ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

教育問答 - 3 ( 「後づけの理屈」 )

2020-11-11 06:41:07 | 徒然の記

 なだ氏の愚論の紹介を続けます。

 「ついこの間、今の大学生は、将来企業に就職しても、」「四分の三は、一生課長にもなれないと、」「そんな調査が、新聞に出ていましたが、気がつかれましたか。」

 転記する時間がもったいないので、返事をしているAさんの言葉は、省略します。

 「ね、こんなことはわざわざ調査をしてみるまでもないことです。」「こんな下らん研究をして、学者気取りの人が、今の教育で増えたんだな。」

 私にから見れば氏もその一人です。学者気取りで、愚論展開をする愚者・・。

 「大学卒の人間が少なかった頃は、卒業さえすれば、高い地位につけた。」「大学生の数が多くなれば、そうはいかない。」「そんなことは、誰だって分かっていることでしょう。」

 「大学を出さえすれば、将来の地位が約束されるとは、」「これからの時代では、なくなるのです。」「なんと言うことはない、ネズミ講と同じようなものですよ。」「はじめに入った人は、確実に儲かる。」「後から入る人は、よほどのあほうだ。」

 あほう談義が、3ページ続きます。間を飛ばして先を読んでも、まだ阿呆談義です。

 「となったら、自分はなんのために大学を出たのかと、」「思う者が多くなる。」「今教育のことが、様々な形で論じられているのは、」「こう言う形での、教育戦争の終わりが近いことを、」「人々が感じ取っているからだと、思うんです。」

 若い教育ママが、こんな話で、頭を冷やせるものなのでしょうか。私が疑問を抱いても、氏はお構いなしです。

 「教育が、出世の手段というものから離れて、」「見直されることになるでしょう。」「十年前、学園紛争の時、学生たちが、」「力ずくで崩そうと思っても、崩し得なかった学歴管理社会が、」「内部の矛盾から、10年もすれば、自然に崩れていくんです。」「皮肉なもんですね。」

 私は学生時代に、激しい学園紛争の中にいましたが、彼らの主張は、違っていました。出世主義の否定ではありませんでした。

 「学費値上げ反対 ! 」「日韓交渉 断固粉砕 ! 」「米帝国主義を許すな」「学園の自治を守れ」・・・立て看板が並び、学生たちが構内でジグザグデモをし、体育館では、大学の総長を吊し上げていました。鷲野氏は、「荒れる小学校」を語ってくれましたが、私が経験したのはそっちの方でした。

 なだ氏は、学生運動に理解を示していますが、私は批判的に見ていました。教育ママに頭を冷やさせるより前に、氏の方が、頭を冷やすべきではないのでしょうか。57ページでは、別のことを喋っています。

 「僕は、30数年前の戦争のことを考えた。」「あの時代に、戦争は無益だと人に説いても、」「何人が、戦争をやめる気になっただろう。」「途中で何人かが、この戦争は勝ち目がなさそうだと、気がついていたはずだ。」

 「だが、戦争は止まらなかった。」「今の教育戦争は、全くそれと同じだ。」「戦争の無意味さを知ったのは、結局、戦争に負けて、」「平和が戻った時だった。」「となるとこの教育戦争も、その無意味さを知るのは、」「戦争が終わった、後からなのであろうか。」

 氏のような思考を、私は「後づけの理屈」と呼びます。氏は、日清・日露戦争について、どんな理解をしているのでしょう。

 国内では、勝利の戦争ということになっていますが、実際は、薄氷を踏む戦いで、指導者だったご先祖たちは、一か八かの覚悟していました。ロシアも中国も、当時の日本にとって大国でしたから、どこで戦争をやめるかにつき、常に腐心していました。

 勝敗について語るのなら、第二次世界大戦だけだなく、日清・日露の戦争も、勝ち目のない戦争だったことを、語らなくてなりません。勝った戦争には何も言わず、負けた戦争だけ批判するのなら、馬鹿にでもできます。

 「ともかくも世の親が、教育を受けさせれば、」「子供たちは、社会の下積みから脱出できると、」「そう考えたから、大学生が増えたのです。」

 「それまでは、金持ちの子供か、上層部の子供が、世襲的に社会の良い地位を独占していた。」「下層はいつまでも下層のまま、いくら足掻いてもダメだった。」「いかに愚かな子でも、封建時代は、大名の子は大名、」「足軽の子は足軽だった。」

 「それをひっくり返すには、革命しかない。」「そう思っていたところに、学校という制度ができた。」「教育は、努力した者が報われ、怠けた者は報われません。」「それがその通りなら、革命という血みどろなものも、不要だ。」「革命より、この方がずっといい。」

 氏の話は、いつしか革命論に入っていき、革命と言う言葉が、なんでも解決する「呪文」のように、使われています。氏は私より15才年上の、昭和4年生まれですが、この本は平成9年の出版で、既にソ連が平成3年に崩壊しています。

 凡庸な私でも、ベルリンの壁が崩壊した時、あるいは、毛沢東の文化大革命の中国を見た時、社会主義思想の限界に気づきました。

 この思想は、人類のユートピアでなく、国民弾圧の全体主義の国しか作れないと、理解しました。出版時の氏は62才ですから、分別の盛りです、社会主義思想を土台に、日本の教育問題を語る無分別さに、思いをいたさなかったのでしょうか。

 結論として氏が述べているのは、東大、京大など、国の税金で賄われる学費の安い国立大学には、高級官僚や裕福な家庭の子供がほとんどを占め、貧乏人の子は、高い学費を払う私立の学校にしか行けないと言う説明です。

 「極端な言い方かもしれないが、教育という、誰も反対できない平和な場で、」「貧しい者が搾取され、富める者が、さらに富むと言う現象が起こっているんです。」「これが現状なんですよ。」

 「つまり、頭の良い者が、ばかを支配するのは、仕方のないことだ、」「諦めろと、いうことですか。」

 最後にだけ、A子さんの言葉を紹介しますが、これがくくりの叙述です。

 決して間違いでなく、一つの事実ですが、日本の教育論を語るには十分ではありません。この程度の話なら、中公新書でなく、三流週刊誌のゴシップ記事でしょうか。現在68ページですが、ここで書評を終わります。 

 1. 62才の時の著作であるが、少しボケが始まっていたのか。

 2. 有名だったため、「愚論」を周囲におだてられ、自惚れてしまったのか。

 3. 得意になりすぎ、読者を低く評価し、正しい判断力を失ったのか。

 4. ブログ主である私の、偏見が強すぎるのか。

  第一回目で質問を投げかけましたが、読まれた方が自由に判断してください。

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする