多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

はじめての能

2009年05月01日 | 日記
4月24日はじめて能をみた。「のうのう能」という入門者向け講座で、演目は「(ぬえ)」、舞台は矢来能楽堂だった。

矢来能楽堂は、神楽坂の新潮社別館の角を西に入ったところにある。1952年完成という50年以上の歴史をもつ古い建物だった。門から玄関まで20mほどあり両側に木が植わっている。そういえば昔はこんな家があったなと思い出した。本舞台は5.4m四方、座席数300の規模である。後ろの板壁(鏡板)には松が描かれ、左手の橋掛がりの前には3本の松が植えられている。たしか床は足音が響く構造になっているはずである。
観客は8割が女性、和服の方もちらほら見える。意外だが若い人の姿もみえる。入門講座だからかもしれない。
鵺は、頭はサル、体はタヌキ、手足はトラ、尾はヘビ、「ヒョーヒョー」とトラツグミの声で鳴く妖怪である。「鵺」のストーリーは次のとおり。近衛天皇を悩ませた怪鳥鵺を弓の名人、源三位頼政が退治し死骸を丸太をくりぬいた舟に乗せ川に流すと芦屋の浜に漂着した。旅の僧が一夜の宿を州崎のお堂に取ったところ、舟に乗った怪しい影が近づく。旅の僧が問いかけると、成仏できずさ迷う鵺の亡霊だと告げ、自分の生涯を語る。ここで中入りに入る。僧が供養すると、今度は鵺そのものの姿の亡霊が現れどのようにして頼政に殺され、川に流されたかを舞で表現する。
ストーリーは源頼政の鵺退治という単純なものだ。しかし同じ話を、一度は怪しい舟人の語り、2度目は里の男(間狂言)の語り、最後に鵺自身が舞で表現と3度異なるかたちで表現される演劇的な構成になっている。また主人公は勝者の頼政でなく、殺されてこの世にいない鵺であり、自分の過去を語らせてものの哀れを表現しているところが能の特徴なのだろう。頼政自身もその後1180年5月、以仁王の乱の宇治平等院の戦いで敗れ自害した。
ワキ(旅の僧)と間狂言のセリフは聞いて理解することができた。古文のなかでは比較的平易な平家物語の文とほぼ同文だったからだ。「よっ引きひやうと放つ」と、那須与一と同じセリフも聞こえた。しかし能面を着けているシテ(船人および鵺)や合唱の地謡の声はセリフとしては聞き取れなかった。声明のようなお経を聞いているのと同じ状態だ。だから眠くなる。
囃子方というが、いつも演奏しているのは鼓だけで「ヒー」の笛(能管)はときどき程度の登場、太鼓はほとんど出番がないことがわかった。鼓の「ヤー」とか「ヨー」という掛声と鼓の音は予想以上に大きかった。大鼓、小鼓の位置づけはリズム楽器ではなく、それ自体がバックグラウンドミュージックというか効果音というか、不思議な存在だった。
また4人の地謡が何ともいえない。語り物ではないのでやはりコーラスの一種だが、ハーモニーはなくメロディ(抑揚)も乏しい。どちらかというとリズム楽器に近い使い方だ。合唱であることは確かだし、正しい発声法でないと出ないような声ではあるが、5度上がったり4度下がったりするものの、これが音楽なのかどうか謎だ。日本の「声」でも、木遣りや民謡はもう少し音楽らしく聞こえる。リズムははっきりしているのでテクノポップのヴォーカルのような感じだった。謡っている方はトランス状態に入っているのかもしれない。

この日は入門講座なので、観世喜正さんから能のパターン、鵺のストーリーの解説のあと、全員で「矢取って打ち番い 南無。八幡大菩薩と。心中に祈念して」から「落つる所を猪の早太つつと寄りて続けさまに九刀ぞ刺いたりける」まで鵺退治の一節の謡いの指導を受けた。腹式呼吸でよく声の出ている方もいた。
また、能装束の説明でシテの着付けの実演があった。この日はハデな金銀の厚板の上に、透けてみえる水衣を羽織っていた。和服は大きめにできていて、飾り紐で止めることで体形に合わせて。また装束のひとつにカツラがあり、前半はシャグマの毛を黒に染めた黒毛、後半は赤毛である。赤毛は、遊就館でみた官軍のカツラと同じにみえた。
シテがつけている面は前半が怪士(あやかし)、後半が猿飛出(さるとびで)だった。怪士は男の幽霊で仮の姿、猿飛出は猿の化け物で鵺の本体を表す面である。猿飛出は観世流に代々伝わる貴重な面だそうだ。目がギラギラしてたしかに迫力があった。
観世流はシテ方五流(観世、宝生、金春、金剛、喜多)のひとつである。「入門 能の世界」によれば特徴は「優美、繊細な芸風」だそうだが、はじめてみたわたくしにはもちろん違いなどわからない。
能のファンは、舞や声の張りに関心があるのだろうか。見慣れると、能面や衣装の違いにも興味がわくのかもしれない。今回はほとんどわからなかったが、今後何回かみれば様式美の世界なので、他の芸能と同じようによさがわかってくるかもしれない。

☆戦前の話かもしれないが、良家の子女には謡をならう習慣があったそうだ。映画でも戦争直後1949年の小津安二郎の「晩春」に、笠と原の親子が能をみに行き、父の再婚候補の三宅邦子を見かけるシーンがあった。そういえば家のなかに能面を飾ってあるお宅が近所にあった。
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