詩人PIKKIのひとこと日記&詩

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『走れメロス』と「信実」 - 死語の世界の日本 世に倦む日日

2021年01月21日 | 気狂い国家

太宰治の『走れメロス』の中に、「信実」という言葉が三度登場する。最初は、妹と妹婿の結婚披露宴を退出して羊小屋で眠り、王との約束の3日目の朝に起きて村を出発するときだ。「あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう」(新潮文庫 P.146)と言うくだりがある。二度目は、激流の川を泳ぎ渡り、襲撃してきた山賊を撃退し、体力が尽き果てて路傍に倒れ込んだときである。箱根駅伝の区間途中で意識朦朧となる走者のように、疲労困憊して足が動かず、もうだめだと諦め、絶望の境地でこう嘆く。「正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉」(P.150)。三度目は、物語のクライマックスとエンディングの幕で、メロスとセリヌンティウスの友情に感激した暴君ディオニスが、群衆の歓喜の中、改心して反省の弁を垂れる場面である。「おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうかわしをも仲間に入れてくれないか」(P.154)と言う。


『走れメロス』と「信実」 - 死語の世界の日本_c0315619_14532110.png何気なく作品を読み返していて、「信実」という言葉に遭遇し、そこで立ち止まって検索で意味を調べた。日常では滅多に見ることのない熟語であり、使われない言葉だからである。読み進むうち、同じ言葉が何度も出て来ることに気づき、明らかに作者が物語の主題を示すキーワードとして配置している作為を感じ取り、最早、「信実」の語に拘って考え込まざるを得なくなった。辞書を引くと、「まじめで偽りのないこと」「打算がなく誠実であること」という短く端的な説明がある。そうだったっけ、と思う。15年間、延々とブログを連載して言葉を探す旅を続け、長ったらしく辟易とされる文章を惰性で書き続けてきたが、「信実」の語は一度も使ったことがない。すっかり忘れていたというか、語彙の記憶の倉庫から消えてしまっていた言葉だった。まさに、老齢になって言葉を発見した気分である。この発見というか再会の機会に、深刻に考え込んでしまうのは、「信実」の日本語が昔は決して珍しく特別な言葉ではなかったということだ。『走れメロス』の中にだけ印象的に登場する言葉ではなかった。


『走れメロス』と「信実」 - 死語の世界の日本_c0315619_14533955.png新渡戸稲造の『武士道』にも登場する。「信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である」という一節があり、この言葉は金言・格言として広く知られ、「今日のことば」として頻用されていることが窺える。新渡戸稲造が使い、太宰治が使っているのだから、「信実」は昔の日本では今よりももっと身近で、日常の議論や文章に用いられる倫理の一般語だったのだろう。そう想像する。今はあまり見ない。ほとんど接する機会がなく、文中に「信実」の表記があれば、「真実」の誤植・変換ミスではないかと疑ってしまうほどだ。新渡戸稲造が、敢えて信実と誠実の二つを並べて別個に置いているところから、二つの語の意味は似ているけれど少し違うことが分かる。今は、「信実」は「誠実」に吸収され、「信実」の独特の意味が消されているというのが日本の思想状況のリアルだろう。私なりに、二つの語の違いの解釈と了解を言うと、「信実」は、偽りがないこと、ウソがないというところに力点がある。「誠実」は、真心(まごころ)の方に力点があり、私利私欲を排する態度である。二つは意味が異なる。


『走れメロス』と「信実」 - 死語の世界の日本_c0315619_14535018.pngここまで書いて、もう簡単に結論を述べてよいと思うが、われわれが「信実」という - 『走れメロス』の核心に措かれたキーワードである - 重要な日本語をきれいさっぱり忘れ、頭の中にその表象がないのは、われわれの社会の中に「信実」の契機と実体が絶えてないからだ。「信実」という常識の倫理用語を必要としない社会だからだ。「信実」の意味を知らずに生きており、そんな言葉は邪魔な社会に生きているからだ。大衆も支配層も「信実」などは知らず、そのような語の意義・重要性を認めていない。総理大臣や官房長官が記者会見や国家答弁の場で、常に平気でウソとゴマカシを言い、虚弁と欺瞞が追及されず、糾弾されず、退治されず、成敗されず、責任をとらされずに済む社会だから、「信実」の日本語は人々の国語辞書から消えているのである。「特に問題には当たらない」、「仮定の質問には答えられない」、「個別の問題は回答を差し控える」がまかりとおる現実空間が、メロス的な「信実」の消滅した世界なのだろう。まさしく、メロスの言う「人を殺して自分が生きる」のが「定法」の社会であり、野生動物が自己責任(弱肉強食)原理のみで生きる野蛮な世界なのだ。


