加えてGOOの商売に付き合うとセゾングループの自動車保険だ、アフラックのモノと同じにしては駄目だ。香川照之と言う私と同い年だが、人望も人格も保障され望まれている人で、この人を殺せば億万長者にしてやると言われても、ここまで痛めつけられても守ってきた節操は、私の人生を捨てる方を選ぶ。
その程度だよ。俺の人生。
だが、この人の笑顔が穏やかと言うより、暗く見えるのはそうだろう。セゾングループのCM担当者は良い人なのだろう。そして権力もあるのだろう。頭の良い香川照之の光りすぎる存在を彼自身が消そうとしているのに、それを押してCMに出させるとは、権力と関係者の熱意のどちらが欠けても決して無い。
人事ながら、梨園と言う奴の愚劣さは、本当に酷いようだ。中村勘三郎や中村吉衛門などの人は置いておいて、どうも勘違いした、愛の無い愛之助、目玉を晴らした海老蔵、染五郎。ドイツもコイツも女を性欲を発散する道具としか思っていないで、隠し子という事をやっている。それはミヤネヤの下衆宮根誠司と同じだ。
だが、そんな奴等が幅を利かせる。
大津イジメ事件が皆の注意を引き付けるが、この隠し子事件は、大手振って、あなたの子供であると言えない子を作ったと言う事をどう収まりをつけるのか?さっぱり分からない。
そういう意味でミヤネヤと情報番組を厚かましくもやっている宮根は本当に恥を知らない。それを看板に持ってくるのが、あのクズの後ろ盾になるクズのやる事だろう。どうも権力の虫の考え方感じ方は分からない。
宮根が受けると思っているようだが、残念。見る目のない大阪の馬鹿ババアぐらいだ。世間は、いい加減、コメントの軽さを思い知っている。最低最悪。何ともみすぼらしい看板である。「存在の耐え難い軽さ」である。
何か知らないが見えるものより質量が3倍あって「ダークマター」、しかし斥力が更にその三倍ある「ダークエネルギー」と宇宙の真理に似ている。
つまり「鬱陶しさ」と言う質量「ダークマター」が見えている3倍、しかし「一々するコメントの民意の離反力」つまり「ダークエネルギー」が鬱陶しさの3倍。つまり「魅力がなくなり」(あると思っている時点で宮根を好む後ろ盾の最たるものであろう)「視聴率」が「加速膨張して雲散霧消」するのだ。
中国では、よく事の成り行きを星座の運行と陰陽五行説で解いていた。それからすると、下衆の魅力の無くなり方は、何と科学的である事か?
今必死にキセノンと同じ質量の超対称性粒子というものを炙り出して、理論を構築しようとしているのだが、この鬱陶しいほどの質量を持つ訳の分からない奴が宮根の後ろ盾か?
世の中訳が分からなくなってきた。最近、スターウォーズのヨーダが「フォースの暗黒面が影を落して見渡せない」と言うセリフを連発したが、それは我々の思いと同様であろう。
スターウォーズエピソード6でヨーダは死ぬ。その時に「薄汚く生き残っている」と言っていた。ヨーダも気が弱くなっていたのだ。ただ、暗いと思うのは明るい時があったからだろう?明るい時は、多分まだある。
思うに、歌舞伎のケバケバシイ舞台を見ていて、思うのは、歌舞伎者とは、我々の様な鬱屈した気分のある意味刹那的な連中の事だった。私もあんな化粧と衣装は着けないものの、絶望感に似た思いは似ている。
彼等の多くは、利口でも賢くもなく、それこそ前の記事で書いた猫の様に死んだ。猫ほど素直でも飾りもなくではないが。しかし、歌舞伎を芸事とした先達は、その姿を形として原型を作った。
ドラマ「仁」であった鉛毒で死ぬ歌舞伎俳優のそれと同じで利口でも賢くもなく、ただ心に焼き付けた思いを人々の心に眼の奥に焼き付けるためだけに、毒の粉を塗りながら、苦しみぬいて死んでいった。それは事実として伝わっている。
幾ら白粉を塗っても死なない時代。利口と卑怯と誤魔化しが梨園の先鋭的な生き方をすり減らし、生温く、薄ぼんやりしたものとした、無様な残骸とした。
今は権威と虚飾に浮いていられるのだろうが、私は「利口」と「誤魔化し」を香川照之が自らに信じ込ませようとしている「梨園の利口」に見る思いがする。
「俳優として成功した存在だろうが梨園からすれば初心者だ!」努力しようにも埋められない格差をぬるま湯で育ったクズが吹聴する。
香川照之は、その場に寄ろうとしても、父親から拒絶された身の上を知っていて言うのか?お前は!殺すぞ!そんな人でなしなセリフがマスゴミを通って出ていること自信、その言葉を当然と思う姿である。
贔屓の引き倒しと言われる様な論法である事は分かっている。だが香川照之のある意味破れかぶれに近い身の上で培っていたものを子供の為に捨てると言う「利口」が、どうしても私は理解できない。
本来嫉視の対象とすべき香川照之が自らの「分際」とやらに「身を処している」と言う「理不尽」がそこにある。それは実に「大津イジメ事件」と同じ構造に見えるのは私だけだろうか?
どうせ消えゆく我が身かな?それは私自身の歌であり香川照之のそれではない。だって子供がいるのだから。耐える父は、それ相応に必要だろう。だが、それでも、何か、あの写真を見るにつけ、ただ、タダひたすら、私の大嫌いな言葉「残念」が鬱積する。
私は私の身の上で「残念」を連発した。それがもうすぐ「無念」となる。それはそれで仕方ない。だけど…。
何かこの世は嫌だ。何で私は生きているのだろう?