お良しなさい日記♪

三浦半島からこんにちは!

三浦半島 北下浦地区、わたしが撮った昔の写真   ★ 「三浦富士」( 横須賀市長沢から望む )

2020年10月25日 21時00分52秒 | 横須賀・三浦 ☆わたしが撮った昔の写真☆←まだまだ続けます(^-^)

 高校時代、修学旅行に行く時に カメラを両親に買ってもらってから好きになった 写真撮影。若い頃 何気に撮った風景写真が、今見るとなつかしく、ある意味 ` 貴重な記録 ’ となっていることに気づきました。

 

 ★ 三浦半島でもっとも高い山は「大楠山( おおぐすやま )」です。242mあります。

三浦富士は 連なる「武山・砲台山・三浦富士」の三山の最も東にある山で、標高183mです。

 

「富士」の名を冠している通り、浅間神社の奥宮の祠が頂上にあります。それで、下から仰ぐと、現在は突出したイチョウの木が目印となっていますね~。今回の記事は、そのイチョウがまだ目立たなかった頃の三浦富士の姿をお見せしたいとおもいます(*^-^*)/

 

 こちらは今年2020年の6月に撮った写真です。

わたしが名付けた、若葉が浮き出た特徴的な模様「農鳥( のうとり )」が頂上の右下に見えています。本家の富士山にも、雪解けの頃に浮かび上がる 白い鳥の模様が見られるのですよ~。

 

 三浦富士の「農鳥」ですが、先ごろ確認してみると、葉っぱが茶色く変色しています。6月に若葉で見えていた一部は「マテバシイ」で、どうやら「ナラ枯れ」で枯れちゃったのかもしれません。なので来年からは「農鳥」模様は見ることができないかも? 残念 無念!(>_<)

 

 そんな三浦富士の、てっぺんにあるイチョウ。

この記事を書いている当日の朝です。毎度の風でだいぶ葉っぱがなくなっているみたい???

なにせ吹きっさらしですので、黄色く紅葉した姿をほとんど見た記憶がございませんデス(;^ω^) 

 

 ★ はい!前置きが長くなりましたので、昭和57~60年ごろの三浦富士へタイムスリップします~!

 

私の中で、` ここからの三浦富士がいちばん好き♡ ’ という地点から見た雄大なお姿です。

 ・ よく見ると、ふもとに 長沢中学校がまだ無いですか? ・

 

 

 

 

 

 

 

今はめったにこんなに雪が積もることもなくなりましたね。

 

 長沢にある「天照大神神社」下から望む。

このころは まだ田んぼがありました。子どもの頃の3月か4月、遊んでいてここへ落っこちまして、ひどい目にあいました(>_<)

 

 

 ★ 申し訳ございませんが、春の写真がみつかりませんでした(>_<)

かわりに夕焼けをどうぞ ↓

 

 

 どの写真の三浦富士も、頂上の左端に見えるイチョウの木よりも その右側のこんもりしたところの方が高く見えているのです。

こんもりしたところ、というのは奥宮の祠の背後に植わっている常緑樹たちで、北風を防いでいます。

 

 現在の三浦富士のイチョウの木は、成長して海上からも確認できるほどです ↓

 おわかりになりますか?

東京湾フェリーの舳先の上の方、山の頂上に目立った切れ込みが見える、あれがイチョウの木です。

右の方の鉄塔がある山は、三浦半島で2番目に高い「砲台山( ほうだいやま )」です。

 

 東京湾フェリーの船上から、手前の「千駄ヶ崎の山」の向こうに顔をのぞかせる「三浦富士」頂上

 

 

★ もう一度、昔の写真へ戻ります ↓

 わたしがお正月に撮った1枚。

写真の下に印字されている「86」という年号は、この大きさに焼き増しした時のものです。撮影したのは昭和57~60年の間のどこかです( 1982~1985年 )。

 三浦富士の北側の麓、登山口からちょっと入った所にある祠です。この記事のシリーズ①の「通研通り」の回で書きましたが、私の家族は毎年元日に「武山不動 → 砲台山 → 三浦富士 縦走初詣」を続けていましたので、その時に上から下りてきて写したのです(*^-^*) 画面の奥の方に、三浦富士頂上への山道が見えています。

 

 たしか、三角形の石に這う葉っぱがきれいだなぁ~、と思って撮ったのでした(*^-^*)

この場所へは20年以上行っていませんねぇ・・・、一度 大雨のために 大水が流れて荒れちゃった時がありましたが、今は地元のみなさんが管理していらっしゃるのかな?行ってみたいなぁ!

 

 ★ ついでに「武山」のお不動様への登り口の様子もご覧いただきたいと思います。↓

 NTTさんの通信研究所とほぼ同じ高さの所に祀られている「前不動」と仏様、のお正月です。

1995年( 平成7年 )かな。

 

 こちらの写真はもっと古く、昭和50年代のいつかです。

奥にお墓のようなものが見えていますが、あちらが「前不動」様です。横須賀市野比の大作に建っている不動明王と同じです。

 

 それが今や・・・↓

 藪と化しています! 中を覗いてみると、台座だけが残っていました。不動明王さまは何処へ行かれたのでしょうか~!!!???

 通信研究所方向から登っていく道は、以前は急登ぎみで足元が良くなかったので、今は 一般人の通行不可になっているのかもしれません。武山と砲台山の分かれ道の地点に、確か「こちらはハイキングコースではありません」という看板が立ててあったと思います。

 我ら家族は良い時代に初詣ができたのですね!

