去る5月29・30日に1泊で行った旅路の記事のつづきです。
36年ぶりに同級生と過ごした短い時間に、喜多方在住のSちゃんは市内名所を紹介して回ってくれました。
喜多方の貴重な建造物を集めた場所
喜多方 蔵の里
その中から、写真を撮ってきた2棟を記載しておきます。
郷頭とは 例えば加賀藩(外様大名)では大庄屋にあたるものを十村(とむら)といい,改作奉行の下にあって10ヵ村前後を統轄した。
会津藩(家門)ではこれを郷頭(ごうがしら)といい,代官の下にあっておよそ1万石程度の村々を支配した。大庄屋の権限は非常に強く,百姓一揆にあたっては攻撃目標にされる場合もあった。…
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なんとも落ち着きを感じる風情でした
こちらは 馬がいたところです
土間 と そこからあがってすぐの場所
左に友人が立っている場所が、一つ上に載せた写真を撮った場所です。
一方、これを撮影している場所は「囲炉裏」のある場所で、とても広くて 天井も高いのです!
私がくるっと向きを変えて となりの部屋を撮影。
左にあるのは「仏壇」の跡でしょうか?
( ここから向こうは立ち入りできないエリアでした )
お屋敷の正面玄関は 右に見えている場所です。客人を迎える入口でもあります。
さきほどの土間はお勝手口といえるのかな?
とにかく立派で、広い広いお屋敷でした!
親戚とかで、こういう家に住んでいる人がいたら嬉しいなぁ 年中 遊びに行っちゃうな
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もう一つ、江戸時代創建のお屋敷を見学しました
肝煎とは ☆ 江戸幕府の職名。同職中の支配役・世話役。高家肝煎・寄合肝煎など。
☆江戸時代、村役人をいう。庄屋・名主など。
大きな木々に囲まれているので「全体像の写真」が うまく撮れませんでした(;^ω^)
でも、その大きな木の中から「ケロ ケロ ケロ ケロ ケロ」とカエルの声が聞こえていましたヨ🎶
喜多方での1日目は小雨が降っていましたので、昼間も夜もよくカエルが鳴いていました。「ゲロゲロ」という濁音カエルの合唱ではなく、澄んだ「ケロケロ」が1ぴきで草むらなどにいるようでした。癒しでしたよ~(*´-`)
この公式ページの 一番下の画像がこの建物の外観です、その画像にすぐに飛べます 「肝煎屋敷 旧 手代木家住宅」
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囲炉裏端の すぐ上の部分
「木組み」「竹組み」の密度が凄いと思いました。
そしてどこも真っ黒け!
柱もなにも黒い色をしていて 部屋の中も暗いので、わたしも友人も 囲炉裏の上にぶら下がっている この綱の下にある木枠が見えていなくて、頭をぶつけそうになりました!
廊下の窓
私はこういう雰囲気が好きです。
でも、この住宅内で いちばん明るかったのがここだったのです
われら3人でつくづく話したのですが、、、「当時の人は 灯りはろうそくだけだったの???」
「和紙を貼って あんどん にすると少しは明るくなったのかな?」
「夜は相当に暗かったんじゃないの???」
「やっぱり 日が暮れると同時に寝て、朝日とともに起きる生活 そのものだったのかな???」
「目が悪くなりそう・・・」
「夜は怖いね・・・」
また、土間から居間に上がる段差が とっても高いのでした
テレビ番組などで、例えば 人が縁側に腰かけて談笑している場面など見たことがありますか?
土間 と 部屋との「段差」が、その場面のように、椅子に座る姿勢になるぐらいの高さがあるのです。
ここだけの話、サイクリングが趣味の私は立ったまま「よいしょ」と上がれましたけど、
同級生2人は 「ちょっとコレ、70歳になったら上がれない、今もひといきには上がれない、辛い むかしの人はすごいね」などと のたまっておりました!(笑)
そんなこと言わないでよー あと10年しかないじゃーん と、心の中で 思っていた お良しでした、アッハッハー
こちらの屋敷に残されている「明治元年に起きた農民一揆の時の柱傷」も見ましたよ〰️( 。゚Д゚。)
ぜひ、こちらの解説をお読みいただきたいです!
市内にはいまだ4千もの蔵が存在しているとか!
そして、蔵を建てるのは「男の甲斐性」でしたか~(*^^)v いろいろ大変だなぁ
喜多方のあちこちを見せてもらって、建築物の内部が 「実用性・機能性」 と 「美的センス・建築美・様式美」が融合しているなぁ!と感じました。
「木組み」の美しさを見ても、和風にプラスして、海外の影響を受けているのかな?という雰囲気が感じられました。
美しい内部なので、音楽ホールなどに転用されている建物もありました(*^^*)
拝見できて、とっても良かったです