今年は平成天皇即位20年、美智子との結婚50年の年である。NHKの「天皇皇后両陛下 素顔の50年」をはじめ奉祝番組が放映されている。こうした風潮に反対の意志表示をするため、3回目の「昭和の日」の4月29日「「天皇在位20年」も「昭和の日」も祝わない! 4.29行動へ!」が文京区民センターで開催された(主催:4.29行動実行委員会 参加125人)。佐野通夫さんの講演と4人の方のリレートークがあった。
●天皇と朝鮮侵略と現在と 佐野通夫さん(大学教員/植民地教育史)
本日は、朝鮮解放後のことを軸に、天皇の戦争責任と現在について考えたい。
まず朝鮮支配のあいだ、日本は朝鮮人に対し創氏改名、日本語教育など「同化」政策を強要した。しかし、朝鮮人と日本人をけして同じようにしていないことに注意する必要がある。たとえば水野直樹『創氏改名』で詳述されているように、総督府は朝鮮人が日本人と同じ名にすることを阻止しようとし、「李家」(りのいえ)、張本(はりもと)など一目瞭然で朝鮮人とわかる名前にさせて、「印」を付けようとした。
[解放後の在日朝鮮人教育]
では解放後はどうなったか。45年の朝鮮解放直後から、各地で在日朝鮮人は自主的に朝鮮語学習を開始した。それまで朝鮮語は禁止されていたからだ。
47年5月3日は日本国憲法施行の日だが、その前日、大日本帝国憲法最後の日に、天皇の最後の勅令「外国人登録令」が公布・即日施行された。いわゆるポツダム勅令だ。当時は占領下で自由に人が入国できるわけでもなく、外国人といっても事実上朝鮮人・台湾人だけ登録する勅令だ。また46年4月10日衆議院選が行われた。婦人参政権の付与で有名だが、同じ大日本帝国臣民にもかかわらず在日の人の投票権を一方的に「停止」した。国民の範囲はあいまいなかたちのままだった。
教育の面では、文部省は48年1月「朝鮮人設立学校の取扱について」という学校教育局長通達を発し、3月に閉鎖命令を出した。朝鮮人は日本人だから、日本の学校教育法が適用される。だから日本の学校に行け、という理屈だった。片や外国人登録させているにもかかわらずだ。4月に阪神教育闘争が発生し「非常事態宣言」が発令されて多数が検挙され、4月26日には大阪で16歳の朝鮮人少年が警察に射殺された。
8月に大韓民国、9月に朝鮮民主主義人民共和国が成立し、49年には弾圧がいっそう強まった。各地の朝鮮学校は接収され、看板だけ「公立朝鮮人学校」と掛け替えた。当時は世間の差別意識がいま以上に強く、朝鮮人と日本人を同じ学校に入れることへの反発が強かったからだ。教育委員会はその学校に日本人教師を派遣した。
いまから57年前の1952年4月28日はサンフランシスコ講和条約が発効した日だ。同日、日本国憲法が成立していたにもかかわらず、法務省民事局長通達により在日朝鮮人や台湾人は日本国籍を「離脱」した。はく奪したといってもよい。同日、日華条約が締結(発効は8月5日)されたが、最高裁はこれを台湾人の国籍離脱の根拠にしている。そして朝鮮人は日本人ではないのだから教育費を負担することはないと放り出した。多くの在日朝鮮人の子どもは不就学となった。公立朝鮮学校は自主学校になった。現在、朝鮮学校は自動車学校や予備校と同じ各種学校として認可されている。各種学校の場合、1条校とは異なり国からの補助金は出ないし、生徒は通学定期を買えない。また学校でないからと、スポーツ大会にも出場できなかった。この状況は1991年全国高等学校野球連盟、94年全国高等学校体育連盟、97年全国中学校体育連盟への加入を認められるまで続いた。
また大学入学資格もない。海外の学校に12年通えば大学受験できるのに、日本国内にある学校に通っていて受験できないのである。2003年3月欧米系のインターナショナルスクール卒業生にだけ大学受験資格を与えようという動きがあったが、それはおかしいということで、9月に本国で大学受験できる学校のみ日本の大学入学資格を認めることになった。その後、台湾系の学校や韓国学園は大学入学資格を認められるようになった。しかし朝鮮学校だけは認められない。台湾とは国交がないにもかかわらずだ。ただ各大学が認めた場合のみ受験できることになった。