『走れメロス』と「信実」 - 死語の世界の日本_c0315619_15154889.png『走れメロス』は、今でも中学2年の国語の授業で教えられている。昔と同じように国語の教科書に載っている。果たして、現在の教師はこの物語をどう教え、教室のこどもたちに「信実」をどう説明しているのだろう。子どもたちはどう学び受け止めているのだろう。当然のことだが、この物語は国語の教課の一部だけれど、倫理教育のテキストとして位置づけられている。義務教育の一課程としてその目的と役割を持っている。『走れメロス』は、少年少女に何より「信実」の尊さを教え、「信実」に前向きな精神を養う教材だ。また、友情の尊さと崇高さを教え、親友を持ち大切にすることを誘う指導書だ。さらには、どれほど身体的精神的に苦しい窮地に陥っても、希望を棄てず、最後の最後まで諦めず、意志と目標と大義を失わず、克己し、粘り抜いて困難を克服することを教える読本だ。運動部の部活をやっている子どもたちは、メロスと自分とを重ね、感情移入し、ドラマの叙述を導きの糸として内面化することだろう。それからまた、倫理の力の前には暴君権力者も屈服し、悔悟と更生を通じて革命が成就されるのだという政治の理想も教えている。暴政に反抗する人民の正義と勇気の意義を説いている。


『走れメロス』と「信実」 - 死語の世界の日本_c0315619_15023736.png貧富の格差のある新自由主義のブロイラーとして子どもが育てられ、誰か弱い子どもが無造作にいじめ自殺の標的にされ、仕留められ、そうでなければ、不登校やメンタルヘルスの障害に追い込まれている。教師も学校も教育委も知らぬ存ぜぬで責任逃れし、児相の職員がバタバタ走り回っている。それが当たり前になり、東大がどうの偏差値がどうの帰国子女がどうの一芸入試がどうのと言い、山口真由が不敵な面で呵々大笑している。その日本の教育空間で、「走れメロス」の倫理はどう教えられ、どう受け止められているだろう。私には難問すぎて説明どころか想像もできない。『走れメロス』に描かれ主題として強調されている倫理的基礎を、否定しつくし、破壊しつくし、不要のものとして廃棄処分し冷笑しているこの国で、ダウンタウンのようなグロテスクなお笑い右翼がテレビを支配して国民を教育する国で、その学校空間で、とっくに嘗ての教育基本法の精神を忘れたサラリーマン教師たちは、どのようにこの作品を教えるのだろう。今の日本は死語の世界だ。「信実」は死語となっている。野生動物にもブロイラーにも言葉など必要なく、こんな感じの死語が、きっと幾つもあるのに違いない。


『走れメロス』と「信実」 - 死語の世界の日本_c0315619_15162457.png中学校の国語はとても楽しかった。幸福な時間だった。中学2年の『走れメロス』、『平家物語』、『枕草子』、中学3年の『故郷』の教室風景は今でも覚えていて、国語担任のN先生の授業が懐かしい。中学校のときは国語の授業が楽しくてたまらなかったが、高校に入ると現代国語は休息の時間となり、教科書を机に立てて顔を伏せ、家での睡眠不足を補う時間となった。その結果、本も読まない、文学方面には興味も関心もない残念な子どもになってしまった。生徒が教科を学ぶ上で、教師の存在と関与がいかに大きいかを痛感させられる。教育とは教育者のことだ。N先生は教科書に載っている作品群を強く愛し、そのコミットとリスペクトを情熱的に生徒に伝え、子どもたちを作品と作者の世界に導いていた。皆、作品を愛する人間に育った。『走れメロス』を教える教育課程は、当然、太宰治の人生や人脈や社会的影響を教えることが重要な内容になる。『人間失格』や『斜陽』について簡単に説明することも加わる。N先生の言うには、何でも太宰治に感化されて自殺した教え子が出たとかいうことで、太宰治は偉大で魅力的な天才だけれども、思春期にあまり接近し没入するのは要注意だと、そういう警告を発していた。


