大村氏は、全編を通じて、「教師に求めること」を述べています。大抵は、「単元授業」の進め方に関する、細かな注文ですが、22ページには、基本的な事項が述べられています。
氏の思考の一端を知る意見として、紹介します。
「大人として、子供を可愛いと思うのは、ごく当たり前のこと。」「それから、どんな仕事をするにも、熱意は必要です。」「ですから、愛情とか熱意とかは、ごく当たり前のこと。」「いい人であるということも、当たりの前のこと。」「別に、教師という専門職の、資格とは言えないでしょう。」
「教師はやはり、学力をつける人、」「学力を養う技術を、持った人です。」「いい人だけでは、職業として成り立ちません。」「学校は、学力を養う専門の場所であり、」「教師はそこを職場とする、専門職であることを忘れないで、」「責任を、しっかり負っていただきたいと思います。」
「良い人間を育てることは、家・学校・社会全体の仕事ですが、」「学力を養うことは、学校がその場です。」「その覚悟と、責任感を持っていたいと思います。」
氏の著書を読んで、何となく分かることは、「単元学習の目的」でした。
1. 正しく本を読むこと
2. 正しく文章を書くこと
3. 他人と、正しく会話をすること
まだあるのでしょうが、私に読み取れたのはこの3つでした。問題は各目的の中にある、「正しく」という言葉の中身です。「正義」という言葉が、人間のよって立つ場所で異なるのと同様、「正しい」の意味も、人により異なります。
簡単な例で言いますと、反日・左翼の人間にとって「正しい」意見は、中道・保守の人間には、往々にして「間違い」になります。こういう極端な例を言わなくても、気象の激しい人と、穏やかな人と、物に拘らない大雑把な人には、同じものが違って受け止められます。
街中で騒いでいる子供たちを見た時の、反応を考えてみましょう。
1. 気性の激しい人
街中で騒ぐのは、うるさい。人の迷惑になるから、正しい行為ではない。
2. 穏やかな人
子供はみんな、騒々しいものだ。自分も子供の時はああだった。
3. ものに拘らない、大雑把な人
騒いでも、大人しくても、どっちだっていい。好きにさせとけばいい。
これは単なる例で、考えれば、もっとい色々な意見が出るはずです。氏は自分の「単元学習」という視点から、「正しい」か「正しくない」かの判断をしています。氏のやり方をしない教師は、レベルの低い、専門意識のない人間として批評し、私には違和感があります。69ページにある、「話し合うこころ」という章から、一部分を紹介します。
「教師は非常に気軽に、話し合ってごらんと言いますが、」「それでは、困るのではないか。」「話し合うということが、研究とか、学習とか、」「そういうことに使えるように、なっていないのではないかと、」「そう思うのです。」
「本当に、いま話し合わなければいけないことを、」「心から、話し合う。」「みんなが、真実の言葉で話せるとか、」「他人の真実を導き出せるような、発言ができるとか、」「一人では、考えても行き着けなかったところへ、」「 2人だったら、3人だったら、15人だったら、」「思いがけない、一つの思想が生産されてくる。」「新しい世界が開てくる。」
「そういう優れた話し合いが、なかなかできていないのではないでしょうか。」
なるほどそういう考え方もあるのかと、うなづきますが、賛成はしません。真実と言う言葉にしましても、千差万別です。中学生の授業、それも限られた国語の時間に、なぜそこまで求めるのだろうと、逆に疑問を抱きます。
「私は話し合いということが、ただ誰かと話していればいい、」「意見交換などということでなくて、」「一人で考えていては、開けてこない世界、」「話あってこそといった成果、それが産めるようになっていないと、」「それは民主的な国家の基盤を、崩すようなもの、という気がします。」
例えば、親しい友人の家に遊びに行き、つい話が弾み、一晩中話し込んでしまった時には、真剣な会話の中に新しい発見をし、お互いが充実感を覚えるという経験があります。何度も言いますが、中学生の国語の時間は、せいぜい1時間です。その短い時間で、氏のような会話が生まれるのでしょうか。
何日もかけてやるのだというのなら、中断された細切れの会話から、そういう高度な会話が完成するのでしょうか。いずれも、私の経験からは理解できない、氏の説明です。
「それは民主的な国家の基盤を、崩すようなもの、という気がします。」・・この言葉の向こうに、私はむしろGHQの黒い影を感じます。GHQは、日本を良い国にするため占領していたのではありません。日本の文化や伝統を破壊し、歴史も否定するために、統治していました。その彼らが、学校教育についても、基本方針を変えるはずがないと、私は考えます。
GHQが「民主的」という時、その反対側にあるのは、「封建的」という言葉です。彼らは日本に昔からあるものを、何にでも「封建的」と言うレッテルを貼り、容赦なく破壊しました。GHQに気に入られた氏が、ここで使っている「民主的な国家」というのは、おそらく「アメリカナイズされた日本」では、ないのでしょうか。
私はきっと、自分で思っている以上に、心の曲がった人間なのかもしれず、どうしても氏の本が、そのまま受け止められません。氏の本の片隅に、時々そんな意見を見つけると、不愉快になりました。気をつけなければ、見過ごすくらいの意見なのですが、今の私は看過できなくなっています。氏のファンの方が、今も全国におられるのでしょうから、狭い心の人間と、私を笑われることでしょう。
それも気にしないことにし、明日は、氏の間違った意見を紹介しようと思います。楽しい作業ではありませんが、間違った意見を放置しないというのは、息子たちのため大事なことです。