ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

女性皇族の考え「理解を」- 16 ( 型破りの右翼 ? )

2024-12-23 16:06:27 | 徒然の記

 鈴木氏の経歴紹介が続いていますが、保守か左翼かという二元論で進めてきた「ねこ庭」は、氏の出現で頭の中が混乱しました。

  〈 鈴木邦男(すずき くにお )氏 〉

  ・昭和54年4月、東郷健の芝居「悲しき人類」が竹中労のプロデュースで上演。天皇を揶揄した不敬なシーンで、鈴木と四宮正貴が客席から舞台上に乱入

  ・昭和56年12月、ソ連大使館に抗議、乱入。暴力行為の容疑で警視庁から捜索を受け、その際に捜査令嬢を破ったとして公文書毀損と公務執行妨害の現行犯で逮捕、23日間の留置

  ・同年、一水会と連携する組織として「統一戦線義勇軍」を設立。初代議長は現在「一水会」代表である木村三浩、初代書記長は清水浩司(のちの見沢知廉)

  ・昭和57年9月、「スパイ粛清事件」起こる。見沢が新しい右翼団体の設立に際し、一人のメンバーを公安のスパイと疑い、他の4名と共にバールで殴打し青木ヶ原の樹海に埋めた。

  ・相談を受けた鈴木は木村三浩と協力し、見沢らと遺体を静岡の朝霧高原に埋め直した。

  ・同月実行犯の4名が、見沢と共に逮捕され、鈴木は任意同行を何度も求められたが逮捕を免れた。( 後に見沢は自殺 )

  ・昭和59年、「新雑誌X」に天皇を揶揄したイラストを掲載した東郷健と再び敵対。一水会の構成員が東郷を襲撃したため、逮捕

  ・平成2年、「一水会」と中核派の五十二日間戦争がおこる。

  ・平成5年10月20日、野村秋介が朝日新聞東京本社で拳銃自決。

  ・平成7年、新宿にロフトプラスワンが開店。鈴木は、開店直後から常連となり、まもなくし出演者となる。

  ・登場人物の一人となり、かつて敵だった赤軍派元議長の塩見達也や、宅八郎、佐川一政、奥崎謙三らとも交流する。

  ・平成8年、雨宮処凜と出会う。タイで投獄された田中義三を激励

 ここまでになりますと、「一水会」の会員たちから批判が出て、平成11年に代表を辞任し顧問となります。

  ・平成11年、アメリカによるイラク戦争に抗議し、イラクへ渡航。イラク訪問団のメンバーは、木村三浩、塩見孝也、雨宮処凛、大川豊、PANTA、竹田恒泰他

 何度も言及する気になりませんが、竹田恒泰氏がこのような人物たちとイラク訪問をしているのが、どうしてもひっかかります。「女性宮家」反対、「選択的夫婦別姓」反対を主張する氏が、なぜ左傾の人々とイラク訪問をしたのでしょうか。

 鈴木氏の経歴紹介でプログの焦点がずれてしまいましたが、「一水会」メンバーの紹介を始めたのは、保守論者竹田氏への違和感を証明する材料のためでした。

 「皇室護持」の点では保守人だとしても、「アメリカの属国からの脱却」を語らない氏は本物の保守人と言えないのでないかと、そのための「一水会」メンバーの経歴紹介でした。

 脇道に外れ森の奥へ入りましたが、しばらく竹田氏を脇に置いてこのまま進むことをご容赦ください。

  ・平成18年、鈴木はかつて日本共産党を追放された筆坂秀世と対談し、『私たち、日本共産党の味方です。』を出版。

  ・平成21年『右翼は言論の敵か』を出版し、週刊AERAの「現代の肖像」で特集される。

  ・平成23年、二度にわたり北朝鮮へ渡航、元赤軍派よど号グループと交流

  ・平成25年、辛淑玉 ( シン・スゴ ) の依頼により、「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」(  のりこえねっと ) の共同代表に就任。

 ウィキペディアによりますと、この頃の氏は、「今の自分は右翼度30%、左翼度70%で、四捨五入したら完全な左翼であるのにいつまでも右翼と言われる。」と述べていたそうです。

  ・右翼活動初期はテロルを是とし、憲法改正を論じていた鈴木邦男だが、時代の変遷とともに、差別と戦争に反対し、平和憲法の貴重さを語るようになっていった。

 ウィキペディアの説明ですが、ここまで意見を変えるのでは、さすがに「ねこ庭」も氏を保守人と呼ぶ気を無くします。

 組織のトップが敵勢力と融合してしまうのでは、「一水会」の運動そのものが成り立たなくなります。会員だけでなく、古くからの幹部の批判も高まりました。

 次回は鉄の団結を誇った「一水会」メンバーが、鈴木氏から離れていく様子を述べます。

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女性皇族の考え「理解を」- 15 ( 鈴木氏の孤独 )

2024-12-23 10:35:30 | 徒然の記

 本日も、「一水会」の代表となった鈴木氏の経歴を紹介します。

 〈 鈴木邦男(すずき くにお )氏 〉

  ・「一水会」の主催で、森田必勝の追悼である野分祭を毎年、行う。

  ・昭和48年、防衛庁が催事でストリッパーを呼んだことに怒り、抗議した末に乱入する事件を起こして逮捕

  ・このことにより産経新聞を懲戒解雇となり、鈴木は「一水会」の専従活動家となる

  ・産経新聞勤務の経歴が記者だったと誤解され、週刊誌や月刊誌の原稿を書く仕事をコネでもらい、日銭を稼ぐ。

 ウィキペディアの説明は、筋を通した逸話と感心して読むべきかの、しょぼくれた話と嘆くべきか判断に迷います。

  ・昭和50年、右派系の新聞「やまと新聞」に連載していた、「東アジア反戦武装戦線」についての文章が、左翼系の出版社である三一書房社長の竹村一の目に留まり、『腹腹時計と〈狼〉』として刊行される。