私はといえば、『走れメロス』の、まるで小学校低学年向けの絵本の原作のような、西洋古代を舞台にした、シンプルでストレートな、純粋で熱血で勧善懲悪の物語と、デカダンスで自堕落で毒性の強い太宰治のプロフィールと、その二つがあまりに乖離して整合性がないのにただ驚くばかりだった。


〔週刊 本の発見〕『世界を動かす変革の力ーブラック・ライブズ・マター』

2021年01月21日 | 気狂い国家

毎木曜掲載・第187回(2021/1/14)

尊厳が守られ生き抜くこと

『世界を動かす変革の力ーブラック・ライブズ・マター』(アリシア・ガーザ 著、人権学習コレクティブ 監訳、明石書店、2420円)評者:根岸恵子

 

 1月6日のトランプ支持者による連邦議会議事堂への突入は、アメリカという国 の危うさを露呈させ、世界中の人々をげんなりさせた。民主主義だの人道だの人 権だのをお題目のように唱えながら、実は暴力を是認する国家であると改めて考 えさせられた。銃規制をせず戦争大国であるこの国は、いつだって暴力によって 弱者を抑え続けてきたのではないか。暴徒が掲げた南軍の旗、リンチに使われた 首吊り縄は、今でも白人至上主義者によって、こうして象徴的に使われる。

 本書はアリシア・ガーザというブラック・ライブス・マターという運動を始め た一人の女性が書いた、運動論であるとともに、彼女の半生記でもある。アリシ アはサンフランシスコの比較的裕福な地域で育ち、人種的にも多様なところで あったにもかかわらず、彼女はいつも人種的な疎外感を感じていたという。社会 運動に参加していくなかで、彼女の経験値がどう生かされているのか、この本は 時々彼女の感情を吐露させ、またアリシア・ガーザという生身の人間を目の当た りにさせてくれる。

 彼女は巻頭で「私たちの政治活動にとって、最も大切なことは、尊厳が守ら れ、生き抜くことなのである」と述べている。そうこれは命の問題。黒人の命は 大切だ。

 『私はあなたのニグロではない』(2016年 ラウル・ベック監督)という映画 がある。作家で公民権運動家のジェイムズ・ボールドウィンの未完成原稿 『Remember This House』を基にしたドキュメンタリーである。冒頭のシーンは 1968年のTVでのインタヴューで、「なぜ黒人は悲観するのか、黒人の市長もいる し、スポーツ界や政界にも進出している。これだけ世の中が変わっても希望はな いの?」との質問に、ボールドウィンはこう答えている。「希望はないと思って います。問題をすり替えている限りはね。これは黒人の状況の問題ではありませ ん。それも大切ですが、一番の問題は、この国そのものです」。黒人は白人にな りたいのではない。白人のような生活がしたいのでもない。

 私はレーガン政権の一時期アメリカにいた。各地を転々としながら、ロサンゼ ルスは進歩的で開放的なところだと思っていたが、人々は人種や民族、出身国に 分れて居住していた。それぞれのコミュニティは互いに交わることがなく存在 し、そしてそれが制度的であることを後から知った。

 アリシアが「特定人種への不動産売買禁止、レッドライニング、再開発による 高級化、その他の社会的、経済的要因が居住地を形成し、階級と人種によって住 民を分断している」と述べているように、この分断は人種差別を煽る結果になっ ている。