 

 

 よく晴れた一日のおわり、この日の三浦半島の日没時刻16:58直後の三浦富士。

太平洋の水平線に沈みゆく太陽が最後の光を放って、まるで三浦富士から炎のような赤い光が上がっていました。ほんの数分間の出来事でした。あっという間に暗いとばりのなかへ三浦富士は沈んでいきました・・・

 

【 まいどおなじみ、オマケの写真 】

 私が立っている地点は、横須賀市野比。

「野比橋」から、昭和の終わりごろ。赤い電車の右上の山を崩して家が建つというので、慌てて記録した1枚です。この時すでに樹々の枝下ろしが済んでいたので、上の方がスケスケしていますね。

左の山も平成の中頃に崩されて、家が立ち並んでいます。( 家が立っている後ろに「野比川」が流れていて、その向こう側は横須賀市長沢。 )

 

 そして、あの赤い電車の向こう側の線路下がこちら ↓

 山を崩す前の竹やぶ下、涼しかった道です(*^-^*) この道は今もありますが、景色がすっかり変っちゃって、なつかしいですね~。( 横須賀市長沢 )

 

 北下浦地域の写真は まだまだあるのですが、あまりにもご近所すぎて、お見せする価値が無いと思います。ひとまずシリーズを終わりますが、横須賀市図書館へ行くと大きな写真集があって「これ、いったい長沢のどこ?」というサッパリわからない昔の風景写真も見られます。よその家(長沢の旧家)で遊んでいた子どもの頃、そういう写真をたくさん見せてもらいましたが、もう失われてしまったようです。

 

 みなさまの家に古い写真がございましたら、ぜひ 出る所に出して、日の目に当てていただきたいです! 変な文章

 

★☆★ 地図検索サイトの「地図ナビ」というところで、現在と1972~1974年頃の航空写真の比較を見つけました!リンクを貼っておきますので、よろしかったらご覧いただきたいです。

「YRP( 横須賀リサーチパーク )」がある辺りは、「YRP野比駅」から左上へ画面をスクロールしてくださいませ。

 地図ナビ 京浜急行久里浜線 野比駅周辺 地図&航空写真

 

 

 🟪 最後に・・・ この最後のシリーズ記事を仕上げようと決めていた今日、ふと思いついて、「野比海岸」の記事に登場していただいた とても詳しいご長老様のもとへ行ってみようと出かけました。

そうしましたら お姿がみえません。私がお訪ねするのが一歩遅く、去る10月9日にお亡くなりになっていたのです。

 

さみしい、本当に寂しくなりました。

 

ぼやぼやしている時間はありませんね。

 

 最後までお読みいただきありがとうございました


三浦半島 北下浦地区、わたしが撮った昔の写真   ★ 「YRPができる前」その③  祝!完結編

2020年10月18日 20時00分23秒 | 横須賀・三浦 ☆わたしが撮った昔の写真☆←まだまだ続けます(^-^)

 

 おかげさまで とんとん拍子に物事が明白になりまして、YRPができる前に撮影した写真の人にお会いして、昔のお話を伺うことが叶いました。なんと なんと なななんと ご夫妻そろってご健在でいらして、三十数年ぶりに再会することができたのでアリマス 

 

 本日2020年10月18日㈰、今日が雨降りでなくてよかった 良かったということで、愛車・サンシャイン号にまたがって長沢の「峯(みね)」地区へ取材敢行しました~。個人情報保持や詐欺が横行するこのご時世なので、身分を証明するものを携帯していきました アッハッハ

 

 家から走り出してすぐに出会った「第一村人」(失礼f(^_^))。畑で農作業中のダンナさんに声をかけてお話をお聞きすると、そのお方はまさしく先日地元民の女性が教えてくださった「○○○○さんご本人」

 

○○○○さん、苦笑いしつつ → 「えへへ、なんだよぉ  ○○○○は俺だよぉ。おっかないこと聞くなよぉ

わたし → 「えーっ まさかご本人様にお会いするなんてー

○○○○さん → 「この後姿は俺じゃないような・・・??? ウチでは軽トラで野菜を売りに歩いたことはなかったから、この人たちは××××さんじゃないかなぁ?ウチの奥さんに似てるって言われてる人なんだよ」

 

( ○○○○ とか ×××× とかは、「屋号」で呼んでいます )

 

 ★そして、さらに走って 14日にお会いできた 私より10歳以上年下の女性の家へこんにちは! ← まったくご迷惑なお良し(;^ω^) すみません

 

そこで、その女性のお母様も一緒に写真を確認してくださいました → 「この人は××××さんよ、きっと。大柄な人です。今もご主人様とお二人ともいらっしゃいますよ!」

私 → 「えーっ じゃぁ、お会いすることができるかもしれないんですね わぁー、信じられない」

ここで、来客の地元のおかあさんも登場 → 「あぁ、ちょっとわからないけど、そうかもね」

 とにかく、ここまでお会いした皆一同、昔の面影写真にびっくり仰天 YRPができる前の懐かしい話に花が咲きっぱなしで、広々した山里の中だから「三蜜」にはならずに意気投合 という感じで歓談の時を過ごしました。お母様は地域のことにたいへんお詳しくて、とても参考になりました!「深井」は「ふけぇ」と発音したとか、その上にあった「杉釜の堰」は「すがま」と言うなど、非常に興味深く拝聴した私です(^-^)

 

その頃にはもうお昼時間になってしまったので、私はひとまず三浦富士が望める高台で手弁当を食べて休憩~。

 午後1時になるのを待って、いざ!教わった××××さんちにレッツゴー

 

 すると、なんとなんと 間違いなく やっとこさっとこ無事、お二人にお会いすることができました

 

 ご主人様 81歳、奥様 77歳。撮影当時の奥様は41歳ぐらいということで、ご本人もびっくりして笑っていました(*´▽`*) ご自分たちの写真に、とにかく「なんでこんな写真があるの」と青天の霹靂のご様子でした。どうもすみません f(^_^)

 

 ありがたいことにお家に上がらせてくださって、約1時間 いろーんなお話をお聞きすることができました。驚くことに、お二人とも私の両親のことをよく憶えていて・・・というか、旧知の間柄に近いぐらいの関係で、わたしはただただ驚くばかりでした。奥様の方は私のこともいろいろ憶えていて、私の若い頃の恥ずかしい行状も暴露されました 忘れてくださいましーーー!!!!!