[外国人労働者の急増]
1990年に入管法が改正されるまで外国人労働者は入国させないということが建前になっていた。しかし実態は異なる。イラン人やパキスタン人を、不法滞在のかたちで労働力にしていた。家族はダメだが労働力ならよいという考えだった。ただし定住の動きがみられると一斉摘発し強制送還し、別の国の外国人を入れ次々に安い労働力を調達した。
90年の入管法改正により、日系ブラジル人を入れ自由に働けるようにした。いま外国人登録している人数は、中国、韓国・朝鮮人に次ぎ31万人に上る。
問題は子どもの教育だ。香川県善通寺市のケースで説明する。善通寺には加ト吉の工場がありブラジル人労働者が多数働いていた。親が学校への入学を要望すると、市教委は要望は聞くものの就学通知を出さなかった。この問題は92年にNHKの番組で報道された。その後、市教委は日本人の学校には入学させず、小学生も中学生も同じクラスの「アミーゴ学級」をつくり「学校に行かせた」とごまかそうとした。また親が市教委に「学校に行かせろ」と要望しないよう企業の労務担当に圧力をかけた。この事実は97年に毎日新聞で報道され問題になった。
2007年に開催されたフォーラムで、こんな事例が報告された。ブラジル人のこどもが日本の小学校に通っていて激しいいじめを受け、遠くにあるブラジル人学校に転校することになった。しかし通学定期が買えないので4万円かかり、学校への補助がないため学費が月10万円もかかる。ただでも困窮している家庭が多い。また外国人も日本人と平等に納税しているにもかかわらずだ。「在留外国人統計」(法務省)では5―14歳の登録者は97年以降毎年増え2005年に12万3713人に達する。一方「学校基本調査報告書」(文科省)によれば小中学校に在籍する外国人は97年以降毎年減り8万7402人しかいない。差が3万6000人もあり、しかも97年以降どんどん大きくなっている。
まさに朝鮮学校で45年から52年に起きたのと同じことが21世紀初頭のいまふたたび起こっている。45年に天皇制を清算できなかったことが21世紀の日本にどんな結果をもたらしたかという一つの表れである。
休憩をはさみ4人の方のリレートークがあった。発言のごく一部を紹介する。
●外山喜久男さん(「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会)
神奈川県教委は、県の審議会、審査会でともに県の卒入学式の不起立個人情報収集は「不適当」と答申したのに、いまも教員の名前を収集している。そこで、昨年11月17日原告18人で「君が代不起立個人情報保護裁判」を提訴した。また「県がやっていることは不当だ」と再び審査会の判断を求めることにした。裁判は6月3日に第2回口頭弁論が行われる
●なすびさん(山谷労働者福祉会館)
利権を求めて日本国粋会金町一家が山谷に現れたのは1983年11月の朝だった。以降山谷争議団との対立が続き84年に佐藤満夫が刺殺され、86年に山岡強一が射殺された。資本主義の創成期から紡績工、炭鉱不夫など労働集約的な産業の労働力の手配は博徒や右翼が担っていた。土建業者が政治化したのが天皇主義右翼だからだ。日本国粋会は1919年に結成したが、原敬内閣の内務大臣が世話役であり、はじめから国家や資本主義の肝煎りであった。
83年と現在を比較すると、どちらも山谷の仕事が減った点でバックグラウンドが似ている。また当時、山下公園で野宿者を少年が殺害する事件が話題になったがその点も似ている。しかし違う点もある。カルデロンさん一家の問題でネット右翼がデモをかけたがその際「在日特権を許さない市民の会」と、「市民」を名乗っていた。いま炊き出しがやりにくくなっている。率先して反対するのは地域住民で、それを煽るのがネット右翼だ。
そこで今後の課題として、市民社会との対話によるパイプづくりを考えている。右翼やヤクザは、資本のバックアップのもとにこれだけの影響力をもつようになった歴史をきちんと表現していきたい。
