ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

女性皇族の考え「理解を」- 14 ( 鈴木邦男氏の経歴 )

2024-12-22 15:33:26 | 徒然の記

 〈 鈴木邦男(すずき くにお )氏 〉

  ・昭和18年福島県生まれ、令和5年東京にて死去、79才

  ・政治活動家、「一水会」名誉顧問、思想家、文筆家、プロレス評論家、河合塾講師

  ・「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」( のりこえネット )共同代表、コリア国際学園後援会発起人

 肩書きを見てわかる通り氏は通常の保守活動家でないため、「型破りの右翼活動家」「異色の政治活動家」と呼ばれているそうです。

 しかし氏の生い立ちを読みますと、型破りでも異色でもない、一人の真摯な生き方をする若者の姿が見えてきます。詳しくなりますが、後で参考になりますのでウィキペディアの説明を紹介します。

  ・税務署勤務だった父親の都合で、秋田県、宮城県と、高校生の頃まで東北地方を転々とする。

  ・横手に住んでいた時は、ジャーナリストのむのたけじがよく家に来ていた

  ・母親が病気になった時、「生長の家」の地方講師の祈祷によって治癒したことがきっかけで、以降、鈴木家では母親が熱心な信者となった

  ・昭和35年、山口乙矢 ( おとや ) が起こした浅沼稲次郎刺殺事件をテレビで目撃し、同じ17歳の少年が社会のことを考え、人の命を奪い、自決するということに衝撃を受ける。

  ・昭和36年春休み、浅草の「大日本愛国党」を訪ね、総裁の赤尾敏と対面する

  ・昭和38年、早稲田大学政治経済学部に入学。「生長の家」学生道場に入る。

  ・当時の「生長の家」は、左翼運動が強い時代において右翼思想・愛国主義を強める活動に熱心だった

  ・鈴木は信仰の日々とともに、「生長の家学生会全国総連合(生学連)で書記長を務め、左翼学生との殴り合いを含む学内の闘争に奔走する。

  ・昭和42年早稲田大学卒業、学生運動を続けるために大学院に進学。

  ・昭和44年全国学生自治体連絡協議会(全国学協)を結成、初代委員長に就任

  ・しかし、全国学協の書記長だった長崎大学の安藤巌らと対立し、わずか1ヶ月で退任させられる。このとき鈴木と対立した陣営(安東の他に椛島有三など)が、のちに「日本会議」を結成している。

 同じ時期に卒業していますが、学部が違ったせいでしょうか、氏については何も聞いたことがありません。当時を思い返しながら、保守系、左翼系の学生たちの顔や姿を懐かしく思い出します。

  ・この事件により鈴木は失意の中で、別の大学に入学して学生運動をやり直すことを考えたりと、大きなダメージを受けるが、「生長の家」の創設者である谷口雅春が「やまと新聞」に、「鈴木君は将来、国士になるでしょう」と書き鈴木の将来を鼓舞した

 しかし氏は、昭和45年早稲田大学大学院を中退します。左翼学生の過激な殺傷事件や破壊活動が世間から疎まれ、左翼学生運動が退潮し、皮肉なことに自らの運動も敵を失ってしまいます。

 仙台の実家へ帰り、地元の書店の店員として働きますが、縁があって産経新聞社に入社します。記者ではなく、販売局や広告局で仕事をしていたと言います。

 ここで先に紹介した「阿部勉氏の経歴」の下記部分と一致点が生まれます。

  ・昭和45年、元早大の鈴木邦男と渋谷で偶然再会し、鈴木が一時的に阿部のアパートに居候した

  ・三島事件により「楯の会」解散の後、鈴木邦男、犬塚博英、伊藤邦典、田原康邦らと月1回集まっていた

 再び鈴木氏の経歴に戻ります。

  ・昭和45年11月25日三島事件が起こり、三島由紀夫の行動にも衝撃を受けたましたが、友人だった森田必勝の自決が、鈴木の胸をえぐった。

  ・運動をやめて一般の仕事をしていた自分と、三島と共に命を投げ出すまでの活動を続けていた森田との対比の中で苦悩し、再び鈴木は政治運動に駆り立てられていく。

  ・昭和47年、森田必勝と三島由紀夫二人の意思を受け継ごうと、「一水会」を設立する。創設メンバーは、自身の他に阿部、犬塚博英、四宮正貴といった面々であった。

  ・鈴木は阿部を尊敬していたが、年長者のため、鈴木が代表となった。

 「一水会」の代表が阿部氏でなく鈴木氏になった理由が、ここで分かりました。年長者だった鈴木氏に、阿部氏が一歩譲ったということです。礼節を知る阿部氏だったと言えますが、「一水会」のためには裏目に出たのかもしれません。
 
 次回の経歴を読みますと、鈴木氏の左傾への動きが見えてきます。なぜ氏が「型破りの右翼」と呼ばれるようになったかも、分かると思います。自分の道をひたすらに求め、大義のため死を厭わない人間は、時として右でも左でも命をかける者の姿に心酔します。
 
 どうやら鈴木氏は、こう言うタイプの求道者だったのかもしれません。
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女性皇族の考え「理解を」- 13 ( 木村三浩氏の経歴 )