 

 あ、そんなことはどうでもいいのでした

 

   写真&私の記憶 解決 

 

【 火燃しをしているこの写真 】 

 

・ むこうの山際に見えている切り株、あれは田んぼにかぶさって陰を作っていた「ウルシ」の木を切った跡で、この日それを燃やしているところでした。ご主人様はこの時のことをよく憶えていらっしゃるそうです~。

・この田んぼの名称は「大田( おおた )」、1枚が広めの田んぼだったそうです。まっすぐに植えられた苗は、手で植えたのだそうです。

・向かいの山は木の葉が落ちて堆積し、栄養豊富なふかふかの土壌でした。この田んぼとの境に細長い畑を作ったら、大きな大きなジャガイモなどができたということです。山をぐるっと巻いて上へ良質な土を採りに上がったりしたそうです。

 

【 こちらの堰からの水汲みの写真 】

 

・火燃しをしている田んぼのすぐ隣にあった貯水池

・作物がない冬枯れの時期に水汲みをしているということは、奥様の記憶をたどると「おとーさんが燃やしてる火を消すために水を用意していたんだと思う」ということです(*^-^*) なるほどー!♪

・バランスをとるのが難しかった この天秤棒で担ぐ桶。お家の裏にまだこの「ポリ桶バケツ」が置いてありました!ご主人さまもご自身でビックリ懐かしがっていらっしゃいました~(*´▽`*) 私も大喜び

・この場所に本来あった「深井堰」では、フェンスが無かった時代には、魚釣りに来る人が多かったとのこと。道も狭く、車は池に落っこちそうになるし、大きな農機具は搬入できなかったので、農作業が大変だった。フェンスの設置とともに道幅も広がり、助かったとのこと。

・この写真で、左側に わたしの母が立っている場所よりも高い所に田んぼが見えています。堰の水より高いので、この道の地下に送水パイプを通して堰から給水していたということです。

・堰 自体の水はどこから溜めていたかというと、火燃しをしている写真の前に見えている山からです。地域の皆で協力して送水パイプを引いたとのこと。大変な作業であったらしいです。

 しかし、山から流れてきてすぐの水はとても冷たかったので、そのまま田に入れても稲が育たない。なので、田んぼの脇に土を盛った土手を造って 一旦そこへ水を溜め、お日様の熱で温めてから田んぼに入れた、というのです。お米を作るというのは大変な手間がかかるんだなぁ!と、みなさんのご苦労に敬意を感じた私です。

 

 その 水を生み出していた山は「大塚山( おおつかやま )」という、なんと当時標高130m以上! 山の際に沿って滝も存在したほどの水脈があったというのです! 一部は隣接する粟田の方向へ流れていたので、以前 わたしが野比の酒屋さん「東山崎屋」さんの大旦那さん(現在90歳近く)から話を伺った→「粟田道は泥道で車のタイヤがとられて大変だった」という地盤も納得です。

 

××××さんのご主人いわく → 「野比川の源流というわけです!」

 

・前々回の記事で「母の頭の位置の向こうの草むら上にお花畑があった」と書きました。奥様の話では「荒れたままにしちゃった普通の野菜畑」だったということです(*^^*)

 

古い地図をご覧ください 

 青い字で書いた「水の流れ」にも沿って、田んぼがあったのだそうです。画像がわかりにくいですが、この地図(昭和59年版)にも点線で田んぼが記されています。

 以前のこの堰の水門を開けると、現在の「しらとり園」がある辺りまで 一気に田んぼの水を供給できたということです!

 

【 古い地図 解説 】

・左上にある堰は、現在の「YRP 水辺の公園」付近。「杉釜」と書いて「すがま」と言う、杉釜堰です。ウナギも生息していたんだとか。捕まえて食したそうです(^з^)-☆ これを一部潰して使えなくなったため、代わりにYRPテニスコート下の「長沢の入地区」に新しく堰を造った。

・右端の赤い丸で示した「四ツ田稲荷」は、なんと移動せずに同じ場所にあるという驚きの新事実です! 私の10歳以上年下の女性のお母様も、○○○○さんも、みなさんが「昔と同じ場所です」と言っています。

 

・「山みち」と黄色い字で書いてあるのは、前回の記事に載せた山を突っ切る山道です ↓

 ご主人様いわく → 「深井堰の横から入る道で、四ッ田集落へ行けたんだよ」ということです。まさに大当たり!私が名付けた「フクロウでも棲んでいそうなうろがある大きな木がある場所」へ出られる道です。

 

 なので! 結果はこういうことになりました!

 昔の長沢の山が・・・

 こういう感じに・・・↓

 ★ あくまでも だいたいの感じです ★

赤い丸 四ツ田稲荷

青い所 NECさんのビル

緑色 現在も畑( ちなみに、記事中に登場する○○○○さんの所有ですって )

 

NECさんの前を大規模道路が走っているわけですが、もともとの「深井堰」を埋めて、現在の所に造ったのだそうです。

 あの「現在のお稲さま」というのは、昔からあそこだったということ。

 私の記憶の中の以前の場所 というのは、うそっぱちでした ごめんなさーい

 

 

 ★それで、私の母が写っているこの田んぼは、とても良質な田んぼだったということです 

 右側に見えている草っぱらは、車が入れる畝で、この右側にも田んぼがあったそうです。わたしが「ガマの穂を見た」というのはそっちのほうであり、この一帯はすべて現在の「深井堰」になっているのだそうです ↓