  ・「東アジア反日武装戦線」は昭和47年に結成され、連続企業爆破事件を起こし昭和50年にメンバーが逮捕された。

  ・この本は、右翼が左翼の本を書いたとして、左右接近だと話題となり、竹中労や太田竜と知り合うきっかけとなった。右翼陣営からは概ね不評だったが、野村秋介からは高評価を得、野村や鈴木らが新右翼と呼ばれるひとつの理由にもなった

  ・「東アジア反戦武装戦線」の構成員が、自決をも辞さぬ態度を示したのを見て、鈴木は「戦前の血盟団のようだ。先を越された」と衝撃を受け、右翼系の『やまと新聞』に『〈狼〉たちと右翼武闘派』という連載を始める。

 これが左翼系の三一書房社長の目にとまり注目され、この頃から氏の左傾が始まっているようです。

  自分の道をひたすらに求め、大義のため死を厭わない人間は、時として右でも左でも命をかける者の姿に心酔します。
 
  どうやら鈴木氏は、こう言うタイプの求道者だったのかもしれません。

 前回このように述べて氏を評しましたが、以下の経歴を読みますと、どうやらでなく、間違いなくそうだったようです。

  ・昭和50年12月、「乱世’75 を撃つ大演説会」が渋谷公会堂で開催され、竹中労、沼正三、羽仁五郎らと会う。

 竹中氏はアナーキスト・ルポライター、沼正三氏は奇譚小説を書く覆面作家という正体不明の人物で、羽仁五郎氏は有名なマルクス主義歴史学者です。

  ・同年、「一水会」が『月刊レコンキスタ』を創刊。現在に至るまで発行されている。

  ・昭和52年には、戦前に活躍した右翼活動家を訪ね歩き、『証言・昭和維新運動』を著す。末松太平や小沼正 ( おぬま しょう  ) といった先輩の言葉は、60年安保以降の右翼である鈴木に深い影響を及ぼす。

 末松太平氏は「ねこ庭」の過去記事で取り上げたことがありますが、昭和11年2月の2・26事件を支援したとして、軍法会議で禁錮4年の判決を受けて免官になった陸軍軍人です。

 小沼正は、「血盟団」のメンバーで井上準之助蔵相を銃殺した有名なテロリストで、鈴木氏は、彼の「日本精神は左翼である」という言葉に感銘を受けています。

  ・鈴木は「左右を弁別せざる」として、竹中労、牧田吉明、塩見孝也ら左翼、アナキストとも交流し、たとえ反対陣営に対しても、学べること、共闘できることを模索した。

 ここまでの説明を読みますと、氏は保守活動家と言えなくなります。右でもなく左でもなく、右でも左でもあるという人物の仲間入りをしたということです。

 いい加減な人間と勘違いされるかもしれませんが、道を求める真摯な人間も求道が過ぎるとこのようになるという見本でないかと考えます。氏のために弁明するとしたら、「ねこ庭」は次のように言います。

 「氏は間違いなく、典型的な日本人の一人である。」

 善か悪か、右か左か、正義か不正義かと、私たちは「二元論」で考える習慣を長く経験していますが、本来の日本人の思考としてもう一つあることを忘れています。論理を優先する「二元論」でなく、「義理・人情」という感性的思考です。

 理屈や理論でなく、人と人が情という感性で共鳴する思考で、義侠心という言葉が分かりやすいのかもしれません。

 小沼正の「日本精神は左翼である」という言葉を、「ねこ庭」が解釈しますと次のようになります。
 
  「義のために命を投げ出す日本精神は、マルクス主義のため命をかける左翼と通じるものがある。」
 
 敵同士でも、命懸けで助け合うという個人関係がここから生まれます。中途半端な人間同士でこのような関係になれませんので、氏はもう一つの思考パターンをする日本人として、小沼の言葉に心酔したのではないでしょうか。
 
 「ねこ庭」は個人としての氏を受容しますが、国際情勢を考えた時の、日本の保守人としては肯定する気になりません。
 
 氏は選択的夫婦別姓制度に関して、「左右関係ない問題として議論するべき」と述べていますが、皇室を崩壊させる左派の意見に賛成する可能性を否定していませんので、「ねこ庭」の考える保守人の範疇から外れます。
 
 「一水会」の仲間が、次第に氏から離反していくのも無理のない話で、ウィキペディアが紹介する次の氏の嘆きも、当然の結果と考えます。

  ・年末、1人でいると、いろんなことを考える。オレは1人だ。淋しい、孤独だ、と思う。でも、運動に突っ走って、死んだ人も多い。獄中にいる人もいる。

  ・その人たちのことを考えると、申し訳ないと思う。真面目で、思いつめたから死んだんだ。獄中にいるんだ。

  ・それなのに俺は勇気がないから、卑怯だから、そこまでやれなかっただけだ。そして、外の世界で、自由に生きている。俺の方が「犯罪者」だと思う。

  ・年の瀬は、そんなことを痛切に感じるんですよ。(中略)幸い、全ての事件は時効を迎えた。亡くなった人、獄中にいる人には本当に申し訳ないと思っている。本当に悪いのは私です。

 酷な感じもしますが、氏が反省していると思われる事実を、次回もウィキペディアの解説からいくつか紹介いたします。息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々には、氏を批判する材料としてでなく、戦後史の事実として知ってもらいたいと思います。

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