本は、Aさんと呼ばれる若い教育ママとの対談、という形式で書かれています。
Aさんは自分の子供が、どうしたら落ちこぼれないで済むのか。他人に負けないようにさせるため、数学や英語の塾に通わせ、必要ならピアノも習わせたいと考えています。
いい成績で、いい中学・高校へ行き、有名大学へ合格し、いい会社へ入らせたいと、そればかりを考えている母親です。肝心の子供はといいますと、まだお腹の中にいて、産まれていません。そんな極端な設定の上で、学校教育論が展開されます。
氏は本の最後の後書きで、次のように述べています。223ページです。
「僕は、極端が嫌いな人間である。」「極端は、画一化に世の中を押しやるからである。」「僕は二つの極端の間に立って、際どく均衡を保ちながら、」「多様な中間の可能性を、追い求めたい。」
「教育の分野でもそうである。」「教えることと、学ぶことという、二つの行為の中間を求めたい。」「自分のために学ぶことと、社会のために学ぶことの調和を探したい。」「秩序と自由の、難しい均衡を支えたい。」
「僕はそういう気持ちで、これまで悩んでいる母親と話し合った。」「そしてこれらの母親を、Aさんという人物に、」「代表させることにした。」「この人物との対話が、教育熱心な母親たちの、」「頭を冷やすために役立つならば、幸いだと思う。」
極端の嫌いな氏が、極端な若い母親像を設定し教育を語るのですから、最初から不自然な問答になります。氏の教育論の基本は、教える側である教師と、学ぶ側の生徒との「調和」にあります。私なりの理解で言いますと、キーになる言葉は、「生徒の自立」、「生徒の自主性」、「教師による押しつけ」です。
本の中には、日本の歴史、国際社会、右や左という視点がほとんどありません。どこから読んでも、相互関係が希薄なので、気になる部分だけを取り出し、紹介しようと思います。51ページ、「学校は、本質的に矛盾をはらむ」の章です。
「小学校卒業生とは、小学校のプログラムを、ともかくも終えたという人のことだ。」「国としては、そうした共通の知識を身につけた人間から、」「国民が構成されているという、建前をとりたいわけだ。」「言い換えれば、小卒の人間が一人不足したら、」「別の小卒を一人持ってきて、その穴を埋めればいいわけですね。」「国民の部品化ですね。」
私も時折、自分を社会の歯車の一つと、そんな風に考えることがあります。大きい歯車や小さな歯車、光っている歯車や汚れている歯車など、それが互いに絡み合い、一つの機械を動かしている。それぞれの歯車の、どの一つがなくなっても機械全体が動かなくなる。だから私の考えは、氏の言う部品とは少しばかり異なります。
どの人間も、置かれた場所で役目を果たしている。感謝というのか、使命感というのか、そんな考えなので、部品とは考えたことがありません。
「大卒者は、別の大卒者で埋める。」「中高大の制度は、進学競争があろうがなかろうが、」「国民の部品化なんです。」「部品に個性がある方が理想ですか。」「それとも、個性のない方が理想ですか。」
聞かれたAさんは、当然部品には、個性が必要でないと答えます。
「学校では、自分の求めているものを、国家が与えてくれるのだと言う幻想を、」「僕たちは持っています。」「それは部分的には正しいけれど、もう一つの大きな部分、」「僕たち一人一人を部品化する部分を、見ていないんですよ。」
このような意見は、なだ いなだ氏個人の、ペンネーム "nada y nada"(何もなくて、何もない ) 同様、わざわざ若い母親に説明するものなのでしょうか。
「間違わないでくださいよ。」「僕は、教育を否定しているわけではない。」「制度としての学校を、否定しているだけなのです。」「だから僕たちは、学校は本質的に悪だと、知りつつ、」「子供を、学校に生かせるしかないでしょう。」
この章のまとめの言葉です。
村にも町にも学校がないため、字の読めない子供たちが沢山いる国があります。政府の役人たちは、なんとかして学校を作り、子供の教育をしたいと頑張っています。
教育が国の未来を作ると、彼らが知っているからです。江戸時代の寺子屋だけでなく、明治以降の義務教育制度も、政治家や有識者たちの尽力で作られました。そうした経緯を無視して、「学校は人間を部品化する」とは、極端な定義ではありませんか。
僕は極端が嫌いな人間ですと言いながら、氏の意見は、すべてこのような極端な意見です。一面の事実は語っていますが、役に立つ教育論は最後までありません。
「最後まで愚論ばかりだなんて、そんなはずはないでしょう。」「有名な、なだ氏の著作なら、立派な意見もあるでしょう。」
そんなことを考えておられる人もいるでしょうから、もう少し、頑張ります。