スクールバスの話の続きです。
「ジャカルタ市内では、交通ルールはあっても無きがごとしで、」「かつ大渋滞に遭遇するため、思わぬ出来事が起きる可能性が高い。」「交通事故はもちろんのこと、バスへの投石のような事件発生への予測も、しておかねばならない。」
「人身事故となると、事故を起こした運転手が、」「その場で周囲の人々から、制裁を加えられることさえあるとも聞く。」「ある新聞報道では、ジャカルタ郊外で事故を起こした運転手が、」「報復を恐れて、付近の山に逃げ込んだと伝えている。」
日本でこのようなことは考えられませんが、違う国では、違う価値観の人々が生活していますから、郷に入っては郷に従えで、自衛するしかありません。
「スクールバスで、運転手が逃げてしまえば、」「バスに残された子供と先生が、緊急状況に置かれるのは必至であろう。」「スクールバスには、無線機が搭載されているから、」「これを使って通報するのだが、使用方法を熟知しているのは、」「運転手のみであるから、本人が逃走したら、」「これが機能しなくなる。」
どうして交通事故が、このような危機につながるのか、それは現地の人々と、在留外国人の生活レベルの差にあるのだと、本を読んでいると分かります。はっきり書かれていませんが、日本人だけのことでなく、アメリカ、イギリスなど、現地に進出している外国人は、皆同じです。
スクールバスを利用している生徒や先生には、普通の生活ですが、現地の人々からすると、とてつもなく裕福で、恵まれた暮らしをしていると見えます。それはおそらく、敗戦後の貧しかった私たちの目に、キャラメルやチョコレートをくれた、アメリカ軍の兵士たちが、羨ましかったのと同じ状況だと思います。
国の風土が違えば、羨ましいだけでなく、反感や憎しみが生まれることもあり、何かのきっかけで激しい報復になります。隣の韓国や中国が、いつまでも日本を批判し、憎んでいることを考えれば、推測できないことではありません。ジャカルタの場合も、似たような土壌があるのかも知れません。
「では、公衆電話ということになるが、これがまったく頼りにならない。」「設置場所が極めて少なく、たまにあっても故障が多い。」「ホテルやオフィスに飛び込み、利用させてもらう手もあるが、」「ジャカルタ市内の電話事情は、昼間はとてもかかりにくく、」「緊急事態を知らせる手段には、不都合なのである。」
本が出版された平成7年に、日本はどういう状況であったのか。以前のブログで調べていましたから、転記します。
平成7年の内閣総理大臣は、日本社会党の村山富市氏でしたが、氏は平成7年の1月に、突然辞任を表明し、橋本内閣が発足しています。「10大ニュース」の項目を見ますと、次のような出来事がありました。
- 1位・阪神大震災
- 2位・オウム真理教による地下鉄サリン事件
- 3位・不良債権で住専やコスモ、木津、兵銀など金融機関の破綻相次ぐ
- 4位・大和銀が巨額損失、米当局の追放措置で住友銀との合併浮上
バブル経済崩壊後で、景気が低迷し、細川、羽田、村山と、短命内閣が続く、暗い世相でした。地下鉄サリン事件を起こした、オーム教団の幹部が次々と逮捕され、刺殺された幹部もいました。
騒々しく不穏な世であっても、文部科学省は、教育の国際化を考えていたと言うのが、先日読んだ菱村幸彦氏の『学校は変われるか』( 平成8年刊 (株)教育開発研究所 ) から、分かっています。
「国際化の中心が、人の交流だとすれば、国際化への対応は、」「結局、外国の人々と、どううまくつき合って行くか、」「ということになる。」「気質や習慣や、文化などの異なる、」「多様なもの、異質なものを、どう違和感なしに受け入れて行くか、」「ということである。」・・文部官僚の菱村氏の意見でした。
後ほど述べますが、文科省から派遣された著者の石井校長は、「ジャカルタ日本人学校」の国際化への対応について、真剣に考えています。また平成7年は、日教組が長年の対立をやめ、文部省との協調路線を取ったという年でもありました。
これを頭の隅におきながら、スクールバスの話を続けます。
「そうなると、確実な緊急連絡方法は、人間が直接行うことになる。」「バスを追随する車 ( イクイット車 ) を出し、緊急連絡の手段としている。」「イクイット車は、現地スタッフに走行させ、」「連絡と救助任務を与えてある。」
今回はスクールバスのことだけを、伝えましたが、現地での苦労はまだあります。174ページで、氏が次のように述べています。
「『いつ何が起きても不思議ではない』とは、ここでの生活体験から判断した、」「危機管理の、合言葉である。」「聞き様によっては、現地国を非難する言葉であるが、」「そのようなつもりはなく、海外に住む者の、」「危機意識を喚起しようと、するものである。」「このような心がけを持って生活することが、自身の安全確保とともに、」「現地国に迷惑をかけない行動にも、つながるということである。」
私は氏の言葉を、観光立国とやらで政府が音頭を取り、浮かれている現在、重いものとして受け止めています。「世界は一つ、人間は皆同じ。」「真心と誠意は、万国共通の言葉です。」と、こういう意見も大切ですが、「世界は一つでなく、人間は皆違っている。」「日本人の真心と誠意が、誰にでも通じないことがある。」と、厳しい現実も忘れてはなりません。
25年前の本ですから、こういう体験をした「ジャカルタの日本人学校」の子供たちも、今では大人になり、日本で活躍しているはずです。同じ「おもてなし」をしても、他国の現実を知った上での「おもてなし」は、警戒心もなく外国人を歓迎する、「お花畑の住民」とは、いざという時の覚悟が違うと、そんな気がしてなりません。
私の知らない間に、新しい日本人が育ち、新しい日本が生まれつつあるのでしょうか。次回は、石井校長が苦心した「ジャカルタ日本人学校」の、国際化対応について報告致します。