 

 現在のYRP水辺の公園付近にある貯水池には、下流で潰された「深井堰」や田んぼ、水脈にあった泥を移したんだそうです。それは水生の動植物たちを移動させるためでもあったというお話でした。

( タヌキは住宅地にさまよい出てきたりしましたがネ )

 

  今回、お話を伺わせていただきました皆さまに感謝申し上げます。

 

 私はよく母から「良いことがあっても調子に乗るんじゃないぞ」と言われていましたので、なるべく謙虚にふるまったつもりでしたが、みなさん話疲れされたと推察します。突然お邪魔しまして申し訳ありませんでした。親切にしていただき、本当にありがとうございました。

 

 ☆ 次回の記事は今度こそ「昔の三浦富士 春夏秋冬」へ続きます ☆


三浦半島 北下浦地区、わたしが撮った昔の写真   ★ 「YRPができる前」その②・現在地との比較写真

2020年10月17日 15時34分20秒 | 横須賀・三浦 ☆わたしが撮った昔の写真☆←まだまだ続けます(^-^)

  前回の記事「YRPができる前」その1の続きです 

 

 私の職場で、地元民のみなさんにその内容を検閲?してもらったところ、「今はどうなってるの?」「お良しちゃんは何でもすぐやってくれるから~♡」という よくわからないお達しを受けてしまったので、「ハイハイ、わかりました(*´ω`)」と、翌日すぐに現場へ飛んでみました

 

 

 こちらの1983か1984年の「長沢6丁目 奥地の田んぼ」の今は・・・

( 右奥に写っている三角形の道にご注目くださいませ )

 

 右奥にある 枯れ竹が渡してある場所が、かつての三角形の場所だと思います

 

 田んぼは貯水池になっています

 今回ふたたび行ってみて思い出してきたのですが、そういえばこのあたりに「ガマの穂」がたくさん生えていたような記憶がよみがえってきました。なので、もともとここにはこの「深井堰」というものがあったのかもしれません。 

 

 母が立っている田んぼが手前で、「深井堰」が奥のYRP側だったとは思いますが、だんだんと自信がなくなってきました・・・。

 

 それから、田んぼの奥に写っている道ですが、今は行き止まりです。YRPに上がっていく階段になっています。開発当初とはうって変わって鬱蒼とした暗がり階段になっていますね~(;´・ω・)

母と散歩に来ると、階段に腰かけて日向ぼっこをしたものです(#^.^#)

 

 あそこを上がったところの写真は、後でご紹介します

 

 

 ★ お次は・・・

 田んぼの奥に写っている道を上がっていった所で 火燃しをしている この場所 と、、、、

 この貯水池の現在はといいますと・・・

 

 「YRP・横須賀リサーチパーク」南東の端、奥から「ホテル」・「NEC」、そして今でも畑という感じになっています(*^-^*)

「深井堰」からの上り階段は、あのホテルの裏辺りに上がってくるので、昔のため池や田んぼはここだっただろうと思われます。

 

 そして、私がこの写真を撮っている場所はといいますと・・・

 黄色い矢印の所から見たら こんな場所です。 あそこから見ますよ 

 

 はい、黄色い矢印の先の高台です( よけいなことを書くようですが、YRPも土地が余っているようで もったいない! )

 

あの高台から海が見えます~♪

 三角形の山は、野比の白髭神社の裏手「富塚山( とみづかやま )」、別名「咎山( とがさん )」です。カメラを引いてみると・・・

 ほーら、土地が余って?「セイダカアワダチソウ」の天下となっちゃってます!(>_<)

 

 それで、もう一度画像を戻しますけれど・・・

 元「貯水池」があっただろうここでは、あの黄色い矢印の場所から山に入っていく道があります。

 

それが

 

 ここが とば口です。

これは まさに私に対して言っているような看板です、アッハッハー(*´▽`*)

今や「横須賀市の公認・公式ハイキングコース」になっているらしいです! 知りませんでした。

 

 この とば口から海の方向を見てみると・・・

 どこか見覚えがある景色。

ああ! そうです、そうです! ここは前回の記事で書いた、人知れず存在していたお花畑があった場所ではなかろうか?と懐かしく嬉しく気がついたのです (T_T) う~ん

 

 ★ では、山道に入っていくことにします

 

 愛車・マウンテンバイク (自転車)の「サンシャイン号」で遊んだ道です。以前はもっと狭くて、蜘蛛の巣があって、石や木の根っこが顔を出したままの ぬかるみ もあり、走りづらかったです。

今は良いコンディションのハイキングコースになったのですね!

 

 開発から残ったこの山中には、大木が何本も見られました

 

 こちらの木には、画面の中央付近に「うろ」があります。

 

 どんどん歩いて行くと、ここへ行きつくのです( わたしは奥の方から歩いてきました )

 右側の大きな木は、前回の記事で書いた「フクロウでも棲んでいそうな うろのある 背の高ーい木」です。

 

 この、フクロウでも棲んでいそうな木 というのがあるのは、前回の記事で この写真を載せた場所ですが、この古い家が残っている場所です

 左の暗がりの道を入ったすぐの所にその木があるわけです。

 

 現在の様子 

 古びた家屋は無くなりましたが、左のこんもりした木の下を入っていくと、大木がまだあります。健在でした、うれしい~♡

 ここでさらに嬉しいことに、畑で作業中のダンナさんに このあたりのお話を伺うことができました!

画面中央の「軽トラック」が停めてある所に家屋があったのです。裏に水が湧いているというので見せていただきました。

 

 私の指先と比べても、井戸ぐらいの小ささであることがわかりますでしょう。

かつてこの上に貯水池があったように「長沢」という所はあちこちで水が湧いている場所です。さきほどの自転車で遊んだ山道の脇には、立派な「モウソウチク」の竹やぶが広範囲で広がっています。地下水脈が豊富な証拠です。

 

 

 ダンナさんが耕す畑からの風景は、ご自身が「一日ここにいても飽きない」とおっしゃる通りの素晴らしい眺めです!