 桐島洋子の『淋しいアメリカ人』は60年代のアメリカを書いたノンフィクショ ンだが、白人の住宅地に黒人が引っ越してくると土地の価格が暴落すると書かれ ている。実際私がいた80年代でさえ、そうであった。白人の住む芝生に囲まれた 住宅地は、黒人は住むことができなかった。そして、分断された人々は他者に対 し疑心暗鬼と恐怖心を生むのだ。

 あるとき、同居人からウエスタン通りのマクドナルドは黒人が経営していて、 白人は怖くて行けないという話を聞いた。私は好奇心旺盛で怖いもの知らずだっ たから、行ってみたいと興味を持った。白人からも黒人からも相手にされない東 アジア人の小娘は、追い出されるか、歓迎してくれるか見てやろうと思ったの だ。しかし、実際行ってみると肩透かしというか、当たり前というか、日本のマ クドナルドと同様な接客を受けただけだった。

 さて、その店内には黒人の偉人たちの写真が並んでいた。たぶんその中にはキ ング牧師やマルコムXの写真が並んでいただろうが覚えてはいない。記憶にある のは唯一の白人ジョン・F・ケネディの写真だった。私はそこに彼らの思慮深い 公平性を見た。私は自分の先入観がどんなに浅はかで差別的であったかを思い知 らされ、「怖い」というのが人々の偏見であることを知った。


*ロドニー・キング殴打事件

 1991年にその近くでロドニー・キングという黒人の若者が警官からひどく殴打 され、それがきっかけで「ロス暴動」が起きた。黒人が在米韓国人に怒りを向け た時、多くのTVが金持ちの韓国人へのねたみだと語っていたが、それは違うと 思った。隣り合うコミュニティの分断政策が生んだ悲劇だと思った。普段から交 友があれば、互いを理解し、こんな暴力は起こらなかったはずだ。アリシアも本 書の中で同じようなことを繰り返し述べている。

 アリシアにとってこの暴動は、のちの彼女の運動に影響を与えただろう。まだ 子供であった彼女にさえ「黒人たちは、自分の生命の価値を貶めてしまうような 根強い人種差別の力学に激怒していた」と感じたのだから。

 ブラック・ライブズ・マターの運動は、2012年にフロリダで17歳のトレイボー ン・マーティンが、白人の自警団ジョージ・ジーマンによって射殺されたことが きっかけで始まった。ジーマンは翌年無罪となり、その憤りがアリシアにSNS上 で#blacklivesmatterを誕生させた。彼女の書き込みには、「黒人の命がかかっ ている」とある。以来、多くの黒人が理不尽にも警官たちに殺されていくたび に、この言葉は大きく広がっていった。

 この運動の特徴は、運動のリーダー(ほとんどは暗殺された)が聴衆の前で訴 えるのではなく、#を付けることで誰でもが運動に参加でき、自分の考えを発信 できることだ。#metoo運動もそうだが、それは世界中に瞬時に広がり、共鳴音 が轟くように人々を立ち上げさせる。しかし、そうした運動は顔の見えない運動 として存在し、アリシアはこれを顔の見える運動にしたいと考える。運動の社会 化と組織化がなければ政治や制度に影響を与えるのは難しいだろう。

 彼女が試行錯誤を続ける中、昨年5月にミネアポリス近郊で、ジョージ・フロ イドが白人警官によって殺された。ブラック・ライブズ・マターの運動は世界中 にデモを起こさせ、かつての侵略者たちの銅像をなぎ倒していった。今までにな かったことだが、先住民の居留地にもブラック・ライブス・マターの旗が翻った。

 先日、アメリカは東京オリンピック(やるのかは不明)において、人種的なパ フォーマンスについて選手の自由に任せ、罰則はしないと公表した。これは、ブ ラック・ライブス・マターの起こした前進であると思う。私はアリシアたちが始 めた運動に未来を感じている。

 1965年キング牧師は、アラバマ州セルマのペタス橋を行進する。映画 『Selma(邦題・グローリー/明日への行進)』(2014年エイヴァ・デュヴァーネ イ監督)は、当時の弾圧と差別のなかでの公民権を求める黒人たちの運動を描い ている。