●井上森さん(立川自衛隊監視テント村)
保守派ブログの管理人とネット上で親しくなり、保守的心情の分析が必要ではないかと考えた。2つの特徴がみられる。ひとつは現実離れした理想主義、観念論である。たとえば言論の自由や民主主義のない中国共産党批判をするが、中国経済の大きさを認めようとしないので、共犯関係に立つ日本の資本がみえてこない。
もうひとつは普遍主義を捨てた小国主義、相対主義である。議論をして旗色が悪くなると、最後は「日本人には日本人のいいところがある。そこに外国から口出しされたくない」という。戦前の帝国主義、「八紘一宇」にはみられない心情だ。これは戦後の天皇制とも親和的である。
●近藤和子さん(女性と天皇制研究会)
昨年10月日本橋高島屋で開催された「皇后さまと子どもたち」写真展と今年4月日本橋三越本店で開催された写真展「両陛下と旅」を見た。圧倒的に70代のミッチーファンの女性が多かった。杖をつき、目をうるませている人もいた。口ぐちに「このときお籠りになられていた。やせてしまってかわいそう」「おいたわしや」などと感想を述べていた。若い人は、あまり関心がなく雅子の適応障害で皇室の行方は暗いと感じているようだ。
最後に集会アピールが読み上げられた。最後の部分だけ引用する。
「私たちは、歴史の改竄のうえに居座り続け、今の社会のさまざまな矛盾や不公正さを、隠ぺいしあるいは慰撫する装置としての天皇制に声を上げ続けなければならないと考えている。また、秋に向けた「天皇即位20年奉祝」に反対するさまざまな言論、表現を多くの人とともにつくりあげ、行動していくことを宣言する」
☆このあと恒例のデモに移った。天皇制に反対し「昭和の日」を祝わない人がこれだけいることを示す重要なイベントだ。集会中は右翼の街宣車が押し寄せ騒音をまき散らしていたが、デモのときには姿を表さなかった。「昭和の日、反対!」「昭和天皇の誕生日を祝わないぞ!」のシュプレヒコールの声を上げた。
同日1時から4時まで九段会館で「昭和天皇のご聖徳を伝えつぐ集い」が開催された。福田和也の記念講演「昭和天皇の青春」、デュークエイセスの「日本を歌う」などのプログラムだったようだ。この集会は91年から始まり今年18回だが、今回でめでたく終了とのことである。
●天皇と朝鮮侵略と現在と 佐野通夫さん(大学教員/植民地教育史)
本日は、朝鮮解放後のことを軸に、天皇の戦争責任と現在について考えたい。
まず朝鮮支配のあいだ、日本は朝鮮人に対し創氏改名、日本語教育など「同化」政策を強要した。しかし、朝鮮人と日本人をけして同じようにしていないことに注意する必要がある。たとえば水野直樹『創氏改名』で詳述されているように、総督府は朝鮮人が日本人と同じ名にすることを阻止しようとし、「李家」(りのいえ)、張本(はりもと)など一目瞭然で朝鮮人とわかる名前にさせて、「印」を付けようとした。
[解放後の在日朝鮮人教育]
では解放後はどうなったか。45年の朝鮮解放直後から、各地で在日朝鮮人は自主的に朝鮮語学習を開始した。それまで朝鮮語は禁止されていたからだ。
47年5月3日は日本国憲法施行の日だが、その前日、大日本帝国憲法最後の日に、天皇の最後の勅令「外国人登録令」が公布・即日施行された。いわゆるポツダム勅令だ。当時は占領下で自由に人が入国できるわけでもなく、外国人といっても事実上朝鮮人・台湾人だけ登録する勅令だ。また46年4月10日衆議院選が行われた。婦人参政権の付与で有名だが、同じ大日本帝国臣民にもかかわらず在日の人の投票権を一方的に「停止」した。国民の範囲はあいまいなかたちのままだった。
教育の面では、文部省は48年1月「朝鮮人設立学校の取扱について」という学校教育局長通達を発し、3月に閉鎖命令を出した。朝鮮人は日本人だから、日本の学校教育法が適用される。だから日本の学校に行け、という理屈だった。片や外国人登録させているにもかかわらずだ。4月に阪神教育闘争が発生し「非常事態宣言」が発令されて多数が検挙され、4月26日には大阪で16歳の朝鮮人少年が警察に射殺された。