2024-12-22 10:21:05 | 徒然の記

   経歴を紹介します。

 〈 木村三浩 ( みつひろ ) 氏 〉

  ・昭和31年東京生まれ、68才、日本の新右翼・社会活動家、民族主義者 、愛国政治団体「一水会」代表。

 竹田氏に負けない幅広い活動家で、沢山の肩書きがあります。

  ・一般社団法人世界愛国者交流協会代表理事、元統一戦線義勇軍議長、慶應大学戦没者追悼実行委員会委員

  ・比較憲法学会、三田文学会会、日本ペンクラブ会員。国際組織NASYO(非同盟諸国学生青年会議)元常任理事

  ・愛国者インターナショナル世界大会(準)実行委員、日本クルド交流連絡会顧問、世界愛国者会議 ( モスクワ、パリ、ウイーン等 )に数度にわたり出席

  ・昭和48年、群馬県で開催された日本教職員組合・定期大会抗議活動に高校の先輩と共に参加。本格的に右翼活動に目覚める。

  ・昭和53年、所属していた「日本青年社」の「尖閣列島領有決死隊」の一員として、尖閣諸島に上陸し、灯台を建設

  ・昭和56年、「反米愛国・抗ソ救国・民族自決・反権力」を掲げた新右翼「統一戦線義勇軍」結成に参画し議長就任

  ・アメリカからの独立を求める「ヤルタ・ポツダム体制打破」への活動を展開

 「ねこ庭」は、敗戦後のアメリカの関与から戦後日本史を検討していますが、氏はヤルタ・ポツダム会談から日本を眺めています。

  ・平成4年、「一水会」書記長となり4月にバクダッドを訪問、バース党との間で「反大国主義、民族自決」を原則とする議定書を交わし調印

 青山繁晴氏と西田昌司氏の動画に賛同し、千葉県の片隅で一人「草莽崛起」活動をしている「ねこ庭」と違い、木村氏の活動は本格的です。活動資金がどこから出ているのか知りませんが、同じ保守を志向していても、「ねこ庭」とは別世界の話のようです。

  ・「対米自立」という観点を堅持しつつ、国際的な視点から湾岸戦争以降のイラク、NATO空爆後のユーゴスラビアなどを訪問。

  ・そのほか、フランス、ドイツ、ロシア、リビア、シリア、マレーシアなど各国の民族主義政党・団体と交流し、民族派同士の国際連帯を構築。

  ・平成10年、バクダッドに本部のある国際組織「NASYO」(非同盟諸国学生青年会議)常任理事に就任

 左系の共産党や日弁連だけが世界で活動していると思っていましたが、右派の団体も負けずに動いていました。年金暮らしの人間には縁のない政治活動の話になりますが、日本国内ではほとんど知られていないのではないでしょうか。

 国民に知られなければ、どんな活動をしても「草莽崛起」にはなりません。負け惜しみを言う気はありませんが、マスコミが「トロイの木馬」である限り、木村氏の活動も「ねこ庭」の発信も大同小異ではないでしょうか。

 「貧者の一灯」でしかない「ねこ庭」の発信も、落胆することはないと変な勇気が湧いてきます。

  ・平成12年2月、「一水会」代表に就任

  ・平成14年、ロシア自由民主党のジリノフスキー党首が主催する「世界右翼政党会議」に参加

  ・フランス国民戦線などと共に、「愛国者インターナショナル」会議に参加。南北問題の是正とハングローバリゼーションの活動を展開

  ・平成15年3月、アメリカのイラク侵略攻撃に断固抗議。侵略直前、バクダードでの国際会議でアメリカの侵略戦争に抗議

  ・イラク攻撃の理由とされた「大量破壊兵器」保有疑惑については、一貫して「イラクは大量破壊兵器を保有していない」と攻撃前から主張

 いくら強がりを言っても、木村氏の活動に「ねこ庭」は及びません。そしていよいよこの活動が旧皇族の竹田氏と繋がります。

 息子たちと「ねこ庭」を訪問された方々に分かりやすくするため、竹田氏のプロフイールの一部を転記します。

  ・イラク戦争前の2003年(平成15年)1月、一水会代表の木村三浩らと共に「ブッシュ政権のイラクを止めさせる緊急アピール」発起人となり

  ・同会のイラク訪問団(団長・木村三浩)に、鈴木邦男、塩見孝也、平野悠、PANTA、沢口友美、雨宮処凛、大川豊らと共に参加した

 つまり竹田氏は「一水会」代表の木村氏らと共に、イラクを訪問しています。訪問の善悪を言っているのでなく、他の旧皇族の方々と氏の違いに関心を持っています。

 今ではイラク戦争は「一水会」の意見を妥当としていますが、当時は賛否両論に分かれていました。「ねこ庭」の記憶では、小泉首相はブッシュ大統領を支援していたのではないでしょうか。

 一般的に皇族の方々は政治的主張を避けられ、意見を述べる時があると婉曲に語られます。だから戦争当事者の一方に味方する行動には、簡単に参加されません。

  ・もしかすると氏は、旧皇族の方々の中で異端児なのではないだろうか。

 今回も同じ印象になりますが、まだ氏に違和感はありません。次回は、鈴木邦男氏の経歴を紹介します。

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