 このベスタ橋の行進は、過激な警官による暴力がTV放映されたことで、多くの 人々の共感を呼び、黒人だけでなく様々な人々の行進への参加を促す結果になっ た。この行進が政治を動かし、公民権獲得への道筋を開いたといわれる。

 アリシアは今、この橋を再び越えていくだろう。はるかに多くの人々ととも に、はるかに多くの多様な人々とともに。

 「私たちにとって重要なのは、分断されたときにどうやって団結するかなのだ」

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・根岸恵子・志水博子、ほかです。

 

「あるくラジオ」を聞いて~廃線に直面する北海道にとって国鉄闘争は過去ではない/安全問題研究会

2021年01月21日 | 気狂い国家

 森健一さんがゲスト主演された「あるくラジオ」第14回放送(1/8)を聴いた。森さんは地元・鹿児島で教員を務める傍ら、国鉄闘争支援に取り組んだ。退職後、各地を取材して当事者の声を拾い上げ、「戦後史の中の国鉄闘争」を出版した。1時間の番組の中には、森さん自身、そして取り組んできた「労働運動半世紀」の歴史が凝縮していた。

 私自身も国鉄闘争支援を続けてきた中で、懐かしい闘争団員の名

も出てきた。すでに鬼籍に入った人も多い一方で、課題は違えどいまだ地域の中心になり、闘いを支えている人がいる。そうした闘争団員の近況を聞けたことは大きな収穫だった。

 国労つぶしが始まる前に、自動車や東芝・日立などの電機、精密機械を中心に民間大手でまず組合つぶしがあったーーと番組では戦後労働運動史を振り返る。そのときに戦後労働運動の牽引車でもあった官公労がもっと民間労働者と連帯できていれば……とも。歴史に「もし」はないと言うが、「官」と「民」、正規と非正規、男性と女性……連帯されるとまずい労働者同士が手を結びそうな局面、ここが「勝負所」という局面で、資本の側はことごとく労働者同士の紐帯を断ち切ることに成功し、分断支配につなげてきた。番組で語られる戦後労働運動史を聴いていると、敗北に至る転換点がいくつもあったのだということに改めて気付かされる。

 だが、物言う労働者を厄介者扱いし、連帯の紐帯を断ち切り、分断支配した企業が一時的成功を収めることはあり得ても、その成功が何十年、何百年もの長きにわたって続くことなどあり得ない。国労をすりつぶして生まれたJR西日本が福知山線事故という最悪の惨劇を起こしたのは2005年のことだ。そこから遅れること6年後の2011年、破局的事態を引き起こした福島第1原発の原子炉が東芝製だったことを、事故から10年を迎える今年、改めて想起しておかなければならない。「こんな設計、こんな企業体質では心配だけれど、上に言ってもたぶん無駄だろう」ーーそんな企業が送り出す製品やサービスが、顧客、利用者を幸せになどできるだろうか。福知山線と福島での2つの事故が、鮮やかに答えてくれている!

 さらに時代は流れ、東芝は今、福島事故の後始末にあえぐ。日立は日本政府のあれだけの後押しがあったにもかかわらず、海外への原発輸出案件はすべて潰えた。シャープは鴻海に買収され日本企業でなくなった。物言う労働者を隔離部屋に収容して辞めるように仕向け、羊のように飼い慣らされた労働者だけを軍隊のように行進させ、服従させた電機メーカーのほとんどは時代の潮流を読めなくなり、市場から淘汰された。

 JRも同じ凋落の流れの上にある。北海道では2016年に「自社単独では維持困難」な10路線13線区が公表され地元に衝撃が走った。それから4年が経ち、JR北海道が廃線、バス転換を相当とした5線区のうちすでに3線区で廃線が決まっている。国労をつぶせるならローカル線などなくなってもいいーーそのようにして始まった国鉄分割民営化が原因で、今、北海道では「本線」の名称を持つ路線まで次々廃線が決まっていこうとしている。

 1時間の番組も終盤にさしかかる頃、リアルタイムで番組を聴いていたリスナーから「このまま赤字のローカル線はなくなっていくしかないのか」という質問が寄せられた。当研究会の回答は、断じてノーである。たかが赤字ごときで鉄道が廃線になる国など、地球上で日本だけだと断言していい。