8月に大韓民国、9月に朝鮮民主主義人民共和国が成立し、49年には弾圧がいっそう強まった。各地の朝鮮学校は接収され、看板だけ「公立朝鮮人学校」と掛け替えた。当時は世間の差別意識がいま以上に強く、朝鮮人と日本人を同じ学校に入れることへの反発が強かったからだ。教育委員会はその学校に日本人教師を派遣した。
いまから57年前の1952年4月28日はサンフランシスコ講和条約が発効した日だ。同日、日本国憲法が成立していたにもかかわらず、法務省民事局長通達により在日朝鮮人や台湾人は日本国籍を「離脱」した。はく奪したといってもよい。同日、日華条約が締結(発効は8月5日)されたが、最高裁はこれを台湾人の国籍離脱の根拠にしている。そして朝鮮人は日本人ではないのだから教育費を負担することはないと放り出した。多くの在日朝鮮人の子どもは不就学となった。公立朝鮮学校は自主学校になった。現在、朝鮮学校は自動車学校や予備校と同じ各種学校として認可されている。各種学校の場合、1条校とは異なり国からの補助金は出ないし、生徒は通学定期を買えない。また学校でないからと、スポーツ大会にも出場できなかった。この状況は1991年全国高等学校野球連盟、94年全国高等学校体育連盟、97年全国中学校体育連盟への加入を認められるまで続いた。
また大学入学資格もない。海外の学校に12年通えば大学受験できるのに、日本国内にある学校に通っていて受験できないのである。2003年3月欧米系のインターナショナルスクール卒業生にだけ大学受験資格を与えようという動きがあったが、それはおかしいということで、9月に本国で大学受験できる学校のみ日本の大学入学資格を認めることになった。その後、台湾系の学校や韓国学園は大学入学資格を認められるようになった。しかし朝鮮学校だけは認められない。台湾とは国交がないにもかかわらずだ。ただ各大学が認めた場合のみ受験できることになった。
[外国人労働者の急増]
1990年に入管法が改正されるまで外国人労働者は入国させないということが建前になっていた。しかし実態は異なる。イラン人やパキスタン人を、不法滞在のかたちで労働力にしていた。家族はダメだが労働力ならよいという考えだった。ただし定住の動きがみられると一斉摘発し強制送還し、別の国の外国人を入れ次々に安い労働力を調達した。
90年の入管法改正により、日系ブラジル人を入れ自由に働けるようにした。いま外国人登録している人数は、中国、韓国・朝鮮人に次ぎ31万人に上る。
問題は子どもの教育だ。香川県善通寺市のケースで説明する。善通寺には加ト吉の工場がありブラジル人労働者が多数働いていた。親が学校への入学を要望すると、市教委は要望は聞くものの就学通知を出さなかった。この問題は92年にNHKの番組で報道された。その後、市教委は日本人の学校には入学させず、小学生も中学生も同じクラスの「アミーゴ学級」をつくり「学校に行かせた」とごまかそうとした。また親が市教委に「学校に行かせろ」と要望しないよう企業の労務担当に圧力をかけた。この事実は97年に毎日新聞で報道され問題になった。
2007年に開催されたフォーラムで、こんな事例が報告された。ブラジル人のこどもが日本の小学校に通っていて激しいいじめを受け、遠くにあるブラジル人学校に転校することになった。しかし通学定期が買えないので4万円かかり、学校への補助がないため学費が月10万円もかかる。ただでも困窮している家庭が多い。また外国人も日本人と平等に納税しているにもかかわらずだ。「在留外国人統計」(法務省)では5―14歳の登録者は97年以降毎年増え2005年に12万3713人に達する。一方「学校基本調査報告書」(文科省)によれば小中学校に在籍する外国人は97年以降毎年減り8万7402人しかいない。差が3万6000人もあり、しかも97年以降どんどん大きくなっている。
まさに朝鮮学校で45年から52年に起きたのと同じことが21世紀初頭のいまふたたび起こっている。45年に天皇制を清算できなかったことが21世紀の日本にどんな結果をもたらしたかという一つの表れである。