 

 

 南の方向、三浦富士が中腹の高ささに見えます~。

わたしの背中の方から、さわやかな北東の風が吹き渡っていきます~。

 

 三浦富士183m

 

右の脇腹が、以前からあんなに落ち込んでいたかしら???

 

 ★ ここまで長々と、ご存じない方にはサッパリ理解できなそうな地理関係を書き連ねてきました・・・。文章が上手でなくて申し訳ござしません。もう少しお付き合いいただきたいと思います。

 

 ここの畑のダンナさんに教えられた初めての道を通って、かつての「お稲荷様」が祀られてあった場所へ行ってみることにしました。そうしましたら、行った先で またまた嬉しいことに、私より10歳ぐらい年下の地元育ちの女性にお話を伺うことができたのです!

 

 女性 → むかしはため池のまわりで遊びました!フェンスなんて無かったです。お稲荷さんは この上に確かにありました。「四ッ田稲荷」っていいます。今はYRPの道路の向こう側に行っちゃいましたけど。子ども心になんとなく薄気味わるかったことを憶えています。あなたの持っている写真に写っている農家の女性は○○○○さんかな? お野菜を売ってくれていましたね。お写真なつかしいです~!

 

( ○○○○さんとは、「屋号」で呼んでいます )

 

 わたし → そうです、そうです。軽トラで野菜を売りに来てくれていました! それから、お稲荷様は、やっぱりこの坂の上にあったのですよね? どうもありがとうございました、散策してきます!

 

 女性 → このあたりの人で、まだまだ詳しい方々がいっぱいいますので、お話してくれると思いますよ!

 

 あーん、感動 感動です~。感激の涙を流しつつ、お稲荷様があったところの急坂を上っていきます

 あの上の右側に背の高い1本の木があり、その足元に祠があったのです。

 

 このあたりだと思われます。私は右からの坂を上ってきまして、振り向いて撮影しています。

 

左にできている道を行くと、すぐにYRPの大規模道路に出ます。そして対面に目に入るのが・・・

 移設された「四ツ田稲荷」( よつだいなり )です。四ツ田とは、このあたりの古くからの地名(字・あざ)です。先ほどの地元女性のお話によると、後ろにある常緑樹も移植されたようです。やっぱり地域に大切にされているのですね(*´▽`*) ( 私が記憶している 背の高い まっすぐに伸びた木は伐採されました )

 

 さきほどの急坂の途中に、以前は鎮座していました。

 

カメラを引いてみてみますと・・・

 現在は赤い字で示した所です。

昔の場所は、畑の向こうに見えている白い建物の下あたりになります。

 

 いちおう、以前と同じ方角を向いています(*^-^*)

 

 お狐様は新しく感じられますが、私がむかし見ていたのは きっと、この下に置かれている ↓

 

 こちらのお狐様かな? まぁるいお身体が かわいいですよね。

 

 内部のご神体?どこにあるのかしら?木札がそうでしょうか? すべてが だいぶ古そうです!

 

以前の場所にあった時代から、あれら陶器の白いキツネ様たちはいらっしゃいましたよ。

 

 

 ★ やれやれ・・・、と歩いて歩いて、最初にお会いした畑のダンナさんの所へ戻ってきた私。心からのお礼を述べて、長ーい階段の下に止めておいた「サンシャイン号」の元に帰りまして家路につきました。

 ナラ枯れとはひとまず縁のない「コナラ」の木が、まるっこい実を付けていました。

 

 山里では「セイタカアワダチソウ」が満開で、ありとあらゆる草が種を結んでいました。

なので!

 帰宅したお良しの帽子から靴下まで こんな状態で、種子の運び屋となってしまいました!

 

 繊維の間に、グッサリと三本足でしがみついた種子

 

 これも今日の収穫の一つですかね?(笑)

 

 長々とお読みいただきまして、どうもありがとうございました。

 取材日・2020年10月14日 


三浦半島 北下浦地区、わたしが撮った昔の写真   ★ 「YRPができる前」その①

2020年10月11日 20時48分47秒 | 横須賀・三浦 ☆わたしが撮った昔の写真☆←まだまだ続けます(^-^)

 1983 か 1984年の冬の初めのころの写真だと思います( 昭和58・59年の年末近く )。

そのころの北下浦地区の住居表示は「○丁目」というものではなかったけれど、現在の「長沢6丁目」です。母と二人で長沢の奥地の里山を散歩するのが好きでした。

自分で月見団子を作っていた母に頼まれて、「十五夜」「十三夜」のススキを採りに来たのも 田んぼの畦でした。

 

 この写真に写っている田んぼは、現在 カモなどの鳥がプカプカ浮かんでいる「貯水池」になっています。

そして上の方に写っている細い道は、YRPにあるホテルと蕎麦懐石のお店のほうへ上っていく階段へつづく道に造り替えられています。

( ※注※  蕎麦懐石のお店は、2022年に閉店 )

 

 

 この写真の頃の あの細い道は、当時どこへ続いていたかといいますと・・・

 

 上の方にあった貯水池です。

さきほどの写真の細い道を上ってきた所です。

個人的に、この写真を気に入っています♡ 良い写真だと思いませんか?

