図書館で、加来耕三という歴史作家の 『歴史の失敗学: 25人の英雄に学ぶ教訓』を読んだ。山岡宗八の大絵巻、徳川家康を読んでも、家康は必ずしも、戦いで成果を上げていないし、天下取りにしても、棚から牡丹餅で、いささか姑息な策略で採っている。この大絵巻からも、色々教訓が得られるが、歴史の失敗学では、手際良く教訓がまとめられていて面白かった。
そういう事で、
◎家康は想像できないほどの絶望の中でも寛容さを持つことができた人物。長男の松平信康を死なせた家臣の酒井忠次(さかい・ただつぐ)を、徳川四天王の1人として重用していると指摘。
◎武田信玄との「三方ヶ原の戦い」大敗も、家康は史書に記述させ、敗北を子孫に学ばせるためだったと指摘。
◎更には、三方ヶ原の失敗を武田信玄の勝った立場から学び、関ヶ原の成功をもたらしているという。
◎あるいは、秀吉が豊国神社に「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」として神と祀られるようになったのなら、俺もなろうと自分も神になろうとする。家康は「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」として神格化され、日光東照宮などに祀られています。
◎家康は幼少期を織田氏や今川氏の下で人質として過ごし、我慢を強いられて育った経験が家康の性格に影響していると指摘。家康は絶望の中で開き直り、悟った。自分より能力が高い部下がいれば、使えばいい。軒(のき)を貸すだけでなく、母屋(おもや)まで貸してもいいといった度量がありました。
◎自分の力量の限界を知る家康は、部下にすがるしかありませんでした。だから優秀な部下に対して、寛容さを発揮しました。長男さえも自刃させる羽目に陥った経験はつらいものです。天下を取ったが、天下人の座は何日続くのかと考える。豊臣家を滅ぼしたら、今度は自分の死んだ後が心配になる。家康は生き残るのに必死でした。それでも頑強だったから、天下を取れた。現代人も、自分の体力を過信すると、ここぞというときに病気をします。そうならないように家康は気を付けていました。 あの時代にしては珍しく、家康には「予防医学」とも言える健康に対する強い関心がありました。毎朝起きたら刀を振る。馬に乗って、弓を引く。鷹狩りにも出かける。普通なら獲物がいないとやめるが、家康は最初のルール通りにやる。体を動かし、汗をかくのがいいことを知っていました。
◎家康は医学に詳しく、調合した秘薬がいくつもあり、大名たちが欲しがっていたほどです。家康が死んだ後も、大名たちはどうやったら秘薬が手に入るのかを気にしていた。
◎秘薬を分け与える際のランクまで家康は決めていました。この薬は2親等、あの薬は3親等までなら与えるといった感じです。家康は自分の寿命を本当に真剣に考えていました。自分が死んだら徳川家はなくなる。だから1日でも長生きしたいと。
◎健康に徹底してこだわっており、家康はリスクがある女性を近づけませんでした。秀吉は手当たり次第でしたが、家康は違います。朝鮮出兵で有名な加藤清正は、梅毒で死んだという説があります。浅野幸長(あさの・よしなが)が梅毒で死んだことは徳川家の「当代記」に記されており、加藤清正についても「好色の故、虚の病」といったふうに指摘されています。
◎むやみやたらと手を出さなかったのは、リスク管理のためだったように思います。家康には多くの側室がいましたが、一度子供を産んでいる女性を好んで選びました。この結果、家康は11男、5女という多くの子宝に恵まれました。
◎家康がそんなところにまで気を配っていたとは驚きです。健康管理にかけては、信長や秀吉と比べて一枚も二枚も上手だったんですね。慎重な性格がうかがえます。
と言うような事で、何度読んでも、面白い本であった。
実験ではイオン性電解液を使い、この点でもこのプロトタイプのセルは安全で、現状ではポリマーでコーティングした柔軟性のある小袋に収められている。電池の電圧は2ボルトで、デモビデオには、プロトタイプの電池2つを使ってスマートフォンを“1分弱で”充電する様子が写されている。
ただ、、電圧もエネルギー密度も、商用化のレベルには達していない。スタンフォードの化学の教授Hongjie Daiが、Stanford Report誌で、 “アルミ電池は典型的なリチウム電池の約半分の電圧だが、正極の素材を改良すれば電圧とエネルギー密度を上げることができ、安価な電極、高い安全性、高速充電、長寿命”とのべている。
基礎科学は、落ち着いて見れば、人間の将来に重要なテーマがごろごろ存在している。所が、基礎科学に従事している研究者、公共の研究所や大学や民間でも、すべからく、研究費の削減で、四苦八苦している。基礎科学軽視政策の為である。政治家や企業等の経営トップは考えを改めないと、日本は沈むしかない。