教育実習に関わっていつも思い出す話がある。教員養成に関わる者として生涯忘れてはならないと肝に銘じているし,ことさら決意などしなくとも,おそらく生涯忘れられないだろう。それは10年以上も前に,ある保護者から直接聞いた話だ。
ある日,教育実習中の学校に立ち寄った。すると空き時間なのか,黒いスーツを着た教育実習生らしき若い男女が,地べたに座ってジュースを飲みながら楽しそうに談笑していた。彼らは次のように話をしていたという。
「いやぁ,授業が全然うまくいかなくってねぇ,結局はちゃめちゃのぼろぼろだったよぉ。ハハハハハ・・・」
「キャァ,あなたも?まぁ,私も同じだからドンマイドンマイ。ハハハハハ,次がある次が・・・」
この会話を聞いた保護者がどのように感じられたか,分かるだろうか。その方は,憤まんやるかたない様子で,次のようにまくし立てられた。
「実習生が授業をうまくできないことはよく分かっているけど,それを簡単に考えてもらったら困るのよね。実習生にとって授業の失敗はドンマイで,次があるって思っているのだろうけれど,受けてる子どもにとっては,その1時間1時間がかけがえのない授業の1時間であって,取り返しはつかないんだから。あなたが失敗して子どもたちから奪った1時間を,そっくりそのまま返してよって言ってやりたかったわ!」
この保護者は,私などが到底及ばないような人格者であって,いつも学校を支え助けて下さっていた。そのような方が口に泡してこのように話されたことは何を意味するだろう。
もちろん,学生は学生なりに努力し準備したことだろう。しかし,我々はこの「なりに」を使うときこそ,「なりに」の奥底にある意識に目を向ける必要があるのではないか。「なりに」はいつも,不十分の弁解に使われるのだ。児童・生徒にとって見れば,ベテランの先生が行う授業の1時間とは質の違った1時間を受けさせられることになる。そこそこの努力をする教育実習では大いに困るのだ。既にお気づきのように,保護者の憤りは,授業がうまくいかなかったことではなく,授業がうまくいかなかったことを軽く考えているように受け取れる発言をしていたことにある。
教育学部に入学し,所定の単位を修得して本人が希望しさえすれば教育実習に行くことができる。それは大学が保障した学生の権利だ。しかし,この権利の行使は,教師の卵として誠実であることが前提になっている。誠実とは,教育現場,とりわけ授業において,自分の力量不足・経験不足を自覚して可能な限り慎重に準備し,最大限の努力をすることだ。実習生なのだから,結果が十分であるはずはない。そんなことは皆分かっている。その上で受け容れてくれているのだ。だから繰り返すが,誠実に努力しよう。これができないとすれば,教員としての適性以前の問題だ。そんな者に権利の濫用は許されない。