母と 農家の奥さんがお話しています。金網の切込みから ひしゃくで農業用水を汲んでいます。( この奥さんが作るカボチャ🎃は美味しかったな・・・、もう二度とないなぁ )

 

 立っている母の頭の位置のむこうに、枯れすすき みたいな「ぼさっかぶ」← ときどき変な単語を出してごめんなさいませ(笑) 草がぼさぼさしている所が見えますよね? あそこの上には、春になると 菜の花など、いろんな花が色とりどりに咲き誇る「花園」がありました。今、あちこちに大々的に作られて人気を呼んでいる「地域の花畑」の先駆的存在だったと私は認識しています!

 農家さんが意図して作ったわけではないかもしれませんが、冬の間休ませてあった畑が 春に花畑になっちゃってたのでしょう。花越しの景色は、「横須賀市ハイランド」の団地がはるかに望めて、東京湾も少し見えて、とっても晴れ晴れしたものでした。忘れられません(*´ω`)

 

 その貯水池のすぐ隣の田んぼでは・・・

 旦那さまが火を燃やしていました。

この時のことをよく憶えているお良しです(*^-^*) 

 

 この後、向かいの山はすっかり木が伐採されて、はっきり確認しに行ったわけではありませんが、YRPを貫く大通り か ホテルの敷地になっているのではないかな?と思います。

 

 写真を撮っている私の右側には、小さな赤い鳥居の「お稲荷様」の祠がありました。そこにはとーーーっても背の高い目印の木(ご神木みたいなもの)がありました。「お稲荷様」は今、YRPを貫く道路の粟田側の脇に移設されていますね。ご神木は早くに伐採されてしまいました。YRP建設が決まった時、今にも雨が降り出しそうな風の強い日に お稲荷様にお別れのお詣りに来ましたっけ。なつかしくて、また泣きそうです~ 

とっても良いところでした。昔の住民がお供えとかしていたのだろう雰囲気が伝わってくる、小さな小さなお稲荷様でした。

 

 貯水池と両親、1984年( 昭和59年 )4月、桜が咲いている頃の記念写真 (#^.^#)♡

農家の奥さんが水を汲んでいたこの池も、今や ありません。

 

 かわってこちらは2000年代に入ってからの写真です。ここはまだこのまま存在していると思います。右端の古い家屋がまだ現役でお住まいだったころ( 昭和40年代 )から知っていますが、ここも高い所にありまして「まるで桃源郷」のようなきれいな里山の風景です。

 現在でも 地域の方々がお散歩で歩いていらっしゃるコースではないでしょうか?ご存知の方も多いと思われます。

 私は、暗く見えている左のダート道を、奥のYRPの方向からこちらへ 愛車 マウンテンバイクの「サンシャイン号」でヨタヨタ下って遊んだりしていました(笑) あの家の裏に、フクロウでも棲んでいそうな「うろ」がある とーっても大きな木がありました。今もあるのかな?

 写真を撮っている私の背中側に道があって、そこを東の方へ下っていくと「京浜急行バスの島田バス停」の方へ抜けていけます。

 

  私たち家族が昭和46年に西浦賀から引っ越してきたとき、父が「これから暮らす土地の周辺を散策に行こうや!」と言い出して、 母と3人で とにかくどこへ行けるのかわかりもせずに どんどん どんどん どしどし どしどし ひたすら歩いて行かされた思い出があります。幼かった私の背丈よりもはるかに高く茂った草の間から、父の「お良し、見てみな、沼だ、沼があるよ♪」という言葉で、深緑色に濁った水を見た記憶が鮮明に残っています。さっきの貯水池だったのかどうか?????

 

 それで、母も私もさんざん歩かされて、「あぁ~!ここへ出るのかぁ!」と ビックリしながら街場にポッと躍り出た場所が野比の「島田」でした  

 

 前回の記事にした「野比海岸」へも、打ち上がった海の恵みを採りに、さんざん歩かされました。90代になっても健在の父とは、今や立場が逆転して 私が父にハッパをかけております(*`Д´)ノ!!! アッハッハ~

 この時代の風景の中で子ども時代を過ごせたことを、幸せだったと、心から感謝しています。

 

 次回は、頂上のイチョウの木がまだ小さかった頃の「三浦富士」の春夏秋冬の姿をご覧いただきたいとおもいます(*^-^*)/


三浦半島 北下浦地区、わたしが撮った昔の写真  ★ 「野比海岸」

2020年10月07日 21時13分29秒 | 横須賀・三浦 ☆わたしが撮った昔の写真☆←まだまだ続けます(^-^)

 遊泳禁止になって久しいのに、このころはまだ泳いでもよかったんだなぁ!と、驚きをもって思い出す 野比海岸の風景です。そういえば、近所のおじいさんが家にやってきて「泳ぎを教えてあげるから海岸へ行こう!」と誘ってくださったこともありました。

 

 1981年( 昭和56年 )の夏休みに、私が撮影した野比海岸です~。( 横須賀市野比 )

 

 今と同じく、風景写真を撮ることに熱中していまして、カラフルなパラソルを見て 一生懸命に構図を考えカッコつけて写したことがわかる写真だと思いませんか?(笑)

ここに写っているみなさんは、今どうしていらっしゃるでしょう? 幸せにお暮しであってほしいです~(*´▽`*)

 

  こちらは 1985年( 昭和60年 )の夏だと思います。

この時もカッコつけた写真を撮っていて、自分でも笑っちゃいます(#^.^#)

 杭は私が立てたのではなく、元々立っていました。麦わら帽子は私のものです。

画面の右から左へ、風が強く吹いていることが わかっていただけますか?(#^.^#)

 

 麦わら帽子の写真と同じ日です。空気感が一緒でしょう?

( 写真の下部に印字されている年月表示は、この大きさに焼き増しした時の年代です。撮影年ではありません )

 こちらの漁船は、野比の白髭神社から参道をまっすぐに海岸に下りてきた辺りに陸揚げされてあったものです。

 

 以上の風景が見られた野比海岸の現在の様子は こちらです 

 北の端、「千駄ヶ崎( せんだがさき )」から野比海岸の南方向を望む。

この真下の浜で、きれいで完璧な形の大きな貝殻を いっぱい拾ったりできたのですよ!

( 1972~1974年ごろの記憶 )

 

 写真の右端 → その千駄ヶ崎を、野比海岸の真ん中あたりから遠望。

砂浜がない!

 

 野比海岸の真ん中あたりは、今やこのように護岸工事を施された遊歩道になっています。

ここがあのパラソルを広げて楽しそうに海水浴の一日を過ごしていた場所とは!? ひゃぁ(>_<)

かなしい~ 遊歩道の存在が悲しいのではなく、「浜」がなくなったことが悲しいのです (ToT)

 

 この写真を撮っている時、たまたまそばにいらした野比在住だという旦那さんに声をかけられました  昔は浜で町内会の ちょっとした行事とか、運動会なんかもできたもんだよねー。うちのおじいさんの時代の写真を見ると、松の木がダーッと生えているよ!行政センターに行ったら、昔の写真が飾ってあるんじゃないのかなぁ?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私からの情報  野比「白髭神社」社務所 兼 町内会館に、浜で大々的に行事を執り行っているころの写真が 額縁に入っていくつか飾ってありますよ。えっ!?ここどこですか?この下の浜ですか、えーっ!? 天地がひっくり返るぐらい驚きました。

 

 同じ場所から千駄ケ崎とは反対側を向いて撮った写真です( 2020年10月6日 )

野比海岸のすぐ南側は「長沢の海岸」です。

遠くに見えるのは「津久井浜」を経て「三浦海岸」方面です。

 

 千駄ヶ崎のすぐ南側にある「横須賀老人ホーム」の下あたりで、昨年(2019年)の台風の高潮・大波で崩壊した野比海岸道路を補修工事中です。

看板の写真をわたしがカメラで記録してきました! ドローン画像だそうです。砂浜ギリギリの上空から見ると、このような悲惨な様相なのです。

 

 昔からこの近くにお店を構える「東山崎屋」さんの大旦那さん・旦那さん、ご近所のおじ様たちの証言によると  野比の海岸は、今の三浦海岸のように遠くまで広い砂浜だった。遠浅の海だったんだよ。潮が引くと歩いて沖の方まで魚とかを採りに行けたんだ。さんざ行ったもんだよ。

 

 ですから、この海岸線の道路のすぐ下まで海になってしまった今は、台風が来るともろに大きな波の壁が陸地にぶち当たってしまうようになっちゃった、というわけでしょう(´・ω・`)

 

 

 

 かわってこちらは、おそらく北下浦行政センターの下の海岸だと記憶しています。野比海岸から続く「長沢の海岸」です。1981年( 昭和56年 )7月か8月の風景です。

( ★注★ 右下に写っている日付は、この古い写真自体をカメラで撮り込んだ時です、紛らわしくて ごめんなさい  )

 

 

 このころは、若山牧水の歌碑は海岸の道路のすぐ脇に「東屋」付きで立っていました。海岸道路から砂浜へ下りるのは、草が生えた砂の 単なる斜面でしたね。

 

  長沢川の河口付近には確か大きな駐車場があって(県営だったかな?)、小中学校の遠足・修学旅行の大型観光バスがここから発着していました。漁師さんの網を干したり保管したりする広場もあり、ときどき漁師のオジサンたちが数人 談笑しながら網を繕っている横を通ったりしていた私です。なつかし過ぎて涙が出そうです~

 

 私  砂浜が広かった頃は、町内会の行事で、火を起こして 焚火の上をグルグル回す「豚の丸焼き」をやって食べさせてくれました。あの時の 豚肉と焼きそばの味、転がっていた豚の鼻としっぽの不気味さが忘れられませーん。 食べた後、我ら子どもは 砂浜で 輪になってバレーボールを打ち合って遊びました~。

 

 現在は、こちらもコンクリートで固められた遊歩道となっております・・・

でも、残っている浜でお正月の「おんべ焼き」を執り行っております!

はるかに見えている野比海岸まで、夜明けの空に5~6基のおんべが一斉に燃える光景は圧巻です。

 

 

 ↑ 浮き輪の男の子が座っていた砂浜があった辺りがここでした。

 

 今もまったく砂浜が無いわけではありませんが、けっこう岩がボコボコ顔を出しているので足元が悪いです。釣りをしている方も多いですが、昭和の頃の 砂浜に刺して立てた釣竿がずらーっと並んでいた風景がなつかしいですね~(*´ω`) ← 何を釣っていたのかな???

長沢地区の子どもたちの恒例行事、浜の砂を使ってこしらえる「砂の芸術」の造形作業は 今も存続しております!

( 今年はコロナ禍で中止 )

「凧揚げ大会」も廃止されて久しいですが、今はときどき人間が飛んでますよね?(笑)  行政センター下の海岸で、黄色い何ていうのかな?空飛ぶ帆がヒラヒラ見えるときがあります。

 

長沢在住の物知り長老さんの証言  久里浜にはまだ砂浜があるでしょ。大きな平作川から土砂が流れてくるから浜ができるんだよ。野比・長沢の浜は、平作川からの砂の供給がストップしちゃったから新たに浜ができなくて、みーんな三浦海岸の方に流れていっちゃういっぽうだよ。

私でなくて、一緒に話を聞いていた地域の女性  じゃぁ、いずれ三浦海岸の砂浜も減退しちゃうのですか? 平作川だってすべて護岸工事しちゃってあるから、上流の山から土砂なんて流れてこないんじゃないのですか?久里浜海岸だって、これからどうなんでしょうね?