休憩をはさみ4人の方のリレートークがあった。発言のごく一部を紹介する。
●外山喜久男さん(「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会)
神奈川県教委は、県の審議会、審査会でともに県の卒入学式の不起立個人情報収集は「不適当」と答申したのに、いまも教員の名前を収集している。そこで、昨年11月17日原告18人で「君が代不起立個人情報保護裁判」を提訴した。また「県がやっていることは不当だ」と再び審査会の判断を求めることにした。裁判は6月3日に第2回口頭弁論が行われる
●なすびさん(山谷労働者福祉会館)
利権を求めて日本国粋会金町一家が山谷に現れたのは1983年11月の朝だった。以降山谷争議団との対立が続き84年に佐藤満夫が刺殺され、86年に山岡強一が射殺された。資本主義の創成期から紡績工、炭鉱不夫など労働集約的な産業の労働力の手配は博徒や右翼が担っていた。土建業者が政治化したのが天皇主義右翼だからだ。日本国粋会は1919年に結成したが、原敬内閣の内務大臣が世話役であり、はじめから国家や資本主義の肝煎りであった。
83年と現在を比較すると、どちらも山谷の仕事が減った点でバックグラウンドが似ている。また当時、山下公園で野宿者を少年が殺害する事件が話題になったがその点も似ている。しかし違う点もある。カルデロンさん一家の問題でネット右翼がデモをかけたがその際「在日特権を許さない市民の会」と、「市民」を名乗っていた。いま炊き出しがやりにくくなっている。率先して反対するのは地域住民で、それを煽るのがネット右翼だ。
そこで今後の課題として、市民社会との対話によるパイプづくりを考えている。右翼やヤクザは、資本のバックアップのもとにこれだけの影響力をもつようになった歴史をきちんと表現していきたい。
●井上森さん(立川自衛隊監視テント村)
保守派ブログの管理人とネット上で親しくなり、保守的心情の分析が必要ではないかと考えた。2つの特徴がみられる。ひとつは現実離れした理想主義、観念論である。たとえば言論の自由や民主主義のない中国共産党批判をするが、中国経済の大きさを認めようとしないので、共犯関係に立つ日本の資本がみえてこない。
もうひとつは普遍主義を捨てた小国主義、相対主義である。議論をして旗色が悪くなると、最後は「日本人には日本人のいいところがある。そこに外国から口出しされたくない」という。戦前の帝国主義、「八紘一宇」にはみられない心情だ。これは戦後の天皇制とも親和的である。
●近藤和子さん(女性と天皇制研究会)
昨年10月日本橋高島屋で開催された「皇后さまと子どもたち」写真展と今年4月日本橋三越本店で開催された写真展「両陛下と旅」を見た。圧倒的に70代のミッチーファンの女性が多かった。杖をつき、目をうるませている人もいた。口ぐちに「このときお籠りになられていた。やせてしまってかわいそう」「おいたわしや」などと感想を述べていた。若い人は、あまり関心がなく雅子の適応障害で皇室の行方は暗いと感じているようだ。
最後に集会アピールが読み上げられた。最後の部分だけ引用する。
「私たちは、歴史の改竄のうえに居座り続け、今の社会のさまざまな矛盾や不公正さを、隠ぺいしあるいは慰撫する装置としての天皇制に声を上げ続けなければならないと考えている。また、秋に向けた「天皇即位20年奉祝」に反対するさまざまな言論、表現を多くの人とともにつくりあげ、行動していくことを宣言する」
☆このあと恒例のデモに移った。天皇制に反対し「昭和の日」を祝わない人がこれだけいることを示す重要なイベントだ。集会中は右翼の街宣車が押し寄せ騒音をまき散らしていたが、デモのときには姿を表さなかった。「昭和の日、反対!」「昭和天皇の誕生日を祝わないぞ!」のシュプレヒコールの声を上げた。
同日1時から4時まで九段会館で「昭和天皇のご聖徳を伝えつぐ集い」が開催された。福田和也の記念講演「昭和天皇の青春」、デュークエイセスの「日本を歌う」などのプログラムだったようだ。この集会は91年から始まり今年18回だが、今回でめでたく終了とのことである。