の説明には、キーティング氏に対する、よそよそしさが感じられます。
 
 「こうした経済関係にもかかわらず、オーストラリアとアジアの協力体制と言う構想は、これを成功させるのに必要な条件を、一つも満たさないように、思われる。」「第一に、オーストラリアのエリート層は、この道を選ぶことに強い熱意など、全く示さなかった。」「自由党は、曖昧な態度で、反対し、労働党政権も、様々な知識人やジャーナリストからかなりの批判を受けた。」
 
 英連邦から離脱するとなれば、君主制に賛成していては出来ませんので、何度か世論調査が行われたようです。君主制廃止に同意する国民の声は、21%から46%まで上昇した後、ダウンしました。しかしオーストラリアの国旗から、イギリス国旗を消すことについて世論は曖昧で、明確な合意が形成されませんでした。エリート層もまた、アジアという選択について、合意しませんでした。
 
 「これが最も重要なのだが、アジア諸国のエリートは、オーストラリアの進出を受け入れる意思があまりなく、ヨーロッパのエリートが、トルコの受け入れを拒んでいる状況より、さらに消極的だ。」   
 
 国民の多数の意思が曖昧なのに、こんな大胆な政策変更をする労働党とは、どんな政党なのかと、疑問が生じてきました。ここでまた、氏の著書を離れ、別の情報を探しました。道草ばかりしますが、オーストラリアを理解するには、氏が省略しているこの国の実情を知る必要があります。スペースの都合で、本日はここで一区切りとし、次回は労働党政権について報告します。
 
 オーストラリアのことはもういいと思われる方は、スルーしてください。日本を知るために、必要な知識だと考える方は、明日も「ねこ庭」へ足をお運びください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文明の衝突 - 14 ( オーストラリアの内情 )

2019-10-24 00:53:49 | 徒然の記
 今回は、オーストラリアです。国の名前を聞いて、頭に浮かぶのは、カンガルーとコアラと羊です。次いで思い出すのが、白豪主義という言葉です。
 
 南ア連邦と同じく白人優先の国で、有色人種を差別していたと、そんな記憶があります。ところが、ハンチントン氏は、こうした一切を語らず、いきなり次のような説明をします。
 
 3.  オーストラリア
  「ロシアやトルコや、メキシコとは対照的に、」「オーストラリアは、初めから西欧社会の一員である。」
 
 いくら私が無知でも、オーストラリアを語る時こんな説明からは始めません。欧米人たちが来る以前に、アポリジニと呼ばれる先住民がいたことを知っています。メキシコのインディゴのように、文明を持っていたかどうかは知りませんが、オーストラリアには彼らが先に住んでいました。
 
 こう言うところを見ると、氏も有色人種を軽視する白人の一人かと思わされます。別途に調べ、次のような説明を見つけました。
 
    ・1606年、大陸に最初に来た白人は、オランダ人のヴィレム・ヤンツだった。
   赤道付近の北部地域に上陸し、その周辺を探索し、植民地には向かないと判断したため、オランダ人は入植しなかった。
 
  ・1770年、スコットランド人のジェームズ・クックが、シドニーのボタニー湾に上陸した。
  彼は領有を宣言し、入植が始まり、東海岸をニュー・サウス・ウェールズと名付けた。
 
  ・ 1788年から、流罪植民地として、イギリス人の移民が始まった。
  初期移民団1030人のうち、736人が囚人で、その他は、ほとんどが貧困層の人間であった。また、当時は軽犯罪でも当地に流刑されたという。
 
  ・ 1791年の第2回囚人護送は、1017人だった。
  植民地での食糧難が加速したため、政府は自由移民を募り、農地を拡大させた。
 
  ・1828年、全土がイギリスの植民地となり、開拓が進んだ。
         彼らは内陸を探検し、農牧地を開拓した。その段階で、先住民のアボリジニから、土地を取り上げて放逐し、殺害した。
 
  ・1830年までに、タスマニア先住民は、絶滅させられた(ブラック・ウォー)。
 
  ・1850年代に、ゴールドラッシュが発生し、これを機に中国系の金鉱移民への排斥運動が起こり、後の白豪主義につながった。
 
 スペイン人がインディゴを虐殺し、メキシコを植民地にしたように、オーストラリアではイギリス人が、アポリジニを殺し植民地にしています。このような歴史を、どうして氏は省略したのでしょう。スペイン人の所業はく説明しても、同盟国イギリスのことは言わないでおこうと、身びいきをしたのでしょうか。不思議な話です。
 
 不思議といえば、もう一つあります。日弁連は、朝日新聞と吉田清治の捏造であるにもかかわらず、韓国人慰安婦の人権回復のため、国連まで押しかけ、日本を攻撃・非難しています。嘘の話でもここまでやる彼らは、イギリスに殺戮されたアポリジニについて、どうして国連で騒がないのでしょう。こちらは紛れもなく、本当の話ですから、誰も反対できませんのに。
 
 自分の国の悪口だけを、世界で言いふらす日弁連の不思議さを、図らずも氏の著作が教えてくれました。
 
 話が、だいぶ横道にそれましたので、元の場所へ戻ります。国論の引き裂かれた、オーストラリアに関する説明でした。残念ながら、今回は、本題に入る前にスペースがなくなってしまいました。
 
 大事な話なので、きちんと紹介しなくては、先住民であるアポリジニの人々が可哀想です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする