〈 第二十三闋 烏帽子 ( ゑぼし ) 平清盛が最も恐れた嫡男・重盛 〉
「 重盛は、平家第一の武人だった 」の続きです。清盛が熊野参詣に向かっている途中で平治の乱が起こり、このとき清盛が率いていた兵は百騎余りでした。安倍野で平家の豪勇が三千の兵を従え待っていると聞き、清盛はいったん四国へ退き、兵を整えて京都へ攻めようと考えます。ところが重盛が反対します。
「ぐずぐずしておれば、敵は必ず平氏討伐の詔勅が下ったと称し、平氏は朝敵となるでしょう。そのときになって後悔しても遅すぎます。小勢で大軍を攻撃するのは、武家にはよくあることです。今すぐ突進して戦死するとも、武名は後世に残るでしょうから、それでよいではありませんか。」
重盛の意見を読んだとき、私は反日左翼政治家と学者たちの言葉を思い出しました。
「負けると分かっている戦争をやめず、多くの兵を無駄死にさせた軍の責任者の罪は重い。戦争責任を厳しく問うべきだ。」
現在の日本では平和論者、人道主義者である彼らの意見が主流を占め、軍人は皆無謀な戦争をしたがる軍国主義者として蔑視されます。死をものともしない重盛の意見は、彼らに言わせれば軍国主義者の言葉です。負けると分かっている戦争でも、守るべきものがある時には、死んでも戦わなければならないと重盛が教えます。
無分別、短慮、暴挙と批判されますが、重盛の言葉が果たして短慮なのでしょうか。「今すぐ突進して戦死するとも、武名は後世に残るでしょうから、それでよいではありませんか。」・・・この言葉は、後の世の武士に残す覚悟です。重盛たちの死は無駄死にではなく、後世の武士たちの手本となり礎 ( いしずえ ) となり生き続けます。
大西瀧治郎中将は、大東亜戦争の末期「特攻隊」を創設した軍人として知られています。特攻隊を編制した直後、40名の隊員を前に、涙ながらに語った言葉をユーチューブで知りました。重盛の言葉と通じるものがありますので、省略せずに紹介します。
「特攻は統率の外道である。もう、戦争は続けるべきではない。ただこのまま、アメリカを本土に迎えた場合、歴史にみるインディアン、ハワイ民族のように、闘魂ある者は次々に各個撃破され、日本民族の再興の機会は永久に失われるであろう。」
「しかし特攻により、敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができる。そのために特攻を行ってでも、フィリピンを最後の戦場にしなければならない。だがこれは、九分九厘成功の見込みなど無い。では何故、見込みの無いこのような強行、愚行をするのか。」
「ここに信じてよいことがある。いかなる講和になろうとも、日本民族が、まさに滅びんとする時にあたって、身をもって防いだ若者たちがいたという歴史が残る限り、500年1000年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう。」
平成25年、10年前の「ねこ庭」でこれを紹介いたしました。敗戦の決定した翌日に、中将が割腹自決をしたことは知っていましたが、このような訓示を述べていたのは知りませんでした。
それまで私は、戦前の軍人の多くは常に神懸かりなことを言い、神州不滅を妄信し戦争をしたと教えられていましたので、成功の見込みの無い愚行と知りながら、未来の国民を信じて命を捨てた彼らを知り、強い衝撃を受けました。
中将の言葉を読みますと、当時の軍人がすべて神がかりではなかったと分かります。特攻を外道と認めた将軍と、愚行と知りつつ特攻を志願した兵士たちがいたのです。
彼らは何のために、そうしたのか。
たかだか二十代の若者だというのに、国の行く末を思い、大切な家族を守ろうと、この決断をしたのです。彼らはやはり英霊と呼ぶに相応しい人々であり、自然と頭が下がり涙が湧いてきます。
重盛の言葉に従った百騎の兵たちが、中将の前に集まった40名の若い特攻隊員の姿に重なります。守るべきもののための死が犬死でも無駄死にでもないのは、後世の者が敵と戦うと彼らが信じているからです。彼らの死を無意味なものにしているのは、死を恐れない決意の尊さを切り捨てる、戦後の反日思想ではないのでしょうか。話がつい横道へ逸れましたので、氏の解説に戻ります。
「清盛は説得され、熊野の神を遥拝して京都へ向かった。ところが安部野に出てきたのは義平 ( よしひら ) でなく、伊勢の平家の軍であった。清盛もほっとしたが、四国へ退いていたら彼らはそこで一巻の終わりだったであろう。かくして平家の軍は、京都へ攻め込んだ。」
京都へ攻め入った彼らが、どのような戦いをするのか。頼山陽の詩は第二十三闋で終わりなので、「ねこ庭」のシリーズも終わりが近づいています。しかし詩の解説は、まだ一行もありません。次回で終われるのかどうか、自分でも分からなくなりつつあります。