「ゆわさる別室 」の別室

日々BGMな音楽付き見聞録(現在たれぱんだとキイロイトリ暴走中)~sulphurous monkeys~

20200531

2020-05-31 | 矮小布団圧縮袋

〇平日の作業は自宅と工房の往復で、だんだん会社のデスクにいる時間が以前の通常勤務の頃とほぼ同様に過重になっていく。
 (写真:途中の道路の脇の生垣を通るキイロイトリ)
 社内にいても、別の棟の課に行かないと人に接触することはほぼ無く、用事があれば電話かメールで連絡をとるので、ほぼ誰にも直接会わないで仕事をしているといってよく、会議やプレゼンや顧客対応以外の、かつての通常業務の半分以上のひとりで作業する部分は、実は以前の生活とほとんど同じだといえないこともない。ただ、自分の個人的な生活や仕事の辺りはともかくとして、それをとりまくさらなる他の周囲とか会社や地域や社会全体の雰囲気が変わってしまったようだ。自分では別に一人てやってて普通で何とも思っていなかったことが、どうも他の人には困難だったりすることもあるのだな、と知ったり。しかしその逆に、世間の他の人たちは気にしなくて当たり前のようなことが、自分にはどうも耐え難いとか、そういうことも以前からあったから、お互い様ではある。こういう状態になって以前よりも「人それぞれ」ということの理解が広がっていけばいいんだがな、というのは楽観的すぎるのかどうか。


 BGM:こころの時代 / ウォン・ウィンツァン
 (こころの時代~宗教・人生~「対話の旅に導かれて」 ETV 5/31 5:00~)
 他の新聞記事や媒体の情報と比べて、NHKのニュースは政府や専門家会議などの大本営的な広報ばかり流していると感じる。しかし一方で、地味にでもこのような番組を制作しているスタッフもいる。朝早いんで深夜のアニメやドキュメンタリー等と同様リアルタイムで見ることがなかなかできずこれも留守録指定なのだが、時々痛烈苛烈な問題を提起してくる回があるから、この美しいピアノのテーマ音楽も、何度か聴いていて条件反射的にだんだん、簡単に癒しなどという言葉で表現できない曲に感じられてきた。
 この数か月、感染者数とか死んだ人間の数を効率的かつ統計的なマクロのデータでしか扱わない報道とかニュースとか政府声明とかばかり流れていて、本当にそれが聞こえるだけで精神がかさかさに乾燥し、洗浄消毒しすぎの手の皮膚のように心が荒れてくるようでずっと嫌な感じがしていた。そういう気持ちを、他の人も言ってるんだなと思ったのが先日のBS1スペシャル(「コロナ新社会への提言~変容する人間・社会・倫理~」)の國分功一郎氏の紹介していたアガンベンの「死者の権利」の蹂躙(感染した死者が葬儀を受ける権利を持たない社会とは何か)や、「移動の自由」がなぜ大切か、という話だったのだが、その話とか、今日の「こころの時代」の森川すいめい氏の話などは、聴いていると生理的感覚的にも痛みが伴われる、一人一人の「人間」の尊厳の話として、耳に入ってくる。
 人間として一人一人それぞれに人生がある。その人格として人を尊重するために、まず自分を人間として考え、本当の意味で自分を認めることが逃げずにできるか、ということ。人を尊重せず損ない傷つける人は、結局は誰よりも自分から逃げ自分を損なっているのだが、そのことに気づかない。被害者も傷つけられた自分を認めず、損ないつつ自分から逃げてしまう。DVや支配欲的暴力は家庭的・社会的・国家的・世界的レベルを問わず自分と他人の両方の根本的権利である尊厳や人生を破壊する。大災害や経済不況というだけでなく、置き去りにされている本質的な問題がある。今日の話は森川さんの人生の話だけでなく、自分もいるこの40年近くの日本社会の縮図のような話でもあるように思う。(20200531)

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