〈 第二十三闋 烏帽子 ( ゑぼし ) 平清盛が最も恐れた嫡男・重盛 〉
いよいよ今回は、平重盛に関する氏の解説を紹介します。私の重盛像をひっくり返した解説です。
「この清盛も頭の上がらない、あるいは遠慮せざるを得ない人間が一人いた。これが長男の重盛である。重盛は長男であるが、他の兄弟たちとは母が違う。」
詳しい説明がなく、先妻の子とだけ書かれていますので、清盛にも時子の前に妻がいたことが分かります。都合が悪いのか、大きな問題でないのか、氏は話を進めます。
「平家は源氏と同様、武家である。平氏が台頭してきたのも、貞盛以来の武功の家としてであり、清盛の父の忠盛が白川帝に気に入られて、長安元 ( 1132 )年に平家として初めて内昇殿を許されたのも、卓抜な武功の故である。」
「ちなみに昇殿を許された最初の例は承徳二 ( 1098 ) 年の源義家であるが、これも武功によるものであった。武家に武功のない者は、鷹に爪がないようなもの、喧嘩に弱いヤクザみたいなものと言って良いであろう。」
武家をヤクザ者と並べるとは酷い話ですが、読者が面白がると思っているのでしょうか。分かりやすくするため俗な言葉を使いすぎると、氏の品位を落とすのでないかとそっちの方が心配です。
「ところが重盛は保元・平治の乱において、平家を代表する第一等の武人であった。『保元物語』のヒーローは源氏の為朝であり、『平治物語』のヒーローは源氏の義平である。」
「この源氏の二人に武士として対抗した平家のヒーローは、平重盛あるのみと言ってもよいであろう。特に平治の乱は、重盛の武人としての決断と勇戦によってのみ、平家が勝者となったのである。平家の武士たちの尊敬は、重盛に集まった。」
優柔不断な重盛像が吹き飛んでしまい、氏の解説に心を奪われました。
「保元の乱における源為朝の弓は、伝説的である。先頭になって攻めてきた平家の武士に射たところ、為朝の矢は伊藤忠清の胸を貫き、その後ろにいた伊藤忠直の鎧にも刺さった。一本の矢で平家の武将が二人も殺されたため、平家の軍勢はすくみあがった。」
「清盛は為朝の守る門を攻めることを断念し、引き上げることにした。ところが重盛一人は、〈 勅を奉じて軍を出したのだから、敵の強弱など問題ではない。 〉と言って突進して行った。驚いた清盛が家来たちに命じ、重盛を抱え込んでやめさせた。鎮西八郎為朝の弓も恐れなかった平家の嫡男というイメージが、武士たちの頭に焼き付けられた。」
これは保元の乱の時の話ですが、次は平治の乱の時の重盛の活躍ぶりで説得力があります。
「平治の乱は、清盛たちが熊野参拝に向かった時に起こった。藤原頼信と源義朝が、平家の留守を狙ったのである。清盛は進むことも退くこともできず、どうしたら良いのか決断できなかった。」
「その時重盛が、〈 武士が天子の危機を救うのに、猶予はありません。 すぐ京都に向かいましょう。〉と言うと、みんなこれに従った。と言っても、百騎ばかりである。そこに源義平、義朝の長男で悪源太と異名をとった豪勇の士が、三千の兵を率いて安部野で待ち構えていると言う情報が入った。」
清盛は衆寡敵せずと恐れ、いったん四国へ退き、そこで兵を集めて京都へ攻め上ろうとしました。ところが重盛が、反対したと言います。この時の重盛の意見が、戦いの勝敗を決することとなりますが、スペースがなくなりましたので、彼の言葉の紹介も次回といたします。
これではさすが清盛も、彼に頭が上がらなくなるはずです。