 これは私だけでなく、民営化推進派だった石井幸孝JR九州初代社長も同じことを主張している(実際、氏が札幌市の講演でそう言っているのを私は自分の耳で聞いた)。鉄道ライター高木聡さんは『政府は(鉄道輸出で)世界に日本の技術を広めるなどという崇高な理想を語る前に、国内の疲弊しきった鉄道システムを再興させることのほうが先決ではないか。利益至上主義で長距離・夜行列車は消え、台風が来るたびに被災したローカル線が復活することなく消えていく。これは途上国以下のレベルである』と酷評している(注1)。この高木さんの批判に筆者は全面的に同意する。日本の鉄道政策がどれだけ異常かは、安全問題研究会リーフレット「こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策」にまとめているのでぜひ見てほしい(注2)。

 JR北海道が、災害で不通となったままの一部区間(東鹿越~新得)の廃線を提案している根室本線を何とか守ろうと日夜奮闘している佐野周二さんの闘いも紹介された。北海道の「10路線13線区」沿線の存続運動関係者はこの5年間でみんな顔見知りになり、筆者も佐野さんからは賀状をいただいた。この区間は、1981年に石勝線が開通するまで札幌と釧路・根室方面を結ぶ唯一の路線で、食堂車を連結した特急気動車や生活物資を積んだ貨物列車が頻繁に行き交った区間だ。石勝線が災害で不通になれば、代替路線として迂回輸送・貨物輸送の任に当たらなければならないことも十分予想される。

 2018年2月から3月にかけて、北海道交通政策課が「北海道交通政策総合指針」案を取りまとめるに当たり、行われたパブリック・コメントで、当研究会は根室本線のこの区間について「石勝線が不通となった場合における貨物輸送の迂回ルートとして維持を明確にすべきである」との意見を提出した。パブコメなど所詮「ガス抜き」に過ぎないと思っていたら、道交通政策課は根室本線のこの区間について「検討にあたっては、道北と道東を結ぶ災害時の代替ルートとして、また、観光列車など新たな観光ルートの可能性といった観点も考慮することが必要である」と、当研究会の意見を一部反映させる記述の修正を行った(注3)。災害時の代替ルートであるとの認識を道に持たせることができたことは、この区間の存続に向け、大きな前進を勝ち取ったと考えている。

 道東・道北地方にとって生命線であるこんな重要路線すら廃線を提案するJR北海道には公共交通事業者としての基本的資質が欠けている。貨物は自社の事業でないから言及する立場にないというのであれば、旅客と貨物を別会社に分割した国の責任を問わなければならない。

 JRは公共交通であり、日本製が買えなくなっても外国製を買えばいい家電製品とは違う。かつて国民の信頼を集め、戦後日本の復興の中心的役割を果たしてきた鉄道を再建するために、どんな方法があるのか。今回、安全問題研究会はこの課題にひとつの回答を示した。以下のURLに、JRグループ再国有化のための法案「日本鉄道公団法案」を載せている(注4)。昨年春くらいからずっと練っていた法案の構想を、年末年始で一気に形にした。国会に議員立法で提出し、可決を目指している。この法案を国会がそのまま可決してくれれば、5年後には再国有化が成る。この法案を、森さん、佐野さんにもぜひ届けたいと思う。

注1)国が推進「オールジャパン鉄道輸出」悲惨な実態(東洋経済)
 https://toyokeizai.net/articles/-/375911

注2)安全問題研究会リーフレット「こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策」
 https://transportation.sakura.ne.jp/local/180118okashiileaf.pdf

注3)「北海道交通政策総合指針」案に対する意見募集結果(道交通政策課)
 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/stk/koutuuseisakusisin_ikennbosyuu2.pdf
 このリンク先の17ページ目に当研究会が提出した意見が記載されている。これを受け、修正された交通政策総合指針が以下のページ。