長老  いや、わかんない。そうなるかもしれないけど・・・。

 

 砂浜が消失していきつつある原因・今後については、わたしは素人なので 特にこれ以上ブログで述べずに、ただただ子どもの頃を懐かしんで、ここに記録しておきます

いろいろお話を聞かせてくださった旦那さんたち、どうもありがとうございました(*^-^*)

 

 オマケの写真 

 平成の初め頃、長沢と津久井の 境界辺りの海岸です。( おそらく1993~2000年の間 ・ネガが見つかれば判明するのですが・・・)

カモメがたむろしているので、あそこは津久井川の河口でしょうか? 違うかな?

 太陽が西に傾いたころ、海がキラキラと光って、黄色っぽい光と おじいさんのシルエットがきれいだな~と思って撮った一枚です。

 

 今回は、書いているうちに どんどんいろんなことを思い出してしまいました。たいへん長い文章をお読みいただき、ありがとうございました。

 ★ 次回は「YRP・横須賀リサーチパーク」ができる前の、もう見ることができない長沢奥地の様子を回顧します(*^-^*)/


三浦半島 北下浦地区、わたしが撮った昔の写真  ★ 「通研通り」

2020年10月05日 20時24分41秒 | 横須賀・三浦 ☆わたしが撮った昔の写真☆←まだまだ続けます(^-^)

  こちらの写真は、2020年5月15日に撮影しました「通研通り」、東側の坂の下( 横須賀市長沢地区 )です。

 

 はい!では同じ場所から、1995年( 平成7年 )元日の姿です~

 並木の桜の木が 細いですね~(*´▽`*)

季節が違うので葉っぱがなく、こちらの写真の方が 辺りが明るいです。

本当に同じ場所です。

 

 そして、通研通りの上の方へ、両親とともにのぼってきたこの場所ですけれども。

この写真は、さきほどの写真よりも古い時代のものです。1987年( 昭和62年 )の元日です。

私の家族は、毎年元日に「武山不動尊 → 砲台山 → 三浦富士山頂 浅間神社奥宮の祠」と、縦走初詣を恒例としておりました。

 

 で、そこの現在の様子は

 長く続く坂に沿う桜並木ですが、このあたりの木は一度植え替えられたような記憶があります( 小さくなったなぁ?という印象を受けた時期があったのです。本当はどうだったのかな?)。

 (#^.^#) ですが、坂の中盤あたりは 桜の木が育っちゃって、太い根っこが歩道の舗装を持ち上げてしまっているほどです!

私の職場の70代の女性は、葉っぱが茂っている季節に( 日陰で足元が暗いせいで )、ボランティア活動の帰り道に つまずいて転んでしまったことがありました。お年のせいで とっさに手が付けなかったようで、顔から地面に落ちてメガネが壊れましたし、大事なお顔も血だらけになったそうですよ!

 みなさまも充分にお気をつけていただきますように!

 私の愛車 マウンテンバイクの自転車の「サンシャイン号」でも、波打った歩道ではタイヤがガックンガックンして走ることができないです~(;^_^A

 

 

 前述の写真と同じ1987年元日、坂の上の方から下を望める場所にて。

父が立っている所から左折して山道に入り、いよいよ武山不動尊への登山が始まります(^-^)

 

・・・・・・・・・・

 

 2022年6月に、新たに見つかった1枚の写真をUPします! 

 1977年1月の印字がある写真です(^-^)

 

 現在のような舗装の道路になる前の通研通りの上の方の様子です。

 

 

・・・・・・・・・・・・・↑ ここだけ追加部分です ↑・・・・・・・・・・

 

 

 そしてこちらの1枚は、同じく右端に「APR 77A」の文字があるように、1977年( 昭和52年 )4月に現像した写真です。記憶では学校の春休みに撮ったはずなので、3月下旬から4月上旬の頃だと思います。

 どこかといいますと、通研通りの東の端、現在の「横須賀市立 長沢中学校」が建つ前の田んぼの風景です( 長沢5丁目 )。当然、あのオジサンが座っている前の道は、現在 桜並木の「通研通り」です~。このぐらいの道幅でした。

 昭和40年代までは舗装もされておらず、穴ぼこだらけで、雨が降るとその穴ぼこに水が溜まって、車の人は困ったようです。当時は京急線の野比駅からバスの運行が無かったので、夜、母に連れられて久里浜駅からタクシーに乗って帰ろうとすると、運転手さんが →「道が悪くて車が汚れるから嫌だ」と断られたこともありました。

( 通信研究所で働く人は、行き先表示が「通信研究所」と表示されている灰色っぽい専用バスに乗って、「野比駅」から直行で通勤されていましたよ )

 

 タクシーの運転手さんの言葉  1.道が悪くて車が汚れるから、会社におこられる 2.あっちのほうは暗くて「むじな」が出そうだから嫌だ 

あっちのほうとは、街場である久里浜から見て「尻こすり坂」から向こうの野比・長沢方面のことです。京急線の大作の踏切から野比消防署の十字路までも未舗装でした。シートベルト無しの(?)タクシーの後部座席でガッタンガッタン揺られて、お尻を痛くして帰宅しましたよ~。頭を天井にぶつけないようにつかまってました)。昭和40年代末は、野比から通信研究所を越えて武へ抜ける道を 歩道付で拡張舗装工事をやっていた記憶があります。

 

 ま、そんな時代でございました

 

 腰かけているオジサンの後ろには 子どもの背丈では下りることができないほどの 深い水路があって、朱色のアメリカザリガニがうじゃうじゃいました!私と近所の子どもたちは、あの田んぼのあぜ道を駆けずり回って遊んでいました。母からは →「田んぼで遊んでると農家の方に怒られるよ!」と言われていたのですけどネ (*´ω`) いたずらはしなかったつもりですが・・・(笑) ごめんなさい

 

  次回は、1981年( 昭和56年 )ごろの「野比海岸」の様子をご紹介します