 北海道交通政策総合指針(修正後)「鉄道網の展望」
 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/stk/koutuuseisakusisin_6.pdf
 このリンク先の9ページ目に記載の表中、「根室線(富良野~新得間)」が、当研究会の意見を受け修正された記載である。

注4)日本鉄道公団法案
 https://transportation.sakura.ne.jp/local/koudan/koudanhouan-top.html

(文責:黒鉄好)


〔週刊 本の発見〕『日本型新自由主義の破綻―アベノミクスとポスト・コロナの時代』

2021年01月21日 | 米国発の時限爆弾

「経済人間」から「倫理人間」へ

『日本型新自由主義の破綻―アベノミクスとポスト・コロナの時代』(稲垣久和+土田修、春秋社、2020年12月刊、1800円)評者:志真秀弘

 

 「コロナ対策か、経済を回すか」などという二者択一がまかり通るのはどうしてだろうか。両方ともまともになされていないのが実態なのにそれを隠し、見ぬかれないために、どちらをとるかと無意味な二者択一を迫る。政府側のこのあざとい仕掛けをマスコミが厚化粧して隠してしまう。本書は問題の根本を捉えることで、こうしたカラクリを明らかにする。タイトルは、いささかしかつめらしく感ずるが、本書は一読きわめて具体的で、運動のための実践知が詰まっている。

 羽田都心ルート反対運動の章はその実例である。この羽田から都心上空を経るルートがどれほど危険かは、たやすくわかるが、それが譲れない「国策」であることを、本書で私は初めて知った。「儲かる東京」(小池都知事)を掛け声に、羽田を外国人訪日客優先で1日50便増便するのがこの危険なルート開発の理由というから驚く。東京オリンピックに間に合わせることを決め台詞よろしく使い、カジノ誘致(IRリゾート)までこれに絡めるやり方には著者ならずとも呆れるしかない。が、利益こそすべてなのであって都民の生活などどうでもいい、たかが騒音くらいなんでもない、それが彼らの本音だ。そして昨年3月末、コロナ蔓延でがら空きになった飛行機が、緊急事態宣言下の東京の真上を、予定通り発着開始した。

 まるでブラックコメディだと、しかし笑ってはいられない。いまのわれわれ自身の問題でもある。そう著者は指摘する。だからこそ著者の稲垣は都心ルート反対運動に立ち上がった。(*写真=ツイッターより)

 新自由主義は、もともとはシカゴ学派に代表される流れを指していたが、今や現代資本主義の特徴を示す言葉になった。労働条件が極限まで切り下げられ、1%たらずの超富豪がますます富む社会をもたらしたのは、間違いなく新自由主義である。日本に即して言えば中曽根の国鉄民営化=国労潰しを発端に小泉・竹中のもとで大手を振って進んだ。その根っこにあるのは利益第一主義・経済優先主義の人間観に他ならない。この非人間的人間観こそ問題なのだ。

 運動のなかで倫理・モラルを第一とする人間観へとそれを転換することを著者は主張する。過日の〈あるくラジオ〉の番組「国鉄闘争とはなんだったのか」で森健一さんは国労闘争団を支えたのは、仲間と共に生きる道徳性だと語っていた。著者の主張も森さんのそれと同じ趣旨と言っていい。

 「一人一人の生活から立ち上がる実践的な住民運動を理論化すること」だと、著者は述べている。それはわれわれの人間観・人間性を考え創ることにつながるはずだ。「経済人間から倫理人間へ」の主張も意味深い。

 本書はフランスの「黄色いベスト運動」を新自由主義の権化マクロン政権への抵抗闘争として詳しく紹介している。このほかにもスペインはじめ「新しい階級闘争」がヨーロッパ・アメリカなど各地に広がろうとしているとの指摘は興味深い。こうした国際的な視野に加えて、「公共性」をめぐる洞察、オリンピックへの批判、コロナ禍をめぐる提起も実際的であり、読みどころは数えきれない。

 物理学を修め、哲学・神学を学んだ著者稲垣と国際ジャーナリスト土田との協働が実った思慮深く実践的な好著である。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・根岸恵子・志水博子、